死んでもいい・ここだけの女性論15


なんのかのといっても、歴史的に、日本列島の女は死の問題を解決している存在だった。死と和解している存在だった。
そこにおいて、男をリードしていた。人間が生きのびようとしてあれこれ生産活動や政治活動に励んでいるからといって、いちばんの大問題はそのことでしょう。
中世は無常感の社会で武士は死んでゆくことなんか何も怖くなかったといっても、その無常感は、女のそうした感慨が男にもしみていって成り立っていたのでしょう。何はともあれ女が男の世話をするのが好きな社会だったから、男もまた無常感を持つことができた。無常感は、女のほうが濃密だったのです。
男はもともと死ぬことを怖がりうろたえる存在です。だから、戦争という殺し合いをする。戦争になったらもう、怖がってなどいられないですからね。怖がっている存在だからこそ、そういう状況に立とうとする。
中世の武士が死ぬことを怖がらなかったといっても、心理的にはいつも怖がらないための殺し合いの場に身を置いていたからです。男たちには、死を怖がらないための戦争が必要だった。彼らは、死を怖がらないでいることができる戦争にどんどん夢中になっていった。それはまあ、中世という時代の病気みたいなものでもあったのでしょう。



男たちがなぜそこまで病気みたいに戦争が好きになっていったかというと、女たちの心がすっかり「非日常」の死の世界に入ってしまっている社会だったからでしょう。男たちはもう、そこまでしないと女の世界についてゆけなかったし、ついてゆけば死を怖がってなどいられなかった。
平安時代の宮廷の女たちは、十二単という衣装に自分の体を押し込め押し包みながら、男たちの権力闘争の世界からどんどん離れて「非日常」の死の世界に入っていった。それが「あはれ」や「はかなし」の女流文学の世界です。そうやってこの生やこの世界を嘆きながら、嘆きながらしかしどんどん心は華やいでいったので。女たちはそういう「輝き」を持っていて、それに引き寄せられるように男たちも死を怖がらない世界に入っていった。
中世の権力社会の女たちはみな政略結婚の道具になっていたというが、女たちにとっては「政略結婚上等、知らないよその男のところに嫁に行くほうが生まれ育った世界を離れられてせいせいする」という思いがあったのでしょう。
女は、本能的に生まれ育った世界を離れたがる衝動を持っている。猿のメスだって、勝手によその群れに入り込んでいったりするのです。それほどに生まれ育った世界の日常に幻滅している。つまり、生きてあるというそのことに幻滅している、ということです。そういう「女のかなしみ」は、男よりももっと深く死と和解している。



中世の人々の心は、「非日常」の世界に入り込んでしまっていた。それがまあ「無常」という世界観であり、それによって武士の男たちが戦争ばかりしている世の中になったし、能や茶の湯や辻が花や数寄屋造りなどのさまざまな和風文化が花開いていった。
何はともあれ、心が「非日常」の世界入り込むと、心が華やぐのですよね。そういう「輝き」を女は持っている。
中世の女たちは政略結婚の道具になっていたといっても、心は、現在の大人の「いい女」たちよりもずっと華やいでいたのだろうと思いますよ。
日本列島の女は、片足を死という非日常の世界に突っ込みながら男の世話をしている。だから日本列島のおもてなしの文化は高度に洗練している。
弱い猿として生きてあることを嘆いている存在である人間にとっては、生きのびることよりももっと死の問題は差し迫っている。死と和解できなければ生きていられない、というか。
女が男の世話をするということには、この社会を死と和解している環境にしておくという機能があったのです。それが日本文化の基底のかたちであり、女は、歴史的にそういう役割を果たしてきた。
いや、死と和解してゆこうとすることは人間の普遍的な心の動きのはずであり、そのことを基礎にして人の世界が成り立っている。



政略結婚の道具になってやることも、ひとつの「男の世話をする」という行為だってのでしょうか。そうやって女は、「非日常」の世界に立って男や子供や老人の世話をしている。
まあ女が世話してくれようとくれるまいと、やらせてくれようとくれるまいと、日本列島の社会には、男が女から学んでゆくという構造があるのです。
女は、他者を生かそうとする本能を持っている。そうやって自分なんか死んでしまってもかまわないという気分になっている。そうやって女は華やいでいるし、その華やぎに引きずられて中世の男たちは戦争ばかりしていた。
べつに女や母のやさしさとか愛というようなものはどうでもいいけど、女がそなえている死の問題を解決し死と和解しているという能力は女を輝かせ、それがこの社会をリードする力になってきた。
女が持っている「かなしみの気配」とは「死と和解している気配」のことであり、それが女の「品性」になり「輝き」になっているのだろうと思います。女の心は、そこから華やいでゆく。



ほかの女と競争して「いい女」になろうとがんばったり「幸せ」を自慢したりしている女の心なんか、下品で荒みきっているだけだと思います。「いい女」と「幸せ」という既得権益というか私有財産が欲しいのでしょう。いまどきは、そういう政治的な存在になってしまっている女の、なんと多いことか。べつにそういう女がいてもいいけど、この国の多くの女たちがそんな空騒ぎに引っ掻き回されて輝きを失い、男と女の関係が不調になってしまっているのだとしたら、それはそれであまり愉快なことではない。
上手に男をたぶらかす女ばかりが得をする世の中になっているのでしょうかね。だから男と女の関係が不調になってしまう。そういう女にうんざりしている男たちがいっぱいいる。
まあ男は、そういう女にうんざりできる感性を磨いたほうがいいのでしょうね。そうしないと、そういう女たちにやられっぱなしになってしまう。
男が鈍感になってしまっている世の中なのでしょうか。だから、そういう女たちにつけ込まれる。つまらない「いい女」をありがたがっている男が悪い。女の品性と輝きはどこにあるのかということを、男たちが見失っている。たらしこむのが上手な女とのかけひきに負けてしまっている。
そりゃあ、女が本気で男をたらしこみにかかれば、男は負けてしまうのですよね。女が自粛してくれないことには、共存できる道はない。男たちは今、女がいかに男をたらしこむ能力に長けている存在かということに気づかされ、驚きうろたえている。と同時に、そんな路線を歩んで自滅している女も増えてきているのでしょう。
そんな小ずるいかけひきはほかのもっとバカな男を相手にやってくれ、といいたい男はやっぱりいるし、そんな努力やかけひきとは無縁の天然自然のままに輝いている女だっている。
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