感想・2018年10月26日

<戦後の女神たち7>
大震災であれ、あの太平洋戦争のひどい敗戦であれ、あってはならない不幸というよりも避けがたい運命だったわけで、その「世界の終わり」の「喪失感」を抱きすくめて生きはじめるのがわれわれ日本人の伝統だったはずなのだが、戦後の歴史とともにというか団塊世代とともに、いつの間にかその作法を失っていった。いや、ちゃんと残ってはいる部分もあるのだが、失っている部分もまたすべての世代に伝染してしまってもいる。
敗戦後のこの国は、何もないところからたくさんのものを獲得し復興していった。そういう右肩上がりの歴史とともに育っていった団塊世代は、「喪失感」を知らない世代である。
もちろん団塊世代だけではないが、とくに彼らは人と分かれることに耐えられないし、まわりに自分に興味がない人間がいることも認めようとしない。そうやって同類どうしの結束した集団をつくって固まろうとする。会社に入れば上司についてまわろうとし、自分が上司になればアフターファイブでも飲み屋などに部下を連れて廻ろうとしてきた。まあその流儀で右肩上がりの高度経済成長の時代を担ってきたわけだが、バブル崩壊後の時代はもう、そんなべたべたした関係がもてはやされる社会ではなくなってきた。
むやみにくっつきたがるというそのなれなれしさは、「別れる」ことに耐えられないという強迫観念でもある。自閉症的な人間ほど、他者とのなれなれしい関係を欲しがる。なぜなら、くっついて一体化しているということは、それ自体が自閉して他者=第三者を排除している状態にほかならない。
団塊世代ほどなれなれしい関係を生きようとする意欲の強いものたちもいない。そしてそれはとても排他的だということでもあり、現在の「右傾化」とか「ナショナリズム」とか「分断社会」とか「格差社会」とかの風潮の内実でもある。われわれはこの自閉症的強迫観念を克服することができるか。
バブル崩壊のとき、団塊世代は40歳代で、まさに日本経済の中心にいたのだが、彼らはその喪失感をうまく受け止めることができず、彼らにリードされながら、弱者の切り捨てとか格差社会化とか、企業のエゴイズムとか、セクハラとかパワハラとかDVとか、上から下まで社会の歪みというかモラルの崩壊というか、そうした状況がさらに進んでいった。
現在の政治経済の上層部には、いぜんとして団塊世代が居座っている。いまさらもう、彼らが変わることはない。ほんとにグロテスクな世代だと思う。
バブルの崩壊は、日本人が新しく生きなおす機会になることができるのなら、必ずしも不幸なことだともいえない。しかし、そうはならなかった。
バブルの崩壊の後の相次ぐ大震災とか、日本人が生きなおす機会は何度もあったのに、ますますひどい世の中になってきた。
団塊世代は権力志向が旺盛で、大きなひと塊として育ってきたから団結力が強く排他的でもある。まあ、それによって「革命ごっこ」の全共闘運動に熱中したわけだが、日本人全体を巻き込むことができずに挫折していった。権力志向が旺盛で排他的だなんて、「嫌われ者」の典型である。しかしだからこそ、その後の高度経済成長の競争社会にうまくフィットしてゆくことができたし、バブル崩壊後もいったん手にした権力を決して手放そうとしなかった。
いまや「嫌われ者」に支配される社会で、日本中で嫌われ者が大手を振って闊歩している。そうやってセクハラやパワハラが横行している。嫌われ者が出世する世の中で、近ごろの森友問題で世間を騒がせた財務省の上層部だって、セクハラ・パワハラが好きな嫌われ者ばかりだし、ネット社会でも嫌われ者のネトウヨが大騒ぎして暴れ続けている。彼らは、権力が欲しくてたまらないし、権力があれば何をしてもかまわないと思っている。まあそういう社会の仕組みが出来上がっているし、この仕組みを何がなんでも手放したくない。
彼らは、創造的な思考ができなくて、あくまで既成の枠組みの中でものを考えようとする。それが競争社会に勝ち抜くための最善の方法で、彼らの思考には「インプット」だけがあって「アウトプット」がない。たとえば学校のテストはあらかじめ決められている答えを書き込むルーティンワークであり、つまりそれは権力を欲しがったり権力に忖度したりすることでもあるわけで、そういうトレーニングばかりさせられて育ってゆけばどういう大人になるのか……。
彼らは、インプットすなわち獲得することばかり求めて、アウトプットという創造的思考ができない。創造的思考とは、あらかじめ決められた答えという安定した秩序の外に出ることであり、ひとつの喪失体験でもあるのだ。
彼らは、病的に喪失体験を拒否する。そうやってなれなれしくくっついた関係の中で生きようとする。セクハラとかパワハラとか、ネトウヨの誹謗中傷とか、そもそも人に対してなれなれしいのだ。彼らは、別れのかなしみ=喪失感に耐えることができないのであり、それができないのなら、新しく生きなおすことも創造的な思考もできない分けで、そうやってバブルの崩壊や大震災の「喪失感」を抱いて生きなおすということができなかった。彼らには「出会いのときめき」というものがなく、あくまで既存のシステムにしがみついて安心充足を得ようとする。そうやってこの国全体が、新しい時代を歩みだすということができないまま、ますます病んだ社会状況になっていっている。
とはいえ、こんなひどい状況がいつまでも続くはずがない、と僕は思う。なぜならそれが日本列島の伝統ではないからだ。「進取の気性」こそ日本列島の伝統であり、それは「喪失感=別れのかなしみ」の上に生まれてくる。バブルの崩壊や大震災の喪失感を抱きすくめて生きている人は少なからずいるはずで、彼らはひどい時代になったものだと嘆いている。「失われた20年」というなら、それは「喪失感を喪失している20年」だったのだ。
新しい時代の動きは今、伏流水になっているだけで、いつかは地表に湧き出てくるのだろう。
男尊女卑だか家父長制だか知らないが、右翼たちはどうして女を差別するのだろう。ネトウヨたちはどうして女を攻撃しようとするのだろう。よほど女に相手にされなくて生きてきたのか、よほど女に対して鈍感なのかのどちらかだろう。彼らには「女神」がいない。「女神」を祀り上げるのがこの国の伝統だというのに。
「女神がいない」とは、「ときめきがない」ということだ。女房が子供を連れて逃げてゆく風潮が顕在化してきたのが70年代の後半からだし、お父さんが女房や思春期の娘から「粗大ゴミ」扱いされるようになってきた風潮も、団塊世代からはじまっている。それは、彼らの関係に対する距離感が近すぎるからで、つまり人に対するおそれもときめきもないのであり、妙な共生意識だけでなれなれしくしてくるから鬱陶しがられるのだ。
もちろんこの病理は団塊世代だけのことではないのだが、そういう社会の歪みの中心に彼らが居座ってきたのだし、もうすぐみんな死んでいなくなってゆく。それはまあ、めでたいことかもしてない。

蛇足の宣伝です

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』
初音ミクの日本文化論』
それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。
このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。
初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。
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