日本人は自我が薄く全体主義に流れやすい、などとよく言われる。そうやって戦争ばかりしてきたあげくに、お国のために命を投げ出すという思想の神風特攻隊などという無謀な作戦も生まれてきた。
現代の日本人だって、みんながちゃんと信号を守って暮らしている。
しかし逆に、戦後の日本人は誰もがわがままになったとも言われている。学校や居酒屋などの公共の場で、子供じみたクレームを平気でつけるようになってきた。それはもう、まったく子供じみて自己中心的である。
多くの老舗の店が倒産していったのも、滅私奉公という美風が消えてしまったからだろう。腕のいい職人は、かんたんに金で引き抜かれてしまう。自分を育ててくれた店に対する忠誠心なんかなくなってしまった。
金が正義の世の中である。たくさん金を稼いで安楽な暮らしをしたい。金を稼ぐことが幸せで、戦後の男たちはそういう論理で家族をいとなんできた。
だから一方では、人格者を気取って「世の中、金じゃない」という。しかしそんなことを言っても、人生の目的が「幸せ」とか「生き延びる」ということにあるのなら同じことだろう。「金じゃない」と言っても、金に代わる金と同じものを探しているだけである。
つまり生きることが人間賛歌や生命賛歌であるのなら、何を言ったって同じなのだ。そういう価値意識で人間が動いていると思い、そういう価値意識で人間をコントロールしようとしてきたのが戦後という時代である。
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人と人の関係は、価値意識を共有してつながっているのか。金とか、正義とか、幸せとか、いい社会をつくるとか、いい家庭をつくるとか、そういう価値意識だけで人と人はつながっているのだろうか。
そんなことよりもまず、人はあなたにときめいているのか、あなた自身が人にときめいているのか、という問題がある。そういうことの「結果」として人と人のつながりが生まれるのであって、つながり合うという目的を最初から共有しているわけではないだろう。つながり合うためにつながり合うのではないだろう。
人とつながり合うことなんか鬱陶しいことだ。人間は、つながり合おうとする衝動など持っていない。ただときめき合った「結果」としてつながり合ってしまうだけなのだ。
したがって、「いい家庭」も「いい社会」も存在しない。人間にそんなものをつくろうとする衝動などない。ただただ「結果」としてそういうかたちのつながりができてしまうというだけのこと。
戦後社会は、いい社会をつくろう、いい家庭をつくろう、というスローガンではじまり、いまだにそれが続いている。
しかし、そもそもそれが間違いだったのだ。そういうスローガンだけで、ときめき合うという内実を失ってしまった。
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社会に出てきた若者たちはまず、この世の中の大人たちはこんなにも醜く魅力のない存在だったのか、という印象を抱く。魅力的な大人が、どんどん少なくなっている。外見も中身もぶざまな大人ばかりになってきている。
それは、そうしたスローガンだけで内実のない社会を生きてきたからだ。魅力的な人間にときめいたことがなければ、魅力的な人間になれるはずがない。いい社会やいい家庭をつくりいい暮らしをするというスローガンに染められて生きてきただけで、魅力的な大人になるためのトレーニングなんか何もしてこなかった。
現在でもいい社会をつくろうとかいい暮らしをしようという言説は巷にあふれているが、そんなことを言っている当人が魅力的な人間かどうかはわからない。凡庸な庶民でさえ、政治のことにはいっぱしのことを言いたがる。
日本人にはもう、いい社会をつくろうとかいい暮らしをしようというスローガンしかないのか。
まあ、それだけではすまないという反省も、あちこちでささやかながらも生まれてきているのだろう。
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いい社会であれ、いい家庭であれ、人と人がときめき合った「結果」として生まれてくるのであって、人間の自然として、人間はそんなものをつくろうとする願いもスローガンも持っていないのだ。
いい暮らしをしたいということだって、この社会のスローガンであって、人間の本来的な願いでもなんでもない。そんな願いが人間の自然としてあるなら、地球の隅々まで拡散してゆくということなど起きなかった。ネアンデルタールとその祖先たちが氷河期の極寒の地に住み着いてゆくということなどなかったにちがいない。そうして人類は今ごろ、住みやすい地にひしめき合っていることだろう。
そういうスローガンを優先させれば社会の運営に都合がいいだけのことであって、人間の自然でもなんでもない。
戦後社会は、人と人がときめき合うことを置き去りにして、いい社会をつくろうとかいい家庭をつくろうというスローガンばかりを優先させてきた。その結果として、魅力的な大人のいない社会になってしまった。
「いい社会をつくろう」とか「選挙に行こう」とか「デモに行こう」とか、そんなスローガンを振りかざして正義ぶる人間ばかりの世の中なら、魅力的な大人なんか生まれてこない。
人と人がときめき合っている社会でなければ、魅力的な大人なんか生まれてこない。ほんらいはそうやって社会や家庭がつくられてゆくのであって、そんなスローガンでつくられてゆくのではない。
人間は人間の自然として、いい社会をつくろうとかいい家庭をつくろうというような衝動を持っていない。だから、そんなスローガンを振りかざしても、最終的にはぎくしゃくしてしまうしかないのだ。
人間は、根源において、そんなスローガンでつながり合っているのではない。ただ、ときめき合った「結果」として、そういうかたちになるだけである。そういうかたちになりたいわけではない。
人と一緒にいるなんて、鬱陶しいだけだ。それでも人と人は、ときめき合い、つながり合ってしまう。ときめくことがなければ、つながることもできない。
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内田樹先生は、「家族や社会は存在することそれ自体に意義がある」とおっしゃる。戦後社会はまさにそういうスローガンだけでやってきたからこんなにもブサイクな大人が巷にあふれ、先生自身も女房子供に愛想を尽かされてしまったりしているのだ。
そんなスローガンでつながり合おうとしたから、われわれは間違ってしまったのだ。
幸せないい家庭(社会)だから文句はないだろうとお父さんやお母さんが言っても、そうはいかないのだ。人と人は、幸せな家庭をつくろうというスローガンでつながり合っているのではない。ときめき合ってこそつながり合うのだ。そういう戦後社会の中で育ってきた親たちはそれでいいかもしれないが、人間の自然を残している子供たちはそれだけではすまない。
先生はまたこうもいわれる。家族のあいだにときめきなんかなくていい、家族は「儀礼」の上に成り立っている、と。スローガンによってしか生きていけない戦後世代の多くは、こんなふうに思いたがるんだよね。そんなスローガンにすがって女房子供に逃げられたくせに、まだ懲りていない。
僕がここで言う「ときめく」とは、愛だの恋だの好きだのということではない。「他者の存在そのものに深く気づいてゆく」ということであり、夫や妻や子供や友人や同僚が悲しんでいたら素早くそれを察知する、というだけのことだ。
戦後社会の人々は、そういう心の動きを失って、人間関係がぎくしゃくしていったのではないだろうか。
そういうスローガンを共有しているものどうしはそれでいいのだけれど、それは人間の自然でもなんでもないから、子供たちや社会的な弱者はそういう関係に参加できずにどうしても追い詰められてゆくほかない。
また大人たちもそこでうまくやっていても、誰も魅力的ではないし、誰にもときめいていないし、誰からもときめかれていない。ひとまずみんなで仲良くやっているという前提の上に成り立っているのだから、他者に気づいてときめいてゆくという心の動きなんか起きてこない。
これが、上野千鶴子氏や東浩紀氏の止揚する「ネットワーク」の正体であり、彼らのその思想は、戦後社会のスローガンの残りかすみたいなもので、新しい考え方でもなんでもない。
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日本人は自我が希薄であるということは、そのまま「わがままではない」ということにはならない。
自我の希薄な子供は、たいていわがままだ。「一億総クレーマー」という現象は、たしかに日本人の幼児的な側面であるのだろう。
西洋人は、スローガンだけでつながりあえるなどとは思っていない。公共心というかたちで誰もがすでに「全体」を意識しているが、そのイメージはひとりひとり違うということも知っている。だから、徹底的に議論しようとする。しかし戦後の日本人は、そういう勝負をしないで、最初からスローガンが共有されているというところに立ってきた。それが、島国で生きてきた日本人の伝統であるのかもしれない。
そしてみんなが同じスローガンを共有しているという全体に立っているから、わがままになる。戦争中は、特攻隊で死ね、と平気で言えた。
西洋人はスローガンが絶対ではないことを知っているし、それはみんなで議論してつくってゆくものだと思っているが、日本人は「最初からある」という前提に立ってしまう。
そんなふうにしてなぜ日本人がかんたんにスローガンを共有できるかというと、それ以前に「すでにときめき合っている」という関係を持っているからだが、これも、良くも悪くも島国の伝統だ。西洋人にはそれはない。それも一緒につくってゆくものだと思っている。
しかし戦後の日本人は、その伝統を放棄して、みんなで仲良くしてゆくというスローガンにしてしまった。
ときめき合うという心よりも、仲良くするという形式の方が大事になっていった。
このことにはきっと、いろいろとややこしい事情というか因果関係があるのだろう。
もともとわれわれは生きてあることの「嘆き」を共有している民族であったが、悲惨な負け戦が終われば、生きてあることの「よろこび」が共有されてゆくことになる。そうやってみんなの意識が自分に向いていったのかもしれない。
生きてあることが「嘆き」であるなら、意識は自分に向くことをやめて他者に向いてゆく。「よろこび」であれば、とうぜん自分に向いてそれを味わおうとする。そういう「よろこび」を共有しながら、仲良くしようとしていった。
誰もがもう、他者との関係は、「仲良くする」という形式だけで、「他者の存在に気づく」という実存的というか根源的な心の動きを失っていった。
戦後の日本では、「仲良くする」という形式をつくってゆくことが、先験的に存在するスローガンとして合意されていった。そうして「他者の存在に気づく」とか「ときめく」という根源的な心の動きを失い、なんだか生きてあることに対する緊張感のないみすぼらしくてグロテスクな大人を大量に生み出していった。
「仲良くする」というスローガンが先験的に共有されているのなら、自分が魅力的になる必要も他者の魅力を感じる必要もない。大切なのは、仲良くする手続きだけだ。
そうしてそういうその前提に立って、その手続きを怠ったものに対してどんどん傍若無人にクレームをつけるようになっていった。
たとえばサラ金の取り立ての熾烈さなどは、ひとつの「クレーマー現象」の先駆けになっているのではないだろうか。
日本人には、全体を構築しようとする意識がない、すでに全体が存在すると思ってしまっている。
また、家族に対しても友人に対しても会社の同僚に対しても、仲良くしてもらえるという前提に立ってしまっている。そんなことは自分が魅力的で相手にときめかれなければ得られないのだ、という緊張感がまるでないからブサイクな大人になってしまう。
まあ、西洋人にはそういう緊張感があるし、日本人は、伝統的には、無条件に相手の存在そのものにときめいてゆくという心を持っていたはずだが、そういう心を失って、「仲良くする」という形式だけの社会になってしまっている。
それが、ネットワーク社会だ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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