自然という環境世界・ネアンデルタール人論5


 ネアンデルタール人は、氷河期の北ヨーロッパという苛酷な環境に住み着いていた。そこはもう、現在のシベリアやアラスカよりももっと寒いところだった。
 ろくな文明も持たない原始人の身で、なぜそんなところに住み着いたのか?
 べつに住み着きたかったわけでもないでしょう。気がついたらそこにいた。そしてその環境を受け入れていった。そこは生きてゆくのにつらいばかりの環境だったのに、それでもその環境に誘惑されていた。
 人間にとっては、「そこに環境がある」ということ自体が、人間を誘惑している。なぜなら意識とは環境(世界)を認識するはたらきであり、環境を認識するというはたらきが起きていること自体が意識の存在理由だからです。ましてやそんな苛酷な環境だったら、なお環境を認識するというはたらきが豊かに起きる。その違和感こそ、より豊かな環境を認識するというはたらきになる。何はともあれ氷河期の北ヨーロッパは、意識というか心のはたらきが豊かに起きている場所だった。
 人は、どんな環境でも受け入れる。自分が貧乏な家の生まれでも、病弱でも、頭が悪くても、顔がブサイクでも、ひとまず受け入れて生きている。それ自体が心が豊かにはたらく契機になっているのだから、いやでいやでしょうがなくても、それ自体に誘惑されてしまっている。現代の自意識旺盛な人びとはそれを受け入れることを拒否して能動的に別の環境条件を求めたりもしているが、人間の原始性においてはすべて受け入れる。現代人の拒否する能動的な欲望よりも原始人の受け入れる受動性の方が豊かな心のはたらきであり、いいかえれば、豊かに反応していないから拒否できるのです。「いやでいやでしょうがない」からこそ受け入れてしまうという人の心のなやましさとくるおしさ、人はそうやって自分の運命を受け入れている。
 人は、みずからに与えられた与件をすべて受け入れることができる。たとえ自分が古代社会の奴隷であっても、もうどんなことでも人間は受け入れることができる。だからどんな住みにくい土地にも住み着いて地球の隅々まで拡散していったわけで、その受け入れることのできるメンタリティは、人間が根源(無意識)のところで「もう死んでもいい」という感慨を持っている存在であることに由来している。
「生きててよかった」とか、「両親に感謝する」とか、そんな生命賛歌などどうでもいいことで、「もう死んでもいい」というところから心が華やいでゆくのが人間性の根源=自然です。そこからこそ、豊かな知性や感性が育ってくる。「生きててよかった」とか「両親に感謝する」といってまどろんでゆくのは、知性や感性が鈍磨してゆくことです。若者がみんなそんなふうに思えば、親やこの社会は彼らを支配しやすくなる。だから社会は、正義の名のもとにそんな合意をつくろうとつねに画策してくる。
 しかしそれは、人間の本性ではない。そんな正義にしてやられていたら、知性や感性はどんどん鈍磨してゆく。
 原始人に「住みよい土地を求めて」という意志や欲望という自意識がはたらいていたのなら、今ごろは全人類が住みよい温暖な地にひしめき合っているだけです。彼らの「もう死んでもいい」という死に対する親密な感慨は、どんな生きにくい環境も受け入れていった。「いやでいやでしょうがない」のに、だからこそ受け入れていったのであり、そこにこそ人間の本性がある。
 


 人類拡散が起きたのは、人間は無意識のうちにいつの間にか集団からはぐれてしまう存在であり、はぐれてしまっていることを受け入れてゆく存在だからです。そして心は、そこから華やいでゆく。
 ネアンデルタール人が住みついた土地は人間が生きていられないくらい苛酷な環境だったが、それでもそこに心の華やぎはあった。むしろ、そういう環境だったからこそ彼らは、世界中のどこよりも心は深く豊かに華やいでいた。
 気がついたらそこに来ていただけで、来ようとする意志や欲望があったわけではない。また、そこが住みにくいからといって、それを拒否して住みよいところに移動してゆこうとする意志や欲望もなかった。
 人類は住みよい土地を求めて拡散していった……なんて嘘です。そういう能動性よりも、どんな環境条件も受け入れるという受動性こそが人類拡散をもたらしたのであり、そこにこそ人間性の基礎・本質がある。
 受動性こそ、人の心に華やぎをもたらす。そしてその受動性は、死に対する親密さとともにある。その「もう死んでもいい」という無意識の感慨があるからこそ人は、どんな理不尽で苛酷な環境も受け入れてゆくことができる。
 あんな苛酷な環境に住み着いていたのだもの、ネアンデルタール人ほど死と親密で受動的な人びとはいなかった。
 彼らは、そうやって「世界の終わり」から生きはじめ、華やいでいった。そしてそれは、われわれ現代人の無意識の中にも引き継がれている。



 まあいまどきは自意識による生きのびようとする「能動性」が人間の本性のように語られそれが称揚されている世の中だから、この生からはぐれて「受動性」だけで生きていたら時代に逆行し取り残されるだけかもしれないが、現代人のそうした合意によって原始人の歴史の真実に推参できるとはどうしても思えない。
 ネアンデルタール人の心模様に推参しようとするなら、現代社会のそうした合意など置き去りにしてゆかなければならない。そしてそれは、われわれ現代人の心の底にも息づいている人間性の根源を問うことでもある。
 現代人は、原始的な受動性を自意識という観念で封殺し、能動性こそ人間の本性であり、それによってよりよい社会が実現すると合唱している。
 よりよい社会を実現しようとすることは正義であると、多くの人が信じている。そういう正義を振りかざされると、われわれはつい口をつぐんでそれにしたがってしまう。
 まあ、そうやって世にクレーマーが横行する。自分は安全な立場に立って正義を主張し、他者を悪として裁いてゆく。べつに居酒屋のクレーマーや教育現場の父兄会のモンスターペアレントだけの話ではない。近ごろのフェミニズム運動や自然を守ろうという市民運動だって、ようするにこのスタンスのクレーム行為と別のものではない。
 誰もが能動的に正義を主張し、自分を正当化しようとしている。主張したもの勝ちの世の中になっている。しかし、そうやって人間的な知性や感性が貧しくなっていることはありはしまいか。そんなふうにして他者を裁くことばかりしていたら、ネアンデルタール人のような他愛なく他者にときめいてゆく心の華やぎや、どんな運命も受け入れるという率直なたくましさも育ちようがない。
 現代人は、受動的な心のはたらきの華やぎを見失っている。それは、死に対する親密さを失っている、ということでもある。
 まあ、幸せになりたい人や自分を正当化したい人は、そうやって生きのびようとする能動性こそ人間性だと信じていればいい。信じて邁進しなければそれは実現しない。しかし、だからこそ正義ぶったクレーマーをはじめとする現代人の思考は、どんどん陳腐で低俗に痩せ細ってゆく。
 自意識は、現代社会で成功する武器にもなれば、それによって精神を病んだりもしている。
「受動性」といっても、ただ受身で何もしないというのではなく、誘惑されてときめき華やいでゆくということであり、そのようにして人間の思考や行動のダイナミズムが起きている、ということです。
 人は、存在そのものにおいてすでに世界や他者から誘惑されている。世界や他者は、存在そのもにおいてすでに人を誘惑している。
 原初の人類は、何かに誘惑されるようにして二本の足で立ち上がっていった。誘惑されている心こそ、人間性なのだと思えます。
 心は、誘惑されるようにして世界や他者に気づいてゆく。その「気づく」という受動的な心のはたらきのダイナミズムこそ人間性なのではないでしょうか。すくなくともネアンデルタール人は、そういう心のはたらきをとても豊かにそなえていた。そなえていたから彼らは、その苛酷な環境を生き残ってゆくことができた。
 人間は、死に誘惑されて存在している。けっきょくそこからはじまっている。



 ネアンデルタール人は、次々に人が死んでゆく苛酷な環境だったのに、それでもその環境に誘惑されていた。彼らはすでに死に誘惑されていた。
 そしてこのことは、人間にとって自然とは何かということを考えさせられます。
 人間は、どんなひどい環境でも受け入れ、地球の隅々まで拡散していった。
 現在のチェルノブイリ周辺の放射能が残っている地域にも、いったん避難した人が戻ってきて暮らしていたりするらしい。危険なのはわかっている。しかしそれは、ネアンデルタール人がその苛酷な環境に住み着いていたのよりもひどい暮らしだというわけでもないでしょう。死は案の内、みんな「いつ死んでもいい」と覚悟して住み着いている。誰もが、その苛酷な環境を受け入れている。誰もが死とその環境に誘惑されている。人間はもともとそういう存在なのだ、ということを彼らが教えてくれている。
 住みよい土地かどうかということなど問題ではない。
 つまり、人間にとって自然とは「守る」べきものでもなんでもない、ということです。
 すでに死に誘惑されている存在である人間は、どんなに荒廃した自然も苛酷な自然も受け入れてしまう。
 そこが身体の外の「環境世界」であるということそれ自体に誘惑されている。
 守るべき自然など存在しない。人間はほんらいもっと自然に対して謙虚な存在であると同時に残酷な存在でもある。自然はもう、「環境世界」であればそれでよい。それはつまり、どんなに自然破壊して高速道路やビルをつくったって、そこが「環境世界」であればそれでよいということでもあります。
 まあ、人間が田んぼや畑をつくることだって自然破壊でしょう。最終的には、田んぼや畑はよくて原発や高速道路やビルはいけないという理屈は成り立たない。
 牛や鶏は殺して食ってもかまわないがイルカはいけない、という理屈も成り立たない。
 人間は自然を破壊する存在だし、自然は「環境世界」であればそれでよい。その代わり、どんなひどい環境世界でも受け入れる。無意識において死にたいする親密な感慨を抱いている存在である人間は、「環境世界」であるということそれ自体からすでに誘惑されている。だから、自然破壊はいけないという理屈そのものが成り立たない。
 ネアンデルタール人が受け入れていた環境に比べれば、死亡率生存率ということにおいてチェルノブイリの環境はまだましだといえなくもない。とにかく人間は、そういう環境にすら誘惑されて住み着いてゆく。
 命と引き換えの冒険をしたがる人もいる。人間なら、いざとなったら誰でも冒険をする、ともいえる。誰の中にも、死にたいする親密な感慨は息づいている。それが人間の普遍的な行動習性です。
 海水浴だって、生きられない環境に身を置くひとつの冒険です。海であるということそれ自体において、そこは人間にとって生きられない環境世界であり、生きられない環境を生きるカタルシスがある。
 人間は死に誘惑されている存在だから、自然が死に導くものであっても、それを許している。そうやってネアンデルタール人は生きられない環境の氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったし、チェルノブイリに戻って住み着く人も出てくる。
 台風や大地震など、自然だって自然破壊をする。自然破壊をすることが自然だ、ともいえる。近代人の自意識を満足させる自然だけが自然であるのではない。人間は、そこが環境世界であるということ自体に誘惑されてしまう。そこはもう、大都市のビル群だろうと、工場群だろうと、スラム街だろうと、廃墟だろうと、のどかな田園風景だろうと、原発のある景色だろうと、海であろうと山であろうと、大火事や大津波の跡だろうと、人間の無意識はぜんぶ受け入誘惑されている。人間にとって美しくない風景なんかないし、守るべき自然もまたない。
 たとえ生きられない環境であろうと、環境世界であるいうことそれ自体に人間は誘惑されている。



 人間であることはなやましいことです。
 死に対して親密なわれわれの無意識は「すべてのことは許されている」と思っているし、生きのびようとする社会制度の観念においてはあれこれの人を縛る規範をつくってもいる。
 まあ「自然を守れ」などといっても、ただの制度的自意識というか、そうやって正義を振りかざすクレーマーになっているだけでしょう。「守るべき自然」なんか、死にたくない近代人の自意識の中にしか存在しない。
 そりゃあ誰だって、ときにはせつないほどに、花を愛し、田園風景を愛し、空の青さや海の青さが目にしみたりしていますよ。でもそんな自然とは無縁の環境でも暮らしてゆけるのが人間で、ネアンデルタール人にとっての氷河期の冬の荒涼とした原野なんか、気が狂いそうになるだけの空虚な風景だったのかもしれない。それでも彼らは、その環境世界を許し受け入れていった。その気が狂いそうな違和感から華やいでいった。そんな環境の中に身を置けば、どれほど世界や他者が親密な対象になることか。どれほど深く世界や他者を許してゆけることか。今どきのクレーマーの自意識過剰の偏狭な正義感なんか、ネアンデルタール人にはなかった。彼らの社会には、正義も悪もなかった。すべては許されていた。
 彼らは、短い夏の太陽や花がどれほど貴重な対象であるかを身にしみて感じていた。おそらく彼らほど花や太陽を深くせつなく愛した人々もいない。
 シャニダールのネアンデルタール人の遺跡では花を添えて埋葬していた、という説は有名だが、そのことを、ただ偶然そこに花粉が運ばれてきただけだといっている置換説の研究者もいる。しかし、ネアンデルタール人がどれほど深く花を愛していたかという状況証拠はないわけではない。あんなにもひどい環境を生きていれば、花に対する愛着が育たないはずがない。花の豊かな色彩だけでなく、花が咲いて散ってゆくということに対する思いも、われわれよりずっと切実だったはずです。彼らには、そういう死に対する親密な感慨があった。 
 人間ほど生きてあることを深く嘆いている存在もいないし、人間ほど世界や他者に対して豊かにときめいている存在もいない。ネアンデルタール人ほど人間であることのなやましさを深く豊かに生きた人々もいない。
 人間にとって自然とは何かという問題は、安直に「自然を守れ」といっているだけではすまない。人間は、深く自然を愛しつつ、その死に対する親密さで自然破壊を許している存在でもある。ネアンデルタール人は、草食獣を飽くことなく次々に殺戮狩猟しつつ、一方ではありったけの親密さをこめてその草食獣の絵を洞窟の壁に描いたりもしていった。マンモスをはじめとして、人間に滅ぼされた大型草食獣はいくらでもいる。人間だって狩をしないと生きられなかったし、思い切り胸を躍らせてその行為に熱中してもいた。人間の自然に対する思いは、ほんとになやましくくるおしい。ただの「自然を守れ」というステレオタイプな正義だけですむ問題ではない。現在のアフリカや中近東が砂漠化していったことも、モアイ像で有名なイースター島から人がいなくなってしまったことだって、人間がいい気になって自然破壊していった結果です。
人間は自然破壊する存在であり、それが人間の自然です。自然破壊がだめだというのなら、人間のいない地球にしてしまうしかない。人間は自然破壊をしてしまうくらい自然が好きな存在だということです。木が好きだからこそ、木を切って家や家具調度を作ったりするのでしょう。自然破壊がいけないのなら、木の家に住んだり木の家具を愛したりするなという話です。人間は、自然が好きだからこそ自然破壊をしてしまうのです。
 ネアンデルタール人は、大型草食獣が好きだったから、それを狩して食おうとしていたのです。それを狩して食おうとするくらい好きだった、ということです。
 自然の死、すなわち「世界終わり」それ自体が人間にとっての親密な対象なのです。人間は、死を支払って自然を愛している。自然破壊をしてしまうくらい自然を愛している。
 人間の自然に対する感慨は、なやましくくるおしい。
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