怠惰という自然・ネアンデルタール人論45

 この世の中には生きのびる能力を豊かに持っている人がいて、そういう人に先導されて人類の歴史は動いてきたのか?
 そうじゃない。
 この世の中に生きのびることができない人たちがいて、その人たちと一緒に生きてゆこうとしながら歴史が動いてきた。人の心は、自然にそういうところに焦点を結んでゆく。それは、熾き火を眺めることと同じで、心は、ゆらめきながら消えてゆこうとしているものに引き寄せられてゆく。
 人類の歴史は、生きられない人こそが先導してきた。
 人は他者を生かすことによって生きている、他者を生かさないことには生きられない、人間とはそういう存在であり、そのようにして介護の文化が生まれてきたのではないでしょうか。そしてそれは、ただたんに「かわいそう」というのではない。その「生きられない」という生のかたちに対するあこがれのようなものがはたらいている。すなわち「消えてゆく」ということ、消えてゆこうとしているもののゆらめきこそ美しい。この生のはたらきは、消えてゆこうとしていることのゆらめきである、ともいえる。そうやって人の心は、火のゆらめきや水のきらめきや宝石の輝きに引き寄せられてゆく。
「生きられない」というということは、たんなる病弱だとか障害者だというだけのことではない。人間的な魅力、すなわち普遍的なセックスアピールそのものが、ひとつの「生きられない」気配なのではないでしょうか。


 人は、生き延びようとしている存在ではない。まあ命を使い果たして消えてゆくのが生き物としてのこの生のいとなみであり、人間の知性や感性だって、その事実の上に生まれ育ってくる。だから人はキラキラ光るものが好きであり、生きられないこの世のもっとも弱いものを介護しようとする。
 生きられないことの尊厳やセックスアピールというものがある。
 人は、生命の尊厳に向けて介護をしているのではない、生きられないことの尊厳に向けて介護をしているのです。生命の尊厳というのなら、生きられるものの命ほど値打ちがあって、生きられない命など人類の歴史からさっさと淘汰してしまえばいい。まあそうやって不自然で傲慢な優性保護の法律がつくられたりするのでしょう。
 それにしても近ごろのマスコミ知識人は、どうして「生き延びる」ことが価値であるかのように合唱したがるのだろうか。
 たとえば、内田樹氏も上野千鶴子氏も、自分の中の生きのびようとする欲望が人間の本性であるかのように吹聴しまくっているのだが、自分に生きのびようとする権利と資格と能力があると思っているなんて、何だかくそあつかましい人たちです。
 この世にそんな資格のあるまっとうな人間などひとりもいない。誰もが、生きてあることを許されない存在として、どこかしらでこの生からはぐれてしまっている。
 人類の歴史は、生きられない存在として生きてきた歴史です。そこから心が華やぎときめいて、人間的な文化が進化発展してきた。
 人は生きてあることが「許されていない存在」であり、「生きられない=許されない」存在として生きようとする。というか、すでに生きてしまっている。なぜなら世界は輝いているからであり、それに心を奪われながらすでに生きてしまっている。
 しかしそれは、世界のすべてが調和を持って存在しているということではない。人の心は、あくまで「今ここ」の目の前の一点に焦点を結んでゆくというかたちでときめき祝福している。
 この世界は調和的なものではないし、人は調和的な世界を目指しているのでもない。人は根源において世界の調和を知らない。
 世界の調和を知らない存在が世界の調和を目指すはずがない。少なくとも原始人はそのような世界を目指して歴史を歩んできたのではない。世界の一点に焦点を結んでゆくそのときめきが彼らを生かしていた。
 この世界はわけが分からない対象です。だからこそ意識は、世界の一点に焦点を結んでゆく。そしてそのとき、まわりはぼやけている。それはつまり、世界の調和からはぐれている心の動きです。世界の調和からはぐれていることのとりとめのなさを収拾するように目の前の一点に焦点をあわせてゆく。心はそうやってときめいてゆくのであり、それが「認識する」という意識の根源的なはたらきです。そういう「はぐれてゆく」はたらきとともに、人間的な知性や感性が生まれ育ってくるのであり、そうやって人は他者にときめいてゆく。
 これは、文化の起源について考えるときの重要な問題であるはずです。
 人類史の文化は、生きのびるための装置として生まれてきたのではない。
 人の心は、この生の調和からもこの世界の調和からもはぐれている。そういう「許されていない存在」だからこそ、目の前の一点に焦点を結んでときめいてゆく。そのときめきから、人類史の文化のイノベーションが起きてきた。


 意識が世界の一点に焦点を結んでゆく現象は、そのまわりの世界がぼやけてゆく現象でもある。
 われわれの意識は、目の前の世界全体のすべてに焦点を結んでとらえることはできない。意識はどうしても一点に焦点を結んでしまう。そのとき世界は、なんとなくの「印象」としてとらえている。
 この「印象」という心の動きを持っていることも、猿にはない人間的な特徴でしょう。人間はそれほどに世界に対して無防備で、世界がぼやけて見えている。世界のすべてに焦点を結びながら世界に対して緊張しているということがない。
 いや、ライオンのそばで平然と草を食んでいるシマウマだって、その意識は草という一点に焦点を結びながらライオンの姿はぼんやりと見ているだけで、生き物の視覚というのはみなそのようになっているのかもしれない。だから、食物連鎖が起きる。シマウマがつねに緊張してライオンの姿を気にしていたら、きっとライオンはほとんどシマウマを捕獲することができないでしょう。
ただ、シマウマにとっての「ぼんやり見える」ことはそれだけのことだが、人間の場合はその見え方に「印象」という心の動きを持つことができる。「きれいだなあ」とか「さびしげな景色だなあ」とか、「若葉の緑が鮮やかだなあ」とか……その印象は、すべての細部にとらわれていたら持つことはできない。ぼんやりと全体を見ながら、一挙にその印象を浮かび上がらせる。たぶん、猿よりも弱い猿であった原始人だろうと、シマウマよりももっと警戒心がなかった。生き延びようとする欲望などまるでなかった。「もう(いつ)死んでもいい」という感慨とともに世界を見ていた。そこから心が華やぎ、「印象」という視線を獲得していった。それは、ぼんやり見えていることであると同時に、意識が「印象」という一点に焦点を結んでいる状態でもある。
たとえば人の顔の細部のひとつひとつに意識の焦点が結ばれてゆけば、全体の印象など持つことはできない。
 赤と白の糸で交互に織られた布は、ピンクに見える。それが、人間的な「印象」の視線です。そのとき赤の糸も白の糸もぼやけて見えている。そうやって人の顔をひとつの「印象」としてとらえ、ひとりひとりの他者を識別している。あるいは、美人として感動していったりする。
 世界に対する緊張感や警戒心を持っていたら、こんな見え方はできない。
 他の動物は人間ほど緊張感や警戒心を捨てることはできないから、おおむね個体の識別をするとき、細部の一点を目印にしている。魚なら、背びれに赤い斑点があるのは同じ仲間だ、とか、きっとそういう「目印」で識別する見方を持っているのでしょう。
 まあ人間にだって、細部を特権的にこだわる「フェティシズム」という傾向はある。おそらくそれは文明社会特有のもので、文明人はそれだけ全体の「印象」に対する感性が衰退している。女ならだれでもいいというわけにいかず、おっぱいが大きいのがいいとか、尻や太腿のかたちがどうのとか。
 原始人(少なくともネアンデルタール人の)の男たちは、女であるというそのことにひとりひとりの個性というかニュアンスを感じていた。女ならだれでもよかったし、すべての女のそれぞれに固有の「女としてのニュアンス(個性)」を感じていた。
 人間的な「印象」という心の動きは、ネアンデルタール人のところから本格化してきた。それは、彼らが、その過酷な環境のもとで、それでもその環境に対する警戒心や緊張感を忘れて「もう死んでもいい」と思い定めて生きていたからです。そう思うしかない環境だった。
 生き延びようとしたら、緊張と警戒心のあまり細部の何もかもが気になって「印象」を持つことができなくなってしまう。
 その「印象」を鮮やかに感じるという心の動きによって人類は、一年中発情している猿になっていった。
 現代人は、生き延びるための緊張と警戒心が強くなる生き方を強いられているから、「印象」という反応が鈍くなり、勃起不全という変調に陥ったり自閉的なメンヘラになったりする。


人は「世界の調和」によって緊張と警戒心から解き放たれるのではない、「無防備」になることによって解き放たれる。この国の憲法第九条だって、そういう人間性の自然の上に成り立っている。
それを自覚的に意識するにせよしないにせよ、「もう死んでもいい」というかたちの心模様こそ人類史の通奏低音であり、それによって人間的な知性や感性が生まれ育ってきた。
 われわれは、生きられない生を生きている。
 生き延びようとする意欲なんか持つことができない。
 生き延びようとする前に、すでに生きてしまっている。心はすでに動いてしまっている。「(生き延びようとする)自分」が心を動かすことはできない。「自分」は、すでに動いてしまっているこの心をどうなだめ処理できるかと思うことができるだけです。
 つまり、すでに動いてしまっている人間として生き物としてのこの心は、「もう死んでもいい」という感慨とともに「生きられない生」を生きようとしている。世界の細部に対する緊張と警戒心を捨てて、無防備に、ぼんやりとした全体の画像の「印象」を汲み上げている。
 われわれにとってこの世界は「生きられない場所」です。原始人、ことに氷河期の北ヨーロッパを生きたネアンデルタール人は、その「生きられない」ことを受け入れ、「もう死んでもいい」という心地になってゆくことによって生きてあることの緊張と警戒心から解放されていった。心はそこから華やぎときめいていった。と同時にそれは、生きられないことのかなしみや嘆きを生きることでもあった。
 人の心の華やぎやときめきの底には、生きられないことのかなしみや嘆きが息づいている。
 生命力があるとかないとかという問題はややこしいところがあって、生き延びようとする意欲が強いことがそれをそのまま意味するともいえない。そういう意欲が強いからかえってもろいということがある。そういう意欲が強いから、この生やこの世界の調和を構築しようとしてかえってこの生やこの世界に対する反応が鈍くなり、心身に変調をきたすことがある。
 「自分」が生き延びることなんかできない。「体」が生き延びるのです。「自分」が「体」の生成を支配しコントロールすることはできない。「自分」にできることは、「体」の生成を追跡してゆくことだけです。誰だって、じつはそのようにして生きている。
「自分」がペニスを勃起させることはできない。ペニスが勝手に勃起する。体や心が勝手に反応して勃起する。生き延びようとする「自分」の欲望以前に、すでにこの生やこの世界に「反応」している心身のはたらきがある。言い換えれば、「自分=自我」による生き延びようとする欲望がそうした心身のはたらきを阻害しているし、その「自分=自我」という欲望はそうした先験的な心身のはたらきに裏切られる。
 生き延びようと思えば生き延びられるというものではない。命のはたらきとは世界に対する「反応」であって、生き延びようとする欲望のぶんだけそのはたらきが豊かになるというわけではない。


 反応の豊かさこそ、命のはたらきの豊かさです。そして「生きられないもっとも弱いもの」こそ、もっとも豊かに反応している。生きられないほどに世界からの圧力を強く受けているのだから、それに応じて反応も豊かになる。
 生きられる条件の整った「世界の調和」の中にまどろんでいたら、反応など起きてくるはずがない。生き延びようとする欲望はそんな世界を目指しているし、現代人は、そんな世界でまどろんでゆく心の動きや行動習性を持たされてしまっている。
「もう死んでもいい」という無意識の感慨が、人の心身のはたらきを担保している。その生きられなさが、豊かな反応を生む。心も体も、そこから華やぎときめいてゆく。つまり、命のはたらきは「負荷」がかかっている状態で起きる。人類の文化は、そうやって「生きられない」という「負荷」を受けながら生まれ育ってきた、ということです。
 人が「なに・なぜ?」と問うことだって、「わからない」という「負荷」がかかっている状態です。
 猿は、わからないということすらわからない。人間のような「負荷」を持っていない。
 人間は、生きられない存在として生きている。
 目の前の世界の一点に焦点を結んでまわりがぼやけているということは、外敵の出現に気づかないということであり、人類はいつからかそういう無防備な視覚になっていった。人間にとってこの世界はぼやけていてよくわからない。だからこそ、そこから一挙に全体を統合する「印象」という認識を持つようになった。
 知性とはものごとの本質という一点に焦点を結んでゆく洞察力だとすれば、感性は全体の「印象」を汲み上げるはたらきだといえるのかもしれない。この二つの脳のはたらきによって人間的な文化が生まれ育ってきた。
 人類が「印象」という感性を持つようになったのは、目の前の世界がぼんやり見えている、ということによる。「ぼんやり見える」ということもひとつの人間的な能力であり、それは何か一点に向かって焦点が結ばれているということでもある。すべての細部に焦点が結ばれていると、「印象」という統合された認識を持つことができない。自閉症は、このはたらきが欠落している。だから、人の顔が見分けられない。普通の人以上にはっきり見えているのに、見分けられない。他人の気持ちがわかるというのも、この「印象」を汲み上げる感性であり、「印象という一点」に向かって焦点を合わせてゆく知性でもある。
 他人の気持ちがわからないから、「自分」をまさぐってばかりいないといけなくなる。「自分」をまさぐってばかりいるから、他人の気持ちがわからない。それは、世界がぼんやり見えているということではなく、細部のすべてに焦点を結んでクリアに見えすぎているということです。だから「印象」という統合のはたらきを持つことができない。
 

人類社会は、不可避的にぐうたらな怠け者を生み出してしまう。ぼんやりしてぐうたらで無能なダメ人間……大人たちは、ニートをはじめとする近ごろの若者たちにそういう傾向があると嘆く。しかしそれだって人間性の自然です。内田樹などは「むやみに楽をしたがる」と言って批判するが、楽をしようとして何が悪い。内田樹をはじめとする凡庸な大人たちのようにいたずらに生き延びようとあくせくして「世界の調和」に潜り込もうとするような通俗的で制度的な欲望よりずっと人間的だといえる。
 楽をしようとしていたら落ちこぼれてしまうことくらい、彼らだってわかっている。それでもかまわないから、大人たちのように生き延びることにあくせくしたくない。彼らは、落ちこぼれることの嘆きを引き受け、生きらない生を生きようとしている。彼らにとって目の前の世界は、生き延びることができるような「調和」を持って存在していない。彼らの心の中には「もう死んでもいい」という人間的な無意識が息づいており、そこから華やぎときめいてゆく心模様を持っている。
 思想的観念的に「もう死んでもいい」と自覚しているというのではない。人がダメ人間になってゆくのは人間性の自然として「もう死んでもいい」というかたちの無意識がはたらいているからだ、ということです。
 いつの時代もぐうたらなダメ人間はいるし、誰の中にもそういう無意識が息づいている。
 誰だって楽して生きていたい。働きたくなんかない。遊んでいたい。それが大多数の人間の本心なのだもの、われわれがこの世に生まれてきたのは何かの間違いなのだもの、生き延びるためにあくせく頑張るということなどできない。
 落ちこぼれてこの社会の無用の人間になってしまう……それはけっして楽な生き方ともいえないのだが、文明社会の歴史はいつの時代もそうした傾向の「はぐれもの」を一定数生み出してしまう。たとえば中世における西行や一遍などの有名な芸術家や宗教家だけでなく、そのころの名もなき庶民の乞食や旅芸人や旅の僧だってみな「無用者=はぐれもの」の系譜に連なる人たちだったし、彼らこそが文化の担い手だったともいえる。
 現代のニートやフリーターだって、ひとまずそういう系譜に連なる存在であるはずです。
 まあ、歴史や哲学や芸術と向き合おうとすると、どうしても人は「無用者=はぐれもの」になってしまう。それはつまり、避けがたく人間の本質・自然と向き合ってしまう、ということです。そうやって無用の人間になれば、この社会は楽な生き方をさせてくれないが、それでも何かにせかされるようにどんどんダメになってゆきはぐれてゆく。
 ダメになってはぐれてゆきながら、それでも心は華やぎときめいている。
 人間なら、誰の中にも「もう死んでもいい」という無意識が息づいている。そういうかたちで心が華やぎ、命が活性化する。命が活性化するから心が華やぐ。
 生き延びようとあくせく頑張っている人の命は、はたして活性化しているか?


 文明社会の構造によってわれわれは生き延びるためにあくせく頑張るような観念を持たされてしまっている。そうやって死ぬのが怖くなり、永遠の生が約束された予定調和の世界を願うような観念を持たされてしまっている。しかし誰もが無意識のところでは、生き物の自然としての「もう死んでもいい」というかたちのはたらきを持っている。この社会は「緊張して生きよ、勉強しろ、働け」と要請してくるが、われわれの中の自然としての無意識はそのようなかたちにはなっていない。ひとまず頑張ろうとしても、その無意識に裏切られる。われわれの自然としての無意識においては、この生もこの世界もぼんやりしたものでしかなく、生き延びようと頑張る必然性を持っていない。そしてその「ぼんやりしている」ということは一点に焦点を結んでいるということであり、その一点は「もう死んでもいい」という消失点なのです。
 生き物は消えてゆこうとする本能(のようなもの)を持っているからこそ、一点に焦点を結んでゆくことができる。まあ、そうやって外敵の出現を察知する。この世界のすべての細部に焦点を結んで緊張していると、すべての細部が等価になり、かえって察知するはたらきが鈍くなる。
自閉症スペクトラムは、そうやって緊張して生きているから、世界のとっさの異変に気づくことができない。この生が自分の想定した予定調和の通りにならないとパニックを起こす。世界に対して「無防備」になれない。「無防備」になることによって、はじめてとっさの異変に気づくことができる。そうやってシマウマは、ライオンのそばで平然と草を食んでいる。そのとき、ライオンの存在に気づくことが大事なのではない、自分に向かってくることに気づくことが大事なのです。自閉症スペクトラムは、そういう気づき方ができない。ライオン=他人がそばにいるというだけで緊張している。緊張しつつ、他人の気持ちを察するという「印象」に対する感性がいちじるしく欠落している。
世界がぼんやり見えていることこそ、生き物の自然なのです。ぼんやり見えているからこそ、より鮮やかに一点に焦点を結んでゆく。人間の本能的な(無)意識は他の動物以上に一点に焦点を結んでいるから、他の動物以上に世界がぼやけて見えている。そうやって現在の若者たちのあいだでぐうたらなダメ人間が増えている。現在は、そういう「本能的な無意識」が露出してきている時代であるのかもしれない。それは「消えてゆこうとする本能(のようなもの)」であり、人間性の本質・自然を「緊張する自己意識」や「生き延びるための労働」において頑張ろうとしても、けっきょくはその「本能的な無意識」に裏切られるし、じつは誰だってそこにおいて心が華やぎ世界や他者にときめいている。
 発達障害とか自閉症スペクトラムとかいろいろいわれている現在の「メンヘラ」という事態は、「緊張する自己意識」や「生き延びるための労働」に価値を置いている現代社会の世界観や人間観が生み出している。メンヘラであろうとダメな若者群の増殖であろうと、そうやって文明社会の世界観や人間観が人間性の自然としての「本能的な無意識」に裏切られている現象であろうと思えます。


 現代社会が目指している方向は、はたして正しいのか?
 生き延びることのできる「世界の調和」を目指すのが人間性の自然であるのか?
 いやもう、その「目指す」という目的意識そのものが人間性の自然から逸脱してしまっているのではないか。
 そういう目的意識は、いつだって「もう死んでもいい」という「本能的な無意識」に裏切られる。「今ここ」において消えてゆこうとすることこそ人間性の自然あるいは生き物としての自然であり、心はそこから華やぎときめいてゆく。
 現在のこの国には、メンヘラとか、働きたがらない若者とか、結婚したがらないとか、少子化とか、地方の衰退とか、いろんな社会問題があるのだろうが、大人たちがあれこれ議論した結果としてのそれらの対策は遅々として進んでいない。おそらく、大人たちの世界観・人間観そのものが間違っている。パラダイムシフト、などと叫ばれていても、現実の世界観や人間観にそのような変化はない。大人たちは相変わらず「世界の調和」を目指す自我に執着している。彼らはそれによって高度経済成長を達成してきたかもしれないが、今まさにそれによって多くの社会病理を引き起こしている。
人類は「世界の調和」を目指す目的意識で歴史を歩んできたのではない。そんなところに人間性の自然があるのではない。それは、病理的な強迫観念にすぎない。
人間性の自然においては、世界はぼやけて見えている。そこから心が華やぎ、人間的な「印象」という豊かなニュアンスが汲み上げられてゆく。
世界のすべてがクリアに見えていたら、緊張するばかりです。緊張して精神を病んでゆく。
ぐうたらなダメ人間であることの健康があり、あくせく「世界の調和」を目指すことの病理がある。この社会は、そこのところでパラダイムシフトすることができるだろうか?まあしようとするまいと、けっきょくのところ歴史はそのような人間性の自然に沿って動いてゆく。
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