もう一度、団塊世代への言いがかり

団塊世代は、親に反抗しながら、親と同じことを、親よりももっとあくどくダイナミックにやってきた。
時代が違うというだけで、意識は、親の世代のまんま。
団塊世代の親たちが戦後の経済復興の礎を築いたとすれば、団塊世代は、それを大きく花開かせた。
それは、まあいい。
しかし「ニューファミリー」をつくって、親がやったのと同じように子供を囲い込んでしまったということは、子供に対するとんでもない暴力なのです。
暴力だから、これだけタイトで安定した核家族をつくりながら、「親子の断絶」とか「娘に嫌われる父親」といわれるような現象が生まれてくる。
彼らは、もともと年長・年少の子と遊ぶというトレーニングを子供時代にしてこなかったから、異世代との関係を持つことが下手なのです。
そして、親の権威で縛るという明治時代の家父長制によって育てられたわけでもなく、大事にかわいがれて育っただけだから、けっきょく「ニューファミリー」というケーキのように甘ったるいスローガンを信じるしかなかった。
それは、親が子供を支配する手段の、たんなるバリエーションにすぎない。
しかし子供にとっては、そんな真綿で首を絞めるような囲い込みよりも、もっと風通しのよい家族であってくれたほうがいい。
思春期以降の子供にすれば、「ニューファミリー」共同体の仲間として囲い込まれるよりも、おたがい一人の「他者」として、「出会いのときめき」を持った関係でありたいと願う。子供よりも、親のほうがまずその「視線」をどうして持てないのか。子供は、そこから何かを学んでゆく立場であろう。
しかし団塊の世代の親には、予定調和的な仲間意識で生きることしかできず、異世代に対する「出会いのときめき」を持つ感受性も、それを表現する能力もない。
で、「断絶」が生まれる。
「ニューファミリー」なんて新しくもなんともない。そんなことは、韓国が、儒教とともに何百年も繰り返してきたことと大して違いはない。韓国の家族制度は、「ニューファミリー」のお手本だといってもいいくらいです。
勉強しろと親にやかましく言われて家に火をつけた、などという事件もあったが、こんなことは、韓国の儒教的家族制度を見習えばけっして起きない。家族が正義だ本質だといって「ニューファミリー」がやりたいのなら、韓国のレベルまでいくしかない。
家族が正義だというなら、そういう親も出てくるのは当然だし、たいていの親がやっていることでもある。
現代社会において「家族」という単位はとりあえず必要だが、家族が正義ではないし、家族が正義だ本質だというスローガンが人を成長させるのでもない。そういうことは、ぶざまな団塊世代の親父やおばさんたちを見れば、よくわかるじゃないですか。
人は、家族の外に出てほかの人と出会いながら成長してゆくのでしょう。べつに、むずかしい理屈でもなんでもない。
彼らは、全共闘運動で大暴れしたくせに、歴史の流れを押しとどめたり、新しい歴史を展望したりするヴィジョンを、なにひとつ示せなかったし、そういう心意気もなかった。
人間の歴史の傷口を広げるだけのことしかしてこなかった。
親たちの世代に認知症をあふれさせ、子供たちからは「社会」を肯定してゆく意識を奪ってミーイズムに閉じ込めてしまった。
彼らの無反省な人生が、どれほどまわりを不幸にしたことか。彼らは、同世代のネットワークをアイデンティティにして生きてきたから、尊敬もいたわりも反省も反抗もときめきも知らない。
この先文明の進歩が加速度的に勢いを増して、もうわけがわからなくなってしまうとしたら、その弾みをつけたのは、団塊の世代だということになる。
それは避けがたい歴史の必然だったのだというなら、そういう役割を担ってしまったことの「悔恨」というものが、多少なりともあっていい。
にもかかわらず、まだ幸せな余生を送ろうと躍起になっている。
あなたたちに、そんな資格はない。
団塊世代を、甘やかしてはいけない。
まあどの世代にしても、大人たちはひとまず総懺悔して反省してみる必要はあるように思えます。大人たちがつくってきた社会なのだから。
そして、今なぜネアンデルタールかといえば、彼らこそ、団塊世代の対極を生きた人たちだからです。