洞窟壁画・ネアンデルタール人論9


 現在語られている人類史のほとんどは、世に流通する下部構造決定論や労働史観などに洗脳されて、人類は生きのびるためにどのような生産活動をしてきたか、という問題意識の説明ばかりです。
 生き物は生きようとする存在である……という認識が当然のように合意されている世の中です。
 そうじゃない、われわれは「すでに生きてしまっている」存在なのだ。意識=心はそこから動きはじめる。
 どんなにろくでもない人生であれ、それでもわれわれはすでに生きてしまっている。
 というわけでここでは、人類の歴史を動かしてきたのは生きのびるための生産活動ではない、と考えています。人間は死に対する親密な感慨を抱いている存在であり、その「すでに生きてしまっている」という嘆きをなだめるように心が華やいでゆく体験がうまれ、それによって人類の歴史が動いてきた。それがなければ人間は生きはじめることができない。つまり人間は根源において生産活動なんか二の次にしてしまう存在である、という立場です。
 だから、ネアンデルタール人の狩の道具とか技術とか狩の対象となった動物のこととか狩の行動範囲とか、ひとまずそういう学問的なデータよりも、彼らはどんな心模様で生きていたのかというようなことのほうがずっと気になります。
 文化の問題になればまさにそうです。それは生きるためのものではなく、「すでに生きてある」ことをなだめるようにして生まれてくるいとなみでしょう。
 たとえば洞窟壁画のこと、多くの人類学者が、それが生まれてきたのは知能が発達したからだとか、アニミズム(呪術)の目的で描かれた、というような安直な思考しかできない。それだってやはり下部構造決定論や労働史観に洗脳されているからで、彼らにとっては、原始人が洞窟に絵を描くのもひとつの生産行為すなわち政治経済的行為(=労働)であるらしい。そうして、ただの模様のような絵を呪術師がトランス状態に入って描いた絵だとか、じつに幼稚でくだらない解釈をしている。
 つまり彼らはそれを集団運営のためのモニュメントか何かのように考えていて、人間が絵を描くのはどういうことかという本質的な問いがすっぽり抜け落ちている。
 それは、大人も子供もみんなで思い思いに描き散らしていっただけなのです。
 そんなもの、ただなんとなく描きはじめただけでしょう。人類の壁画の歴史はそこからはじまっているわけで、べつにアニミズムとか狩のための集団運営の目的で描きはじめたわけではない。絵を描くよろこびがあった、それだけのことです。それだけのことだが、それこそが彼らの暮らしや心模様に推参するためのもっとも重要な問題なのです。
 人間にとって絵を描く行為は、心が華やぎ安らいでゆく体験だった。まずそこから考えはじめなければならない。
 現在残っている有名な洞窟壁画は3〜2万年前のクロマニヨンの時代のものばかりらしいが、それは、氷河期の激烈な寒さがおそってきた時代だったわけで、その生きにくさの嘆きをなだめる行為として絵を描くことがさかんになっていったのでしょう。このころには、考古学で「クロマニヨンのヴィーナス」などと呼ばれる女性像をはじめとして彫刻もさかんにつくられていた。


 
 では、人類はいつごろから絵を描きはじめたのか。
 30万年前のネアンデルタール人が牛の骨に曲線を線刻している遺物が見つかっています。たんなるいたずら描きのようなことは、そのころからすでにしていた。だったら、洞窟の壁にだって描くでしょう。
 彼らの壁画がいつからはじまったのかというようなことは、わからない。最初の壁画なんかすでに消されて、その上から何度も描き直されてきているかもしれない。現在に残っているのは、いちばん新しい絵です。だから、壁画は3万年前のクロマニヨン人からはじまっている、ということになっているのだが、たとえば10万年前の壁画が見つかるとすれば、その洞窟はそれを最後に放棄されて二度と使われなかった、という条件が必要です。
 残っているのはいちばん新しいものばかりでしょう。その下にどれだけの絵が消されているのかということはもう、わからない。
 たとえばラスコーやアルタミラのような絵を描くことが熱心で技術も高かったという洞窟なら、その下に無数の先代の絵があったとしても不思議ではないでしょう。
 最初はきっと、ただのいたずら描きの模様のような絵だったはずです。そういう絵が残っている洞窟もある。ただ、それが初期のものかどうかはわからない。模様のような絵は、現代人でも描きたがるのだから。
 人間はなぜそのような模様を描きたがるのだろう。ネアンデルタール人の場合は、それによって心が安らぎ華やいでいったからでしょう。彼らは、寒さに耐えるために昼間は絶えず熱っぽく興奮していたから、夜になって眠るときには心が安らいでゆく体験を切実に必要としていた。
 人は、興奮したままでは眠れない。現在の都市で不眠症が増えてきているのは、現在の都市生活が興奮していないと成り立たなくなってきているからでしょう。
 眠りにつくことは、いったん死ぬようなことです。しかし、未来のスケジュールで頭の中をいっぱいにしていれば、そのことが気になって眠れなくなってしまう。遠足の前の日の小学生のようなものです。
 安らかな眠りにつくためには、死に対する親密な心模様を引き寄せないといけない。べつに「死にたい」と願うというのではなく、心も体も溶けて消えてゆくような心地にならないといけない。そうやって心が、この生の現実=日常からはぐれてゆく。
 心を熱っぽく興奮させながら暮らしていたネアンデルタール人にとっての非日常の世界は、心が安らいでゆく世界だった。
 基本的に絵を描くことは、日常を離れて「非日常」の世界に入ってゆく行為です。人は、無意識のうちに非日常の世界をまさぐるようにして模様のようないたずら描きをしていたりする。
 非日常の世界といっても人さまざまで、安らかな世界に入ってゆく人もいれば、ふだんは静かにしているからこそ情熱的な世界に非日常性を感じる人もいる。



 アフリカ人は派手好きでダンスや音楽も情熱的だが、彼らがふだんからおしゃべりばかりして活動的かといえば、あんがいそうでもない。それほどおしゃべりでもなく、ヨーロッパ人のような議論をしたがる伝統はないし、どちらかというとなまけものの民族です。まあ、灼熱の太陽の下で暮らしていれば、木陰でじっとしているのが習性になる。
 まず、アフリカの絵の起源から考えてみます。
 アフリカで発見された最古の模様のような絵は、7万年前の、赤色オーカーという石の塊の表面に刻まれた線刻で、直線を斜めを交差させて網の目のような形を浮かび上がらせた絵です。
 このことから、二つの意味を汲み取ることができます。
 ひとつは、人間には世界を「分割」しようとする無意識があるということ。それは、分割された自分の世界に「隠れようとする」無意識です。二本の足で立ち上がって猿よりも弱い猿になった人類は、そこで心が安らぎ華やいでゆく存在になった、ということです。
 人類の絵はたぶん、「世界を分割する模様」としてはじまった。そのとき描かれた線は、「世界の境界」になっている。身体の輪郭だって、自分と世界との境界です。とすれば、自分は世界から分割された存在である、ということになる。自分の世界に隠れ込もうとする無意識の衝動が、そういう模様を描かせる。
 アフリカのサバンナの民は、大型肉食獣や強い日差しから隠れて小さな森の中で暮らしている。彼らは、自分の世界に隠れ込もうとする衝動が強い。そうやってアフリカのミーイズムが発達した。
 まあこの世界を分割しようとする衝動は、彼らだけでなく人類普遍の心模様であるのでしょう。もともと猿よりも弱い猿として歴史を歩みはじめた人類は、世界を分割して自分の隠れる場所をつくろうとする習性を持っている。
 そしてアフリカ人らならではのもうひとつの特徴として、「直線」が好きだったということにあります。これは、ヨーロッパ最古の線刻が「曲線」だったこととは対照的です。
 直線は、心に覚醒作用をもたらす。それに対して曲線は、心を和らげ眠気を誘う。
 いつも熱帯のサバンナの森の中に隠れて暮らしていれば、眠たくなってくるに決まっています。それが彼らの現実=日常だったわけで、心に刺激を与えて覚醒してゆくことこそ、彼らの「非日常」の体験だった。彼らの音楽や踊りが打楽器のリズム感とともに発達したことは、覚醒作用を得ようとすることが彼らの生きる作法になっていたことを物語っている。
 逆にネアンデルタール人は、寒さを克服するためにいつも興奮して心も体も熱くさせていたから、鎮静作用を持った曲線になじんでゆくことが「非日常」の世界に入ってゆくいとなみだった。この違いは、大いに考えさせられます。



 まあ現代社会は人々に興奮して活動してゆくことを強いる社会だから、どうしても「癒される」とか「萌える」などといって曲線的な世界に入ってゆきたがる傾向が生まれている。
 現代社会は、人々を酩酊させ、興奮させる。戦争をすることも革命運動も、そうした行為のひとつでしょうか。文明それ自体がそのような生態であるともいえる。だから人間社会は、文化として、心が華やぎ安らいでゆく「非日常」の世界に入ってゆく作法を育ててきた。
 ことに日本列島は、そのような文化の伝統になっている。たぶん、ネアンデルタール人の伝統は、現在のヨーロッパよりも日本列島のほうが豊かに引き継いでいる。たとえば、もしもネアンデルタール人が火のことを「ファイア」の原型として「フィ」というよう言い方をしていたとすれば、それはやまとことばの「ひ」にとてもよく似ている。いやべつにネアンデルタールじんからその言葉が伝わったというのではなく、火にたいする感受性が似ているということです。
 ネアンデルタール人の「非日常」の世界は、曲線とともに心が華やぎ安らいでゆく体験の中にあった。彼らもまた、酩酊し興奮してゆくほかない状況を生きていた。ただ彼らは、われわれ現代人よりもずっと心が華やぎ安らいでゆく体験を大切にしていた。そういうことをここまで書いてきたわけだが、下部構造決定論や労働史観に洗脳されてしまっている現代人はもう、生きのびることに邁進するすることが人間性の基礎であり本質であるかのように合意していて、ネアンデルタール人のような死に対する親密さや心が華やぎ安らいでゆく体験に対する切実さがない。
 現代社会においては、経済に希望を抱かせてくれる政治が支持され、それが生きることの中心命題になっている。知識人が「生命の尊厳」といい、歴史は生きのびるための食糧生産という経済活動を中心に動いてきたと語ることだって、ようするに酩酊し興奮することが生きることだといっているのと同じでしょう。そうして人類学者は、洞窟壁画のただの模様のような絵を「呪術師のトランス状態だ」などと愚にもつかないことを言い出す。
 まあそういう世の中だから、今どきの若者は、大人たちのそのような肥大化した自意識から離れて、「癒し」だの「萌え」だの「かわいい」だのというコンセプトを模索している。
 なんのかのといっても人間は、「非日常」の世界に入ってゆく文化体験を必要としている。



 アニミズムは、文化体験ではない。生きのびようとする政治経済の行為です。
 今どきの人類学者は、なぜ洞窟壁画をアニミズムで語ろうとするのか。
 ネアンデルタールクロマニヨン人の洞窟壁画は、あくまで心が華やぎ安らいでゆく体験に向けて描かれたものであったはずです。
 そこには、たくさんの点線を並べたり、曲線や、「田」の字のような分割模様や、そのようないたずら描きの模様の絵もたくさんあります。
 とくに「点線」と「曲線」はヨーロッパ的でしょう。
 それは、人類学者がいうような呪術師によるトランス状態で見た幻覚の絵というようなものではない。宗教的恍惚状態に入ると光の粒の散乱を見る、などといわれている。ようするにそのようなことだといいたいのだろうが、たぶんそうじゃない。点線を描いていったり眺めていたりすることには、心が鎮静化してゆく作用がある。そうやってだんだん眠くなってくる。 
 「反復」には、興奮と鎮静の両方の作用がある。直線的な勢いでシュプレヒコールを繰り返すことは興奮してゆくことだが、「羊が一匹、羊が二匹……」と数えてゆくことは点線と同じ鎮静化の作用です。ヨーロッパのビーズの文化だって、この点線の文化でしょう。
 宗教的恍惚のビジョンにおいては「光のシャワー」などと表現されたりするように、あくまで直線的な興奮状態であり、点をひとつひとつ並べて線にしてゆくことは、その反対のもっと静的な沈静化の作用をもたらす体験です。
 ネアンデルタール人ほど宗教的恍惚とは無縁の人々もいない。昼間からそういう興奮状態で生きているのだから、いまさらどうしてそんな儀式を必要とするものか。ヨーロッパの教会音楽は伝統的に沈静化がコンセプトです。そしてそれを、アフリカのホモ・サピエンスの末裔であるアメリカの黒人たちがゴスペルソングなどの興奮状態にさせる音楽に変えていった。
 ネアンデルタールクロマニヨン人は、点線の模様が大好きだった。彫刻などにも、そんな模様の装飾がたくさんある。それはべつに宗教的なまじないだったのではない。そんなこじ付けをしたがる研究者も多いが、そうじゃない、それによって彼らの心が華やぎ安らいでいったからでしょう。
 彼らの点線の模様は、宗教的なトランス状態で描いた絵ではない。洞窟は、宗教儀式の場だったのではない。彼らの暮らしの場であり、眠りに着く場所だった。とくに壁画が描かれてある奥の部屋は、彼らの寝室だった。そこは、井戸の中と同じように、冬でもあまり寒くならない。そういう場所がなければ、原始人が氷河期の北ヨーロッパの冬を生きてゆくことなんか不可能だった。零下何十度という冬の夜に原始人が眠りにつける場所が、洞窟の奥以外のどこにあったというのか。
 何を好きこのんで彼らがそこを宗教儀式の場にしないといけないのか。今どきの反政府の秘密結社やカルト集団じゃあるまいし。
 ネアンデルタールクロマニヨン人にとって眠りにつくことは、何よりも大切な生のいとなみだった。それほどに彼らにとって「眠り=死」は親密なものだったし、彼らの生はそこからはじまった。
 宗教なんかどうでもいいのですよ。その洞窟壁画は、彼らがどれほど眠りにつくことを大切にしていたかということを物語っているのです。



 洞窟壁画のそこは寝室だった。まずこのことを確認しておきます。
 寝室を確保することなしに氷河期の冬の北ヨーロッパの暮らしは成り立たなかった。
 そこは近在のクロマニヨン人が集まってきて会議や宗教儀式をする場だったとか、呪術師のトランス状態がどうのとか、人類学者たちはもう、そんなおちゃらけたことばかりいっている。
 ネアンデルタールクロマニヨン人には、現代人のように生きのびるためにあくせくするというような余裕などなかったし、生きのびるための呪術もなかった。彼らは、「もう(いつ)死んでもいい」と思い定めるところからしか生きられなかった。そういう死に対する親密さが、彼らを生かしていた。
 生きのびたいのなら、さっさと住みよい南の地に移住してゆく。
 しかしその「住みにくさ=生きのびることの不可能性」こそが、彼らの心に華やぎをもたらし、人と人が豊かにときめき合う関係をつくっていた。
 人間は、根源的に、そのようにして生きている存在だということを彼らが教えてくれる。
 彼らの洞窟壁画は、基本的には死と親密になってゆく作法として描かれていた。そこでは、大人も子供も描いていた。プロの画家も宗教者もいなかった。まずそうやってはじまった。



 ラスコーの壁画の大きく立派な牛の線描の、白いままの胴体の部分には、たくさんの子供のいたずら描きが残っています。たぶん、いたずら描きの上から描いていったのでしょう。そして子供は、それをお手本にしてまた別のところに描いてゆく。
 ネアンデルタールクロマニヨン人の壁画は動物の絵ばかりで、人間はほとんど描かれていない。たまに小さな子の稚拙ないたずら描きがあるくらいです。
 それに対して、同じころのアフリカの壁画は、人間が描かれてあることが多く、動物を描いても人間の添え物といった感じです。ここにも、彼らのミーイズムがあらわれている。そしてそこに描かれた人間の体は線のように細長く、まるで量感というものがない。
 ラスコーヤアルタミラの動物の絵は、曲線を駆使してみごとに量感をあらわしています。ヨーロッパの壁画には量感に対する志向がある。アフリカのそれになぜそれがないかといえば、彼らが痩せて高身長だったということ以上に、「そこに世界が存在する」ということに対する驚きやときめきがないという感受性がある。彼らは世界から隠れることが暮らしの作法だったから、そういう関心が育たなかった。気持ちを興奮させて「我あり」ということを実感してゆくのが彼らの生きた心地(=快楽)であり、そのとき世界も存在感は消えている。彼らにとっては、世界は存在感を持たないことのほうがリアルだった。だから、人間を描いてもそのようになってしまった。タンザニアのクンドゥシウで発見された2万5千年前の壁画はけっして稚拙な絵ではないが、存在感に対する興味のなさは驚くばかりです。
 同じころのクロマニヨン人が「クロマニヨンのヴィーナス」という豊満な女性像の彫刻を流行させていたのとは、まさに対照的です。
 なのに研究者たちは、こぞってそのころアフリカ人がヨーロッパに移住していって文化を花開かせたという。おかしいじゃないですか。そのころからすでに、ヨーロッパ人とアフリカ人では、世界観も美意識もまったく違っていたのです。
 そしてアフリカの壁画には、あまり落書きがない。何か意味ありげで、それなりにちゃんとしたモニュメントだったのかもしれない。つまり、描いた人や描いたことのミーイズムというか自立が尊重されている。
 しかしヨーロッパの壁画は、そんなことおかまいなしの乱雑さで描かれてあるのです。とても「宗教的な意味のあるモニュメントだった」といえるような画面ではない。
 まあ人類学者はそういうことにしたいのだろうが、ただもう、大人も子供もおかまいなしにみんなで勝手に描いていっただけにしか見えない。リアルな絵と稚拙な絵、大きな絵と小さな絵、それらが入り乱れて描かれてある。それ自体、人と人が他愛なく寄り添い合っていた社会のかたちがあらわれている。このスペースは俺のものだから誰も邪魔をするな、というような主張などなく、少々絵と絵が重なっていても気にしなかった。おそらく彼らには、アフリカ人のような自意識はなかった。
 そしてアフリカの壁画は対象の存在感が希薄で、ヨーロッパのそれは、たとえ子供が描いたものにも対象の存在感に対する感動があらわれている。
 それが動物ばかりだったというのは、子供が好きだったからで、べつに人類学者がいうような「狩の成功を祈る」というような「意味」などなかったはずです。狩の対象ではない動物もたくさん描かれてある。
 たとえば、妊娠しているらしい腹のふくらんだ鹿のような動物の稚拙な絵もある。それは、狩の対象ではなかったはずです。でも、子供にとっては、珍しく興味深かったのでしょう。そこに社会的な「意味」などこじつけてもしょうがない。それはきっと子供が描いた絵にちがいないのです。
 そこは、彼らの寝室だった。そして、子供が安らかな眠りにつけるように、子供の好きな動物の絵を描いてやった。それだけのことでしょう。それだけのことだがしかし、そこには、彼らがいかに子供を生かそうとすることにけんめいで切実だったかということがよくあらわれている。そしてそれこそが、宗教的政治経済的な意味を詮索するよりもずっと重要なことではないでしょうか。
 ヨーロッパ人の「孤独」は、けっして自己意識=自我という言葉だけでは片付けられない。ネアンデルタールクロマニヨン人に「この生やこの世界からはぐれている」と自覚の「孤独」はあったが、そこから自分のことなど忘れてけんめいに子供という他者を生かそうとしていた。彼らには、世界や他者の存在感に対する感動(ときめき)があった。それはもう、描かれた絵のタッチにもよくあらわれている。彼らは、その量感をちゃんと表現しようとしていた。
 そのころの子供がなぜ動物が好きだったかといえば、今の子供が自動車を好きになるように「動くもの」だったからということもあるのでしょうか。そしてお母さんが子供を産んでも子供を育てる存在ではなかったから、女の子もままごとやお人形さんごっこのようなことに対する興味もなかったかもしれない。子供は子供として、みんな動物が好きだった。同じ生き物だという意識もあったのでしょうか。彼らの願いは、大人や動物のように、早く自分の体を自由に力強く動かせるようになりたいということにあった。



 研究者は、稚拙な絵も大人が描いたと思っている。原始人だから上手に書けるはずがない、という前提を持っている。しかし絵を描く習慣さえあれば、原始人だって大人も子供も現代人と同じていどには描けるはずです。ましてや2万年前といえば、人類がいたずら描きのような模様を書きはじめてから、すでに数十万年たっているのです。プロの絵描きがいなかっただけです。
 子供のただのいたずら描きに、社会の共同性のもっともらしい意味をあれこれこじつけたって、それこそ無意味です。彼らがどんな世界観や生命観や生活感情を抱いていたかということに対する考察が、研究者は怠惰すぎます。妙な宗教的文学的政治経済的な意味をこじつけてゆくなんて、考察でもなんでもなくただの思考停止であり、研究者自身の自意識を当てはめているだけにすぎない。彼らは、率直にネアンデルタールクロマニヨン人の生のいとなみに推参してゆこうとする思考をしていない。
 ジョルジュ・バタイユも洞窟壁画に関する小論を書いているけど、まあ「やめてくれよ」というようなひとりよがりのもったいをつけたこじ付けを並べているだけです。
 それは、大人たちの政治経済あるいは宗教活動を反映したものでもなんでもない。子供たちは動物が好きだったというだけのことであり、つまりネアンデルタールクロマニヨン人の子育ての問題であり、無意識の問題としていえば、直立二足歩行開始以来の人類の死に対する親密さの問題でもあります。
 すなわち、彼らがどれほど眠りにつくことを大切な生のいとなみにしていたかということ、そうしてなんとしても子供を生かしたいということ、それこそが彼らにとってのもっとも切実な問題であり、彼らにとって洞窟の奥の部屋は、宗教や政治経済の場ではなかった。そこは、彼らの寝室だった。
 絵を描くことは、本質的には、この生からはぐれてゆくみずからの心をなだめるいとなみです。そのとき大人も子供も、みんなしてそうやって洞窟壁画を描いていたのです。
 ヨーロッパの洞窟壁画を最初に描きはじめたのは、おそらく子供たちです。大人たちは眠りにつく前にセックスをするという習慣があったが、子供たちはそれに代わる方法として壁面に絵を描くという行為を見出していった。大人たちはそれを手伝うかたちでお手本の絵を描いてやった。それは、彼らの死と背中合わせの生存から生まれてきた行為だった。そこでは誰もが「いかにして安らかな眠りを得るか」という課題を背負っていた。
 人類は、氷河期明けの生きることができる歴史の段階になって、生きのびるための宗教や政治に目覚めていった。しかし氷河期の極北の地に置かれていた彼らは、生きることの不可能性を生きていた。「もう死んでもいい」という感慨なしに生きてあることはできなかった。そうやって安らかな眠りに堕ちてゆく体験がなければ、生きることも死んでゆくこともかなわなかった。その洞窟壁画の向こうにそうした彼らの生のいとなみや心模様に思いを馳せるということをしても罰は当たるまい。
 彼らが宗教や政治経済の目的で洞窟壁画を描いていただなんて、それはもうあまりにも考えることが偏狭で倒錯している。客観的なふりして、ちっとも客観的ではない。ネアンデルタールクロマニヨン人の身になって考えてみろよ、僕はもう、世界中の人類学者に向かってそういいたい。
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