鬱の時代21・鬼のいる場所

「命の大切さ」などといっても、いまや行方の知れないお年寄りはたくさんいるし、子供を虐待死させる事件はあとをたたない。
それは、人間が「命の大切さ」というスローガンだけで生きている存在ではないことを意味する。そんなものは「どうでもいい」という「鬼」は、あなたの心にだって棲みついている。
われわれは、どこかしらで「命なんかどうでもいい」と思いながら生きている。飯を食うこともセックスをすることも妊娠出産することも、そういう思いの上に成り立っているのであれば、人間からその思いを奪い去ることはできない。
そう思わなければ、この生のカタルシスは汲み上げられないし、安らかに死んでゆくこともできない。
それは、「死(の恐怖)をのみ下す」行為だ。
「命の大切さ」などと騒いで、人々の「死の恐怖」をいたずらに肥大化させてしまってもいいのか。それは、人間から生きることの醍醐味を奪うスローガンでもある。
言い換えれば、現代人は、死(の恐怖)をうまくのみ下せないから、その恐怖によって「命の大切さ」というスローガンを連呼しているのかもしれない。
しかし大阪の育児放棄した彼女は、あっさりとそれをのみ下してしまった。
社会の制度性から逸脱して追いつめられているものは、避けがたくそういう「鬼」と出会ってしまう。
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追いつめられたものは、今ここから消えようとする。
セックスすることは、今ここから消えてゆくことである。抱き合えば、相手の体ばかり感じて、自分の体に対する意識が消えてゆく。膣の中にペニスを入れている女は、ペニスばかりを感じている。ペニスに引っ掻き回されて、自分の体に対する意識がどんどん消えてゆく。オルガスムスとは、自分が消えてゆくこと。
直立二足歩行する人間は、存在そのものにおいてすでに追いつめられている。それは、胸・腹・性器等の急所を外にさらして、攻撃されたらひとたまりもない姿勢である。つまり、つねに身体の危機にさらされ、追いつめられている。そうして「消えよう」とする衝動を募らせていった。
だから人間は、一年中発情している。
追いつめられた太宰治は、心中して死んでいった。どうして、セックスに耽溺してゆかなかったのだろう。自意識が強すぎて、セックスだけでは自分が消えてゆかなかったのだろうか。
けっきょく、セックスに耽溺できなかったから、死に引き寄せられてしまったのだろうか。
死に引き寄せられてしまったものは、セックスに耽溺できないのだろうか。
それは、今ここで消えてゆくのではなく、「ここ」から「あちら」に移動してゆく行為である。つまり、今ここで消えてゆくことの代償行為にすぎない。
自殺することは、厳密な意味での「今ここで消えてゆく」行為にならない。
病気になった人が自殺するのは、今ここで消えてゆく体力も気力も失ったからだろうか。
今ここで消えてゆくためには、気力も体力もいる。
病気になってじわじわ体が弱って死んでゆくのは、今ここで消えてゆく能力を失ってゆくことらしい。
だからじいさんばあさんは、ぽっくり死んでゆきたい、と願う。ただ「まわりに迷惑をかけたくない」というだけのことではない。
やっぱり太宰治には、今ここで消えてゆくという体験が欠落していたのかもしれない。すなわち、セックスに耽溺する、という体験。
まあ具体的にいえばそういうことになるのだが、ようするにふだんの暮らしの実存感覚として、そういう自分が消えてゆくというタッチが欠落していたのかもしれない。
「生まれてきてすみません」というわりに彼は、自意識が強いから、ふだんの暮らしなかで、自分を消してしんそこから「ごめんなさい」とあやまったことがなかったのだろう。
人に責められたときの言い訳や居直り方が、天才的にうまかったらしい。
しんそこから「ごめんなさい」といえない人間だから、「生まれてきてすみません」ということだったのかもしれない。
見栄っ張りだから、恥も外聞も捨てて女に泣いてすがる、ということもできなかった。網を張って誘い込むようにして、女を心中に引きずり込んでいったのだろう。
彼はもう、自殺することでしか、自分を消すすべを持っていなかった。
病気になって自殺する鬱病の人と同じなのだ。
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それに対して、大阪の育児放棄の彼女は、セックスに耽溺していった。
彼女は、消えてゆくことができた。
追いつめられたものは、今ここから消えようとする衝動を募らせる。その衝動が、セックスに向かわせる。
彼女はそれほどに追いつめられていたし、そのぶんだけおそらく深いオルガスムスを体験した。
しかし太宰にとってのセックスは、耽溺するほどのものではなかったらしい。
男は女ほど深いエクスタシーを体験できないから、男の耽溺の仕方は、どうしてもあいまいになってしまう。男は、セックスしたあと、もうセックスする気力も能力もなくなってしまう。女のように、余韻を引きずりながらすぐまたもう一度したくなるとか、そういうことはない。また、「もう死んでもいい」というような満足もない。
太宰は、セックスの深い快楽の向こうに心中を見ていたのではない。それは、セックスの代償行為だった。
そのとき彼は、睡眠薬のようなものを飲んで半分朦朧としながら、女を道連れに雨の中の玉川上水に沈んでいった。つまり、太宰のほうが「もう死んでもいい」という状態になっていたのだ。
部屋の中で死ぬほどのセックスをしてそのまま一緒に死んでいった、という心中事件とはちょっと違う。彼はそこで、女に「もう死んでもいい」というほどのカタルシスを与えることができなかった。できたら、有島武郎のように、部屋でそのまま死んでゆけばいいだけだった。なにしろ有島武郎の心中こそ、彼の終生のお手本だったのだから。おそらくそうしたかったのだけれど、できなかった。
部屋でセックスしたあと、このまま一緒に死んでゆこうと女に持ちかけた。しかし女は、いやだ、といった。彼のプライドは、ひどく傷ついた。だったら僕ひとりで死んでゆく、といって薬を飲み、雨の町に飛び出した。追いすがる女は、自分はもうこの人に捨てられるかもしれない、と思った。太宰は、玉川上水の堤に寝そべり、「君だけを愛していたよ、さようなら」といった。そういわれたら、女はもう、覚悟するしかなかった。太宰のそばに体を横たえ、二人の体を紐でくくりつけた。そうして抱き合いながら、雨に濡れた斜面を滑り落ちていった。
彼は、セックスによってではなく、ことばによって女を「もう死んでもいい」というところに追い込んだ。
薬の常用のせいもあって、もしかしたらそのころの太宰の性的ポテンシャルは衰えてきていたのかもしれない。
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心中する男女は死ぬほど激しいセックスによって最後の一線を越えてゆく、といわれている。つまり、セックスのポテンシャルがなくなったらもう心中する資格を失ってしまう、ということだ。そういう意味で太宰は、あせっていたのだ。
いや、だからといってわれわれは、太宰をさげすむつもりはさらさらない。
今ここでいいたいのは、そういうことではない。セックスが心中の直接的な契機になるということは、「死にたい」と思っている女は深くセックスに耽溺してゆく、ということだ。大阪の育児放棄した彼女は、セックスに耽溺してしまうほど、深く「死にたい」と思ってしまっていたにちがいないのだ。
ホスト狂いであれ、なんであれ、セックスに耽溺する女を、善良な市民づらしてあまりバカにするものじゃない。あなたの思想のお里が知れる。
セックスは、死(の恐怖)を飲み下す行為である。
死(の恐怖)をのみ下すことは、われわれ現代人の多くがどうしても果たしえないでいる宿題であり、何はともあれ太宰も、大阪の育児放棄の彼女も、のみ干して見せたのだ。