現代の自殺について

正直なところ「団塊世代論」なんて、僕にとっては、暗く憂鬱なだけのネタでした。
しかし暗く憂鬱になったついでに、さらにマゾヒスティックに「現代の自殺」について考えてみることにしました。
爆笑問題」の 太田さんも発言されていることだし。
自殺がいいか悪いかとか、そういう問題ではない。
その人の生き方の問題ですからね。いいもわるいもない。
そうです、それは、生き方なのです。
自殺を選択する生き方の問題。彼らはそれを、生き方の問題として選択する。
生きようとする意欲がないのではない。
自殺なんて、そうそう誰にでもできる行為ではない。意欲や決断力があって、初めて可能になる行為です。
「シジフォスの神話」を書いたカミユだって、人を自殺に走らせるもっとも大きく直接的な契機は、日ごろの苦しみよりも、その日朝起きて天気がわるかったとか、いやな人にあったとか、そういうものだ、といっています。
つまり、苦しいからというよりも、意欲の問題だ、ということ。
苦しみには、快楽が含まれている。快楽とはひとつのストレスである、という説もある。苦しみだけでは人は死なない。そんなかんたんに死んでしまうのなら、人類の歴史の飛躍的進歩などなかった。そういう苦しみを快楽に変えてゆく手続き、すなわち「表現」、それが文化や文明にほかならない。
とにかく自殺するときは、そういう「意欲」のとりこになってしまっているのです。
「意欲」とは、「生命力」の別名であり、生きようとする意欲そのものである。
それは、くるおしい「生の表現」なのです。
生きようとする意欲がないのなら、人は、何もしない。
「生きようとする」の反対は、「死のうとする」ではない、「生きようとしない」なのです。
自殺は、それじたいがひとつの「生き方」であり、生のエネルギーの発散なのです。
どうせみんな死ぬのです。死なない生き方などない。
自殺は、女子高生が制服のスカートを短くするのと、まあ同じようなものです。
短くするのは、意欲満々だからです。
苦しいからというよりも、これ以上自分の人生を壊したくない、ちゃんとした形として終わらせたい…そういう意欲満々に、スカートのように人生を短くしてしまう。
かつてビルの屋上から飛び降り自殺したオカダユキコというアイドル歌手の例にしろ、練炭集団自殺する最近の若者たちにせよ、病苦で自ら命を絶つ中高年だって、つまりはこういう動機の上にそれを決行するのではないでしょうか。
生きようとする意欲満々だから、自殺する。
そのとき死は、生きることの延長としてある。生きることの延長だから、怖がらなくてもすむ。
天国での人生が待っていると信じているからとか、そういうことではない。 とにかく彼らは、助走をつけてジャンプしてゆくのです。
それにたいしてわれわれ凡人は、必死に踏ん張りながら土俵から押し出される相撲取りのように、怖がって怖がって、顔をゆがめながら死んでゆく。
では現代人はどうして、一方では必要以上に死を怖がり、そしてもう一方ではそんなにも意欲満々になってしまうのか・・・それをこの次に考えます。