自由とは何か・ネアンデルタール人論83

 このブログは今、人類史の「起源論」の基礎的なところを考え続けています。今どきの古人類学は、そこのところの問題設定において、ぜんぶ気に入らない。参考にできる問題設定など、何もない。だからもう、自分の頭で考えるしかない。既成の学説を引用して満足し思考停止している暇なんかない。引用して知ったかぶりしようとする趣味なんかない。
「自由とは何か」ということは、哲学の大命題らしい。人間の思考や行動はすべて「自由」に向かういとなみである、と哲学者はいう。「自由」とは解き放たれている状態のことをいうのだとすれば、その「解放=自由」に向けたいとなみが人類の歴史だったのだろうか。
 ほとんどの人類学者はこういう、「人類の歴史は生き延びるための必死のいとなみだった」と。
 では、「生き延びる」ことは人間にとっての「解放=自由」になるだろうか。
 生きることなんかどこまでいっても鬱陶しくいたたまれないことで、長く生きれば生きるほど鬱陶しくいたたまれないことになってゆく。
 生き延びることが「解放=自由」になるのではない。生き延びることそれ自体はどこまでいっても鬱陶しくいたたまれないことで、その鬱陶しくいたたまれないことから解放されて心が華やぎときめいてゆくところに「解放=自由」がある。
 たとえば原初の人類が外敵の襲来を警戒して緊張ばかりしていたら、それは「解放=自由」の状態だとはいえないだろう。しかも二本の足で立ち上がって猿よりも弱い猿になってしまった彼らには、外敵と戦う能力どころか逃げる能力すらなかった。そんな彼らにとって「解放=自由」はもう、外敵のことなど忘れてしまうことにしかなかった。外敵と戦うことや外敵から逃げることが彼らの「解放=自由」であったのではない。外敵の存在など忘れてひたすら「無防備」な状態になってゆくことこそ、彼らの「解放=自由」だった。
 かつてこの国の古人類学の権威だった今西錦司は、「人類が二本の足で立ち上がったのは手に棒を持って戦うためだった」といっていたが、まったくばかげた「起源論」だ。もう原理的に錯誤している。そんなふうに緊張しっぱなしで生きていたら気が狂ってしまうだけだ。そうやって「生き延びる能力」を持ったからといって、けっして「解放=自由」にはならない。まあ現代人はそんなふうに生き延びようと緊張しっぱなしで生きているから、しまいに認知症鬱病やインポテンツになってゆく。今西錦司もまた、現代人の物差しで原始人を考えることしかできなかった。
 人類が二本の足で立ち上がることによって獲得した「解放=自由」は、「生き延びる能力」だったのではなく、「もう死んでもいい」という心地とともに生き延びようとする欲望を捨ててしまうことだった。そんなことは忘れて心が華やぎときめいていったのが、二本の足で立ち上がることによってもたらされた「解放=自由」すなわちイノベーションだった。
 現代社会の「閉塞感」は、生き延びようと緊張しっぱなしでいなければならないことにある。そのあげくに認知症鬱病やインポテンツになってゆく。
 人類は、地球上のすべての外敵と戦う能力を得て「万物の霊長」とやらになった。戦う能力を持ったからこそ、戦う準備ばかりして緊張しっぱなしの存在になってしまった。そうやって人間どうしが戦ったり競争したりしている。まあそんなふうになってしまったのならそれはそれで歴史の必然的ななりゆきなのだからしょうがないのだが、それでも普遍的な人間性の自然というのはあるわけで、われわれ現代人の「解放=自由」だって本質的には心が華やぎ無防備に他愛なくときめいてゆく体験にある。そしてそのカタルシスという快楽は、生き延びる能力を持たない「この世のもっとも弱いもの」こそもっとも深く豊かに体験している。つまり、この社会のエリートだろうと名もなき庶民だろうと、人の心が華やぎときめいてゆくことは「この世のもっとも弱いもの」になってゆく体験であるということだ。原初の人類がそうやって二本の足で立ち上がっていったように。
 生き延びる能力を持って「緊張感」とともに生きるか、それとも生きられない存在になって心が華やぎときめいてゆくカタルシスを汲み上げながらその「集中力」で生きるか。その問題においては、エリートも庶民もない。それもまた、人としての「自由とは何か」という問題でもある。


 今どきの中高年の多くは「このごろ夢中になれるものがなくなった、何ごとにもときめかなくなった」とぼやいている。社会的に成功しようとしまいと、「緊張感」で生きてきた人間ほど、そのようになってゆく。そうして、いつまでたっても生き延びる能力としての成功体験に執着している。ささやかなりともたとえば人にちやほやされるとかの成功体験があればそれでなんとか満足して生きられるのだろうが、それすらもなくなったときにはもう、認知症鬱病やインポテンツに向かう坂道を転がり落ちてゆくしかない。というか、いじましくそんな成功体験にしがみつきながら、すでに転がり落ちはじめている。その、「ときめき」という「解放=自由」がないことの「閉塞感=緊張感」で、心がパニックを起こしはじめている。若年性の認知症とかインポテンツとか、40歳50歳を過ぎればもうはじまっているらしい。そして、なんだかわけのわからない鬱病とか発達障害とかはもう、あらゆる世代で起きている。
ときめき失調症候群……。
 自分を満足させる成功体験と、自分の外の世界や他者にときめいてゆくこととは、意識の向きが逆になっている。現代人の多くは自分を満足させることが「解放=自由」だと思っているが、実際の人間性の自然においては、自分を忘れて世界や他者にときめいてゆくときにこそ「生きた心地」という「解放=自由」がある。生きてあることを忘れている状態が「生きた心地」であり、生きることを消去してゆくことが生きるいとなみなのだ。われわれの「解放=自由」は、そういうパラドックスの上に成り立っている。息苦しければ息苦しい体のことばかり気になっているが、息を吸い込めばそんな体のことなどすっかり忘れて、息を吸おうという気も起らない。体=命のことなどすっかり忘れているときこそ、もっとも体=命が充実している。そういう意味で「生命の尊厳」などともいっていられない。自殺することを批判したり否定したりする権利は、人間にはない。ただもう他者に「生きていてくれ」と願ってしまう人間性の自然があるだけで、自分の命をどう扱うかという問題など存在しない。自分の命のことなど忘れてしまうのが人間であり、忘れることができないのなら生きられない。人の心は「生きられない」と思ってしまうようにできている。この世界にときめくことができないのなら生きられないし、生きられないものこそもっとも深く豊かにときめいている。
 われわれの生の根拠は生と死のはざまにあるのであって、生そのものの尊厳などというものはない。生き延びようとする「緊張感」は「閉塞感」や知性や感性の停滞をもたらすだけで、そこからこの生が活性化してゆくということはない。
 生き延びることに執着しても「解放=自由」はやってこない。生きてあることは鬱陶しくいたたまれないことで、そこからの「解放=自由」としてこの生が活性化する。
 生きてあることはこの生に閉じ込められてある状態で、そこから人の心は死の世界に飛躍してゆく。そうやってこの生を忘れてゆくのだとすれば、それもまたひとつの人間性の自然だといえなくもない。
 自殺するなんてともあれこの生とかかわることなのだから不自然なことかもしれないが、「生の尊厳」などという概念で裁くことはできない。自殺しようとしまいと、生きものはこの生からの「解放=自由」を体験できないでストレスが募れば、それだけで自然に衰弱して死んでしまったりする。自分の命なんかどうでもいいという「自由=解放」を体験できなければ生きられない。そこでこそ命が活性化するというパラドックスがある。「もう死んでもいい」という心地においてこそ、人の思考や行動はもっとも活性化する。われわれはもう、そういう心意気というか勢い持たなければ生きられないし、生き延びることに執着している人間の思考や行動のなんとブサイクなことか。


 歳を取ると体のあちこちが不調になってきて、体のことを忘れている状態にはなかなかなれない。そうやって意識が「体=自分」にばかり向いて、世界や他者に対するときめきがどんどん減衰してくる。自己愛が強い人間でも、若いときなら「体=自分」のことを忘れてときめいてゆく体験も同時にできるが、歳を取るともう自己愛を募らせて生きてきたツケが回って、すっかりできなくなってゆく。そうやって認知症鬱病やインポテンツになってゆくし、「このごろ夢中になれるものがなくなった」とぼやきながら「生涯学習」というスローガンにすがりついていったりするのだが、自分を満足させるための「生涯学習」のレベルなどたかが知れているし、それが根本的な解決になっているわけではない。学習することなんかかんたんだが、「発見してときめいてゆく」という本格的な学問や芸術の体験ができる人はほとんどいない。そしてそんな体験の醍醐味や本質は、「生涯学習」といっていきがっている中高年よりも、他愛なく人や物事にときめいてゆくことができる無知で無能で無邪気なおじいさんやおばあさんの方がずっとよく知っている。つまり、人間であることの「自由」は彼らのもとにある、といえるのかもしれない。
 まあ長く生きてくればいまさらその人の人格など変えようもないが、たとえば「自我の確立」とか「命の尊厳」などという社会正義に踊らされて生き延びようとする俗っぽい欲望が人間性の自然であるかのように思い込んでいたら、本格的な「生涯学習」などできるはずもない。自分が生きてきた人生の成果をすべてチャラにして生きなおすくらいの心意気と覚悟がなければ、なかなか難しい。
 生まれたばかりの子供のような心になってこの生やこの世界を問い直してゆくところから「生涯学習」がはじまる。それができないのなら、どれほどいい気になっても、そんな学習のレベルなどどこまでいっても「老人の暇つぶし」の域を出ない。
というわけで、「自我の確立」とか「命の尊厳」などという近代合理主義の価値観を物差しにしていては、いつまでたっても人類の知能(知性や感性)の本質や文化の起源に迫ることはできない。そういう俗っぽい概念はいったんチャラにして問い直した方がよい。
 まあ本格的な科学の世界で既成事実をひっくり返すことはそれこそ命懸けの探求が必要だろうが、古人類学の世界で既成事実になっている学説なんか、いいかげんな嘘の穴だらけだ。多くの研究者たちが、ちょっと考えればつじつまが合わなくなってしまうことを、疑うことができないことであるかのように合唱している。考古学の発掘成果や遺伝子学のデータは尊重するしかないが、それをどう解釈するかということにおいては、プロの研究者もまたけっきょくのところただのアマチュアにすぎない。それはもう、基礎的な人間学(哲学)や歴史学の思考および教養を携えて問うてゆくしかないのだ。
 文科系であろうと理科系であろうと、基礎的な学問は、もっとも難解で高度な学問であると同時に、生まれたばかりの子供ようなまっさらの心で「なぜ?」と問うてゆく思考態度も持っていないと取り組めない。現在の古人類学者たちには、その「基礎学」が欠落している。だから、「4〜3万年前のアフリカ人が大挙してヨーロッパに移住してきた」などという途方もないことをいいだす。ちょっと考えればつじつまが合わないことがいくらでも出てくる仮説にすぎないのに、彼らはもう、疑うことのできない既成事実であるかのように信じ込んでいる。
 まあ、そんな「トンデモ説」があふれかえっている時代なのだろう。文明社会の制度性というか共同体の権力は、人を思考停止に追い込む。民衆に思考させないことが「支配する」ということだ。それはもう、ナチスヒットラーの例がもっとも確かな教訓になっている。
 多くの古人類学者たちが、「生き延びようとするのが人間性の自然・本質である」と信じ込まされ、思考停止に陥っている。そうやって民衆を信じ込ませれば、権力者は支配しやすくなる。生き延びることに執着の強いものほど、上に対しては従順で、下のものには威張りたがる。それが、集団の中で生き延びる最善の方策だからだ。そうやって社会の支配=被支配の秩序が隅々まで浸透してゆく。まあそれは猿の「順位性」と同じで、猿社会はそれによってボスが君臨する秩序が完璧に機能している。
 人間の社会は猿のそれほどには支配=被支配の関係がスムーズにいかないから、支配者は、民衆の意識操作をしたり監視したりということを巧妙に仕掛けてゆく。それはもう、時代を経るにしたがって巧妙でタイトになってきている。そうやってわれわれは「閉塞感」を募らせている。


「われわれは何をするために生まれてきたのか」とか「人はいかに生きるべきか」というようなことを、この生の大問題であるかのように唱えている人たちがいる。社会に踊らされている人間ほど、そういうことを問題にしたがる。それもまた、権力者が仕掛ける、人を思考停止に追い込むデマゴーグのひとつだ。生き方なんか人それぞれの人生のなりゆきというものがあり、どんなふうに生きねばならないという決まりなどあるはずがない。余計なお世話というものだ。100人いたら、100の生き方がある。Aの方法でうまくいった人もいれば、Bの方法でうまくいった人もいる。どの生き方がうまくいくかなんてただの結果論だし、うまくいかない人生にもそれならでは味わいがある。うまくいかないとか正しくないとわかっていてもそういう選択をしてしまう場合もある。なにしろ原初の人類は、より住みにくい土地住みにくい土地へと拡散していったのだ。彼らが新しく住み着いていった土地は、すべて生きられない「荒野」だったのだ。
「いかに生きるべきか」という決まりがあるなら、「この生とは何か」と問う必要がない。それを問えば、誰の中にも集団からはぐれてゆく心があることに気づいてしまう。支配者にとっては、そんなことに気づかれたら困る。考え続けることは、答えなどない「荒野」にさまよい出てゆくことだ。支配の秩序を保つためには、人々の思考を答えのある問題の中に閉じ込めておかなければならない。そうやって、時代=社会に踊らされているものほど知ったかぶりをしたがる。彼らは、答えのある問題しか考えたがらないし、答えのある問題しか知らない。それは、思考停止しているのと同じだ。
 人生になすべきことなど何もないし、共同体の秩序に奉仕しなければならない義理もない。どんな社会であれ、奉仕するべき社会など存在しない。心が社会から解放される「自由」のために社会が存在する。その「はぐれてゆく」という心の動きを持たなければ、人は生きられない。「はぐれてゆく」という心の動きを持たせることによって社会は維持されてゆく。
「新しいよい社会をつくろう」なんて、社会に守られて生きることを当てにしているからで、それ自体社会を支配する権力者に踊らされ洗脳され、みずからもまた権力(支配)欲をたぎらせている思考にすぎない。そこに、社会からはぐれてゆく「自由」はない。
全共闘世代は、社会からはぐれてゆく「自由」を知らなかった。だから、全共闘運動のあとの新しい高度経済成長の社会にたちまち順応していった。人の心は、社会からはぐれてゆく。彼らは、社会からはぐれながら社会に飼いならされていた。そういう権力(支配)欲の旺盛なものたちだった。
「いかに生きるべきか」なんて、心が生きることに閉じ込められているからで、生きることを忘れてしまう「自由」はない。考えているようで、何も考えていない。共同体から下りてくる「生命の尊厳」という概念に洗脳されているところからそういう問題意識が生まれてくるだけのこと、そうやって生き延びようとする欲望をたぎらせてしまっている。そこには、この生とは何か?という問いがない。そんなことは「すでにわかっている」つもりでいる。
 人の心は、この生=自分からはぐれながら世界や他者にときめいてゆく。そこから「なに・なぜ?」と問いながら気づいたり感じたりする知性や感性が育ってくるのであって、自分が生き延びるための処世術に執着しているものにとっての世界や他者は、すでに決定された答えのある存在でしかない。世界や他者をすでに決定された答えのある存在として処理してゆくことを処世術という。共同体の「法=規範=制度」は、そうやって「わからない」ことを「すでにわかっている」ことにし、人を思考停止に陥らせる。共同体の「法=規範=制度」や時代に飼いならされているものほど、知ったかぶりをする。
 思考停止とは、知っているつもりになること。そうやって「なに・なぜ?」と問う心を失っている。制度的な心は、世界や他者を「すでにわかっている」対象として裁いてばかりいるだけで、何も問うていない。何も気づいていない。「いかに生きるべきか」なんて、この生のことが「すでにわかっている」つもりになってこの生を裁いているだけではないか。そうやって自分の生を裁き、他者の生も裁いている。「いかに生きるべきか」というスローガンを掲げながらみんなで裁き合っている。そんな社会が素晴らしいのか?権力者や扇動家はそんな問題を民衆に押し付け、そんな問題に民衆を閉じ込めながら、支配や扇動を強化しスムーズにしようと画策してくる。
「いかに生きるべきか」と問わねばならないなんて、よけいなお世話というものだ。そんなことは、誰もが抱えていて誰もが同じではないこの生のなりゆきによって決まってくることであって、どのように生きねばならないという決まりなどない。
 人を殺してはならない、といっても、正当防衛で殺さねばならないときだってあるではないか。殺すつもりなどなくても殺してしまうときだってあるではないか。誰もがこの生のなりゆきに動かされながら生きている。自分で決定したつもりでも、この生のなりゆきに決定させられただけだったりする。
 原発に反対したければすればいいが、「反対するべきだ」と決めてもらっても困る。人それぞれのなりゆきで、いろんな思いがあり、いろんな立場があるに違いない。「反対するべきだ」と主張する人間がいちばん深く賢明に考えているとはかぎらない。反対するところに人間の尊厳があるとはかぎらないし、そもそも人間の尊厳などというものがあるのかという問いだってある。それこそが、権力から下りてくる、人を思考停止に陥らせる罠であるのかもしれない。
 民衆は、この平和で豊かな社会で暮らしながら、罠にかかって身動きできなくなっているウサギのように思考停止に落ちてゆく。
 まあ、今どきの、いい女になっていい結婚がしたいと願うこと自体が、「いかに生きるべきか」という問題意識にとらわれた、権力者というか時代の罠にかかって身動きできなくなっている思考でしかないし、今や社会問題になっている多くのDVや発達障害、さらには認知症鬱病やインポテンツだって、けっきょくのところ根は同じに違いない。
 根源的には、「いかに生きるべきか」という問題など存在しない。そんな問題に執着していたら、権力者の思うツボなのだ。そうやって人は思考停止に陥ってゆく。
「いかに生きるべきか」という問題から解き放たれてあることを「自由」という。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。
人気ブログランキングへ