感想・2018年12月23日

<腹を切る>
東条英機は悪だったのか……?
道徳的にいいか悪いかということ以前に、敗戦国としてはもう、その裁きは潔く受け入れるしかなかった。それが日本列島の伝統的な精神風土でしょう。
歴史修正主義といういじましさ、意地汚さ。裁かれたら、言い訳なんかしないでさっぱりと腹を切るのが日本列島の伝統です。
中世の百姓一揆のリーダーたちはみな粛々と首を切られたのだし、それは最初から覚悟していたことです。東条英機A級戦犯として処刑されたことだって同じであり、それはもう受け入れるしかない。
朝鮮慰安婦なんかいなかった、だなんて、今どきの右翼はどうしてそんないじましいことをいうのか。たとえ一人二人のことを百人にされてしまおうと、それはもう受け入れるしかない。それが戦争に負けた国のたしなみというものでしょう。
ましてや、百人のうちの一人か二人はそうじゃなかったからといって、全員がそうじゃなかったと主張するなんて、意地汚いにもほどがある。たとえ九十九人がそうでなかったとしても、言い訳せずに腹を切るのが武士のたしなみなのです。
いや別にそうしろというのではなく、清く正しい右翼を自認するなら、そういう身の処し方もあるということくらいは承知しておいてもよい。
もちろん僕自身は清くも正しくもないただの凡人だけど、彼らの歴史修正主義のいじましさには、ほとほとうんざりさせられる。
戦争のリーダーになるのなら、悪人として処罰されることはあらかじめ覚悟しておく必要があるし、あの戦争は日本人みんなで戦ったのだから、みんなが悪人として腹を切るしかなかったのであり、そうやって戦後の歴史がはじまり、憲法第九条を定めた。そういう歴史のなりゆき=運命が、もはや消すことのできない「事実」として残った。
南京大虐殺がどの程度の規模であったのかはわからないが、虐殺があったという事実はちゃんと映像として残っているのであり、その事実そのものは受け入れるしかない。この国だって原爆や大空襲という虐殺(ジェノサイト)を受けたのであり、戦争とはもともとそういうものだし、そんなことくらいは世界中の人間が知っている。
憲法第九条の精神は、ただ戦争をしないというだけのことではない。自分たちは戦争を仕掛けていったものとしていかなる責めも甘んじて受け入れ、国として滅びることを覚悟して生きてゆく、つまり、人としての「魂の純潔」に殉じる、ということを宣言している。
戦後の日本人は、死者に対するある種の後ろめたさというか、生き残ったことに対する申し訳なさのような感慨を共有していた。
あの戦争で、どれだけたくさんの人が死んでいったことか。そして、生き残ったからといって安楽な暮らしが待っていたわけでもなく、めでたしめでたしという気分だったのではない。
日本列島には、生き残ることを賛美するような伝統はない。無念の死を遂げたヤマトタケル菅原道真平家物語のように、死者に対する親密な感慨を歌い上げるというか死者を祀り上げることこそ文化の本流なのだ。
敗戦直後も震災直後も、みんなして死者のことを想った。それは人類史の普遍的な伝統であり、日本文化はことにそうした原始的な性格を色濃く残している。
人類がチンパンジーやゴリラなどの猿に比べてものすごく人口を増やしてきたということは、そのぶんものすごくたくさんの死者を見送ってきた、ということです。もともとチンパンジーよりも弱くかんたんに死んでしまう猿だったのに、それでも圧倒的な繁殖力で人口を増やしてきた。
われわれ日本人は、あのひどい敗戦によって、どれだけたくさんの死者を見送ってきたことか。戦争が終われば、戦争はひどいものだという実感は薄れても、親しかった死者はもう二度と戻らない、という想いはそうかんたんには消えないし、死者のことがいっそう恋しくもなる。
1957〜8年に島倉千代子の「東京だよおっかさん」という歌が大ヒットした。これは、東京に出て働いている娘が田舎から母親を呼び寄せ戦死した兄のことを想いながら皇居や靖国神社に詣でる、という歌詞だった。
これがなぜ大ヒットしたかといえば、島倉千代子という歌手がその声や風貌に漂わせている処女性の気配と、戦後十年以上たってもまだ日本人は死者のことを想いながら暮らしていたということにある。
処女が清らかだというだけの話ではない。死者の超越性は、そのまま処女の超越性でもある。処女=思春期の少女の心は、現実世界にはなく、すでに死者の国に超出してしまっている、ということ。まあその歌は、そうやってそのころの日本人の心を大いに揺さぶったのであり、その「処女性」は戦後の憲法第九条の精神でもあったわけです。
つまりそのとき人類史の普遍的な伝統が憲法第九条としてよみがえったのであり、それが70年守られてきたことは普遍的な人としての「歴史の無意識」の問題であり、べつに意識的に守ろうとしてきたわけではない、ということです。気がついたらそうなっていた、というだけのこと。そしてそれが今、国民投票という「意識」のレベルで守るべきかどうかと問われる状況になっているわけで、そうなると多くの民衆が「いまさら聞かれてもねえ」とちょっと戸惑っている。
それが不合理なものであるのはわかりきったことです。しかしわれわれが人間であるなら、その不合理は肯定するしかない。命のはたらきも心のはたらきも、不合理すなわち処女の超越性においてこそ活性化する。合理的であることは、命も心も停滞し澱んでゆくということです。現在の社会は、合理的であることの正義を信奉しつつ、すっかり停滞し澱んでしまっている。
停滞し澱んでしまっているということは、権力社会であれ民衆社会であれ停滞し澱んでしまっている人間がのさばっている、ということです。そういう者たちが、「正義」を叫び「健康」や「生命賛歌」を合唱している。しかし、そんな正義・正論などどうでもよろしい。人々の心を動かすのは、言葉の「輝き=魅力=処女性」であって、正義・正論ではない。そのようにして終戦直後の人々は「娯楽」を切に求めたのであり、その不合理極まりない憲法第九条のもとで、正義・正論を旗印に戦争をすることを放棄した。
戦後十数年は、民衆のセンチメント=処女性がまだ生きていたわけで、そうやって演歌の泣き節が大流行していった。
センチメントなんてただの不合理です。しかしそれがなければ、ジョン・レノンの『イマジン』ではないが「戦争のない世界を夢見る」ことなんかできないのであり、じつはそれによってこそ心が活性化する。古いやまとことばではそれを「たおやめぶり」といった。それが日本列島の伝統的な精神風土であり、終戦とともによみがえった。
そのセンチメントこそが戦後復興のエネルギーだったのであり、この国の民衆社会は「センチメント=たおやめぶり」によって活性化する。
島倉千代子の声や歌い方はまったくセンチメントそのものだが、そのころの民衆がそういう歌手を待望していたのであり、まぎれもなく彼女もまた戦後復興を支えた女神のひとりだった。
日本列島の集団は、処女的なセンチメントを共有しながら盛り上がってゆく。

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初音ミクの日本文化論』
それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。
このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。
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