悪いけど僕は、正義なんて、ぜんぜん興味がないですよ。
正しい生き方、というのも、幸せな人生、というのも知ったこっちゃないです。
愚かな生き方をしたらなぜいけないのかということも、よくわかりません。
それぞれの人生にそれぞれの味わいがあるはずです。
たとえば、誰の中にも、子供のころに眺めた故郷の景色の記憶がある。そうしてあなたは、僕の知らないいろんな人と出会って生きてきた。そういうさまざまな記憶を抱えてあなたが存在するという豊かさと重みの前には、どんな正義も無意味だ。
すべての女は、その衣装の下に裸の生々しい体を持っている。その事実は、それだけでもうすごいことだと思う。そのようにしてこの世に人間が存在するということそれ自体に対するときめきを感じられないやつが、正義だの人格だのとしゃらくさいことをいってくる。
だいたい才能のないやつにかぎって、正義だの人格だのといいたがる。だから僕は、たとえ才能がなくても、そんなことはいわない。
人間を信じることができないやつが、正しく賢明に生きねばならない、などと言い出す。人間は、人間のままに生きればいいだけじゃないの。
人間は、正しく賢明な生き方をしなきゃいけないのですか。そんな生き方をしたがるのは、人間に対して鈍感で、人生を丸ごと味わい尽くしてやろうとする心意気がないからだろう。
怖いとか不安だとか嘆くとか、そういうことも人生の味わいのひとつでしょう。
直立二足歩行する人間は弱い猿で、根源的に怖がるようにできている。その怖がるということが、文化や文明を生み出してきた。人間は、恐怖を食べて生きている。愚かな生き方の、その恐怖や不安や嘆きの中にも、人間の人間たるゆえんがある。愚かな生き方をして、何が悪い。賢明で合理的な生き方がそんなに素晴らしいか。
同様に、被災地の人々人が、これから愚かな街づくりをはじめたとしても、それはそれでしょうがないし、それを承知で政府はサポートしてゆけばいい。
賢明で合理的な街づくりをしたからといって、それが素晴らしいかどうかなんてわからない。例え愚かであっても、その町づくりに人々が丹精をこめてゆくことができるのなら、それがいちばんだろう。
明治維新のあとも、関東大震災のあとも、太平洋戦争のあとも、ときの政府はそれなりに賢明で合理的な政策の町づくりをし、それなりの復興をしてきた。しかしそれによって、人々が心豊かに暮らす町になっていったかということはわからない。いずれの場合も、人々の町に対する愛着は失われていっただけだろう。そうして、脱亜入欧だの大陸進出だのアメリカナイズだのという気分になっていっただけじゃないか。
いずれの場合も、それらの復興は、人々の心を置き去りにして上からの賢明で合理的なプランを押しつけていっただけである。だから、人々の町に対する愛着を盛り上げてゆくことができなかった。
杉山巡さんには悪いけど、関東大震災後の後藤新平による帝都復興院なんてくだらない、と僕は思っている。それによって生まれた新しい東京の町よりも、大阪下町の猥雑な町のほうが僕はずっと好きだ。そこにおいてこそ、人々の町に対する愛着が息づいているからだ。人と人の心のつながりに丹精がこめられているからだ。なぜならそこは、人々がみずからの連携で作り上げていった町だからだ。そこには、人間の美しさも愚かさも、ぜんぶ詰まっている。そこにおいてこそ、人生が味わいつくされている。
合理的で賢明な町づくりが、そんなに素晴らしいか。
人間なんて、どうせ明日も生きてあるかどうかわからない身だ。行き当たりばったりにその日その日を生きてゆけばいいだけじゃないのか。そういう「今ここ」を精一杯に生きようとする心によってこそ、町づくりに丹精がこめられてゆくのではないのか。
・・・・・・・・・・・・・・
僕は猥雑が好きだが、べつに猥雑でなくともよい。
たとえば京都の町は、応仁の乱のあとに現在のかたちの基礎がつくられた。
それは、民衆によってつくられた町であって、ときの権力や賢明な知識人が寄ってたかって上から押し付けてゆくようにつくられたのではない。民衆自身が、その町並みや町の空気をつくっていったのであり、そこが京都の町の丹精がこめられた魅力や強みになっている。
そのとき京都の民衆は、長く続いた戦乱によって、明日の命はわからないと腹をくくった。そうして今ここの季節や人の心のおもむきを味わいつくそうとするかのようにして町づくり家づくりをしていった。
ときの権力や知識人が理性的で賢明な町づくりを上から押し付けていっても、ろくなことにはならない。そんなことによって、人々の町に対する愛着が育つわけではない。
そういうことは、戦後のこの60数年で骨身にしみてわかったはずじゃないか。
たとえば、戦後の政府と電鉄会社が結託してつくったあまたの「ニュータウン」が、今そんなに素晴らしい町になっているのか。
そんな町づくりを、また東北の被災地でやりたいのか。
くだらない。
愚かでも行き当たりばったりでもいい、人々の丹精がこめられて町がつくられてゆけばいいのだ。
少なくとも、阪神淡路や中越の大震災を経て、いざというときの人と人の心のつながりや連携は充実してきているに違いない。復興はそれによって果たされるべきであって、賢明で理性的な知識人のしゃらくさい青写真のアジテーションによってではない。
さしあたって今は、津波の被災地も、福島原発の事故処理も、その日その日をけんめいに生きるしかないのだ。そのエネルギーこそが必要なのであって、高みの見物のおまえらしゃらくさいプランなどではない。
今回のことは、天罰などではない。津波の防波堤が低かったことも、福島原発の施設が不十分だったことも、人間たちがのんきだったことも、みんな人間であることの運命だったのであって、そんなことをあとから「避けられたはずだ」といってもしょうがない。
何はともあれ今は、深く嘆き悲しむしかない。深く嘆き悲しむことができることこそ人間であることの証しであり、復興のプランは、それを味わいつくしたものにゆだねられるべきだ。復興のダイナミズムは、そこからしか生まれてこない。
おまえらのしゃらくさい知ったかぶりのうんちくからじゃない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/

原初の人類は、二本の足で歩いたのではない、まず二本の足で立ち上がったのだ。それによって、人間になった。
なぜ二本の足で立ち上がったのか、と問われなければならない
二本の足で歩くことくらい、猿でもできる。しかし猿は、そのまま遠くまで歩いてゆくということはできない。なぜなら、きちんと立つ姿勢を持っていないからである。間に合わせに適当な姿勢で立っているからである。
二本の足で立ち上がることは、不安定だし、胸・腹・性器等の急所をさらしているとても危険で居心地の悪い姿勢である。だから、必要がないかぎりそんな姿勢は取らないし、いつまでも続けていることはできない。
なのに人間は、その緊急避難の姿勢を常態化した。その居心地の悪さと和解していった。居心地の悪さ=緊急避難それ自体を生きようとした。
人間は、間に合わせで立っているのではない、それこそが本来のかたちとして立っている。
だから、きちんと立っていられる。この「きちんと立つ」という姿勢を猿はつくれない。
きちんと立って居心地の悪さと和解していなければ、その姿勢のまま遠くまで歩いてゆくことはできない。
四本足のほうが楽で効率よく歩けるなら、必要がなければその姿勢に戻ってしまうにきまってしまう。人間だってはじめは四本足のほうが楽で効率よく歩ける猿だった。それなのに、二本の足で立ったまま歩き続けた。それは、四本足で歩くともっと居心地が悪くなる事態があったからだ。
それは、群れで行動していて、体をぶつけ合っていたからであり、その鬱陶しさに耐えられなかったからだ。
それほどに原初の人類の群れは密集してしまい、しかも余分な個体を追い出せない事態になっていた。
体をぶつけあわないで共存し行動してゆくためにはもう、みなが二本の足で立ち上がっているしかなかった。たがいにときめきあう関係にならなければ、共存してゆけるような状況ではなかった。
生き物としての危機=居心地の悪さと和解していなければ、二本の足で立つということを常態化することはできない。
猿が二本の足で立っていることはとてもかんたんなことであると同時に、根源的に不可能な姿勢でもある。
そして、きちんと立つ姿勢を持っていなければ遠くまで長く歩き続けることはできない。
日光猿軍団ニホンザルを長く歩かせたり立ったままでいさせるためには、まずきちんと立つ姿勢を教え込まなければならないのだとか。
人間は、この姿勢を獲得したから長く歩けるようになったのであり、長く歩こうとしたのではない。言い換えれば、長く歩き続けることくらいチンパンジーでもニホンザルでもしている。長く歩き続けるために二本の足で立ち上がったのではない。二本の足で長く歩けるようになったのは、きちんとした姿勢で二本の足で立っていられるようになったことのたんなる結果である。
背筋を伸ばしてきちんと立っていられるのは、それが他者と体をぶつけ合わないためのもっとも効率のよい姿勢であり、それによってときめけば、その姿勢に伴う不安を忘れていられるからである。
日光猿軍団ニホンザルだって、調教師に対する全面的な信頼を持つまでは、決してその姿勢を自分のものにすることはできない。
その「きちんと立つ姿勢」は、他者との緊張関係の上に成り立っているのではなく、緊張関係を忘れた「ときめき」の上に成り立っている。また、意識がみずからの身体に向いているかぎり、けっして実現しない。身体のことを忘れて「世界=他者」にときめいてゆく姿勢なのだ。
そしてこのときめきの原初のかたちは、他者と身体をぶつけ合わないでもすむことの解放感にある。そのぶつけ合わないでもすむたがいの身体のあいだの「空間=すきま」にときめいたのだ。
原初の人類は、このときめきによって、きちんと立つ姿勢を獲得し、この姿勢を常態化させていった。
長く歩き続けるとか、手を使うとかは、この姿勢を常態化させたことの「結果」にすぎない。そんな目的があって立ち上がったのではない。
猿でさえ、他者にときめくという心の動きを持っていなければ、きちんと立つ姿勢をつくれない。いいかえれば、ときめけば、猿でさえつくることができる。そういうことを、日光猿軍団の猿が教えてくれている。
そして、きちんと立って歩けば疲れないのではない。二本の足に全体重をかけるのだから、長く歩けば疲れるにきまっている。疲れても足のことなんか忘れて歩き続けられる姿勢であり、それは、世界や他者にときめき憑依しているからだ。
疲れないのではない。疲れても歩き続けられるのが、人間の直立二足歩行なのだ。
猿は、二本の足で立ち上がっても、少し前傾姿勢を保って、世界に対する警戒心を解いていない。背筋を伸ばしてきちんと立てば立つほど、世界や他者に対して無防備になってゆく。それは、生き物としてとても危険な姿勢なのだ。それでも人類は、世界や他者にときめきながらその姿勢を常態化していった。
群れのみんなとときめき合っていなければつくれない姿勢なのである。
人間は、他者とときめきあいながら、生き物としての危機それ自体を生きている。ここから、人間的な文化や文明が生まれてきたのであり、ここにこそ人間性の基礎がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
因果なことに人間は、危機に備えることを忘れて危機それ自体を生きてしまう生き物なのである。
それほどに、すでに世界や他者にときめいてしまっている。
だから人は、津波の被害にあっても原発事故が起きてもかんたんには逃げ出さない。まだ逃げ出さない人がたくさんいる。彼らこそ、人間らしい人間なのだ。
われわれ部外者は、まずそのことを承知しておくべきである。部外者が安直に「みんな避難してこい」といって自分たちの優越感を満足させようとするようなスケベったらしい気持ちはむやみに起こすべきではない。因果なことに、そこにこそ人間が生きてあることの根源的な充実がある。
東京だって、けっして安全とはいえない。すでに逃げ出している人もいるが、それでもほとんどの者がここに残って生きている。仕方がないからというだけでなく、人間は、危機を共有しながら「今ここ」を生きようとする存在であり、そこから生きてあることのカタルシスをくみ上げてしまう存在なのだ。
被災地において、助ける者であろうと助けられる者であろうと、彼らがどれほど深くときめきあって「今ここ」を生きているか、われわれも少しは思いをいたす必要があるのではないか。
人間は、根源的に、不安をまさぐってしまう存在である。しかしだからこそ、世界や他者に深くときめいてゆくことができる。
彼ららは、津波の恐怖や不安を共有し、深くときめきあいながら連携して生きてきた。これからもきっとそうやって生きてゆくのだろう。恐怖や不安なしに生きてゆける土地ではない。
関西などの安全な場所にいる連中が、安直にみんな避難してこいとか普段の危機管理がどうのとかといってもはじまらない。人間は危機(リスク)を負って生きている存在であり、そこにおいて生きてあることの醍醐味もあるのだ。
因果なことに二本の足で立っている人間は、危機や恐怖を共有して生きようとする存在なのだ。そこにこそ、この世界や他者に対するときめきがある。ただ安全を確保すればいいというようなわけにはいかないのである。安全第一主義の鈍感な連中がどれほど賢明にこの国の青写真を描いて見せても、それによって住みよい国や町が生まれるわけではない。
住みよい、とは、人と人がときめきあうことであって、安全であるということではない。
おまえらみたいに知能指数は高いかもしれないが人間に対して鈍感なだけのやつらにはわからない話だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/

今回の被災地の復興の希望を、60年前の敗戦からの復興と重ね合わせて語る言説は多い。
何が、復興のダイナミズムの源泉になるのだろうか。
内田樹先生は、理性的で賢明になって社会をきちんと制度設計しなおすことだ、という。たとえば東京への一極集中を見直すとか。
敗戦後の日本人は理性的で賢明になることによって奇跡的な復興を果たした、と内田先生はおっしゃる。そして今や、その貧しいときの理性と賢明さを失って感情的・幼児的になっていたから、当然の報いとして今回のようなことが起きたのだとか。
政治とか社会経済とか地震災害とか放射能とか、何はともあれ自分だってド素人のくせに、いつも上から目線で偉そうな言い方をしてくる。そしてそれに、かんたんにたらしこまれるナイーブな人たちがたくさんいる、しょうもないことをいってるだけなのに。
内田先生のいうように、敗戦後のわれわれの父や母は、ほんとに理性的で賢明だっただろうか。
そんなことあるものか。
みんな打ちひしがれて感情的になり、混乱していたのだ。そうして、将来のヴィジョンなど何もないまま、その日その日を生きていただけだろう。そこで、この国の伝統などぶち壊して、欧米に盲従していっただけじゃないか。だから彼らは、われわれ子供たちに、この国の伝統として祖先から引き継いだものを何も手渡すことができなかった。
われわれは、親よりも、欧米から多くのものを学んで育っていった。それがこの国の風土になじまないものであれ、親たちが手本を示してくれないのだから、そうするしかなかった。
そしてそれによってひとまずバブル景気の繁栄を生みだしたものの、その代償としてさまざまな人の心や制度的なひずみが生じて現在にいたっている。
戦後の日本人は理性的で賢明だった、なんて大ウソだと思う。みんな行き当たりばったりで、その日その日を生きていただけだろう。しかしその行き当たりばったりの心から復興のダイナミズムが生まれてきたということもある。誰もが未来なんかあてにせず、けんめいに「今ここ」を生きていた。
そのとき人と人のつながりのいろんな美談が生まれただろうし、凶悪な事件も起きたし、賢く理性的にふるまって甘い汁を吸った人間もいた。戦後、賢く理性的に振る舞った大陸からの引揚者エリートたちがいち早くこの国の指導的立場におさまっていったのは、それほどに人心が打ちひしがれ混乱している社会だったからだ。
時代の気分としては、打ちひしがれ混乱していたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
戦後の復興に何がいちばん大切だったのだろうか。
たぶん、娯楽だ。
人々はは打ちひしがれ混乱していたのであり、何はともあれ心が立ち直らなければ何も始まらない。
だから、いち早く娼婦という職業が現れた。「パンパン」という街娼である。男たちは食い物を切りつめても女の体を欲しがったし、戦争で家族や恋人を失ったりした女たちの心も打ちひしがれ、どこか退廃的だった。
そして歌(歌謡曲)が人々の心を支えていた。戦後すぐに発表された「リンゴの唄」はあっという間に日本中を席巻した。さらには、映画も次々に発表され、もてはやされていった。
食い物も住むところもろくにない時代に、それでも人々は切実に娯楽(遊び)を必要としていた。
食い物が必要なかった、というのではない。さしあたって食い物なんか何でもよかったのであり、それよりももっと心の糧としての娯楽を必要とした。あんな何もない時代に、すでに「君待てども(昭和22年)」などという甘くやるせない別れの歌などもたくさんもてはやされていった。そうだ、退廃的な歌ばかり歌っていた淡谷のり子は、「ブルースの女王」として大いに人気を博した。
恋にうつつを抜かす若者に、「お前それどころじゃないだろう」といってもはじまらない。それが、人間としての自然なのだ。
根源的に人間が生きてゆくのに必要としているのは、食い物ではなく娯楽(遊び)なのだ。遊びが、人間を人間たらしめている。「遊びをせんとや生まれけむ(梁塵秘抄))である。
復興にはまず衣食住を整備することである、などというのは嘘だ。
戦後の人々が最初に必要としたのは心の糧としての娯楽(遊び)であり、衣食住のことは、それからの話なのだ。
心のよりどころを持たなければ、人間は生きられない。
現在の被災地の人々を支えているのは、食い物よりも、人と人の心が共感し連携してゆくことにある。そしてこの心のつながりこそが復興のダイナミズムになる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
関東大震災の後に、時の政府は、いち早く「帝都復興院」という組織を立ち上げ、それまでの古い街並みを元に戻すのではなく、まったく新しい近代的で合理的な街づくりを開始した。
なんだかいかにも賢明な英断のようだが、それによって人々が何を得たかといえば、それまでの日本列島の風土や街並みに対する愛着を捨てて、ひたすら大陸にあこがれ進出してゆき、ついには太平洋戦争の無残な敗戦に至るという暗い時代に突入していっただけである。関東大震災から太平洋戦争の敗戦に至るあの時代が、そんなに素晴らしかったのか。そうじゃないだろう。近代史における一番ひどい時代だったじゃないか。
理性的合理的なヴィジョンを示せば国は健康的に復興するというものではないのである。
後藤新平の帝都復興院は、歴史的な愚策だったのかもしれない。
「サポートする」ということと「押し付ける」ことは違う。
現在、内田先生をはじめとする多くの識者たちがそうした賢明なプランを争って提出しているが、さしあたってそんなことはどうでもいいのだ。何よりもまず、被災地の人々の心が癒されることであり、そうやって立ち上がっていった人々の要望に沿って国が政策を決定していけばいいだけである。
実際に町づくりをするのは、彼らなんだぞ。そしてそれは、ただ衣食住が保証されればいいというだけのことではない。どのような心が行き交う町であるかによって、その町づくりに丹精がこめられ完成されてゆくのだ。
そこに住む人々が丹精をこめてゆかなければ、住みよい町なんか生まれない。
部外者のお前らが、えらそげに被災地の未来を決定しようとするな。
合理的な町づくりをすれば住みよくなるというものでもないのである。
必要なのは、生き延びることのできる町ではなく、丹精こめて人と人の連携や景色を作り上げてゆく住みよい町なのだ。直立二足歩行する人間は、「今ここ」に丹精をこめて生きようとする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ときめき、すなわち娯楽(遊び)がなければ人は生きられないし、そこでこそ人と人が連携し町がつくられてゆく。
人間は、二本の足で立ち上がることによって、他者にときめいた。この「ときめく」という心の動きが人間性の根源にあり、そこから人と人の連携が生まれ丹精をこめた町づくりがはじまる。
だから戦後の人々は娯楽(遊び)を求めたのであり、そこから復興がはじまった。
被災地の彼らの町は、彼らがつくる。理性的であろうと賢明であろうと、部外者や政府が上から覆いかぶさってゆくような町づくりを画策すると、ろくなことにはならない。まず、彼らの声を聞け、お前らが先にえらそうなことをほざくな。
内田樹だろうと堺屋太一だろうとあまたのテレビコメンテーターだろうと、えらそげな蘊蓄ばかり並べやがって、お前らには人間としてのつつしみというものはないのか。この国の文科系知識人なんて、下品な奴らばかりだ。
気取ったことをいわせていただくなら、われわれは、この社会でこういう俗物どもに囲まれながら、人間とは何かと問う思想の純潔を守ってゆけるのだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/

とはいえ、政府はやっぱり無策なのでしょうね。かといって自民党ならちゃんとやるというわけでもないだろうし、とりあえず今の政府に頑張ってもらうしかない。
お任せします。
何をどうすればいいというようなことをいう趣味も能力もありません。
この国はあなたたちのものであって、僕のものではない。僕は、たんなるやっかいものの余剰人員です。この国の隅っこをお借りして、なんとか細々と生き延びさせていただいている身です。
出て行けといわれても行くところなどないけど、断る権利はないと思っています。
そんなわけで、いま被災地の人々がどのような思いで暮しておられるのか、ささやかに想像してみたりすること以外には、何もしておりません。
テレビも、積極的に見ようとはしておりません。
原発の映像も見飽きました。
もし見たい番組があるとすれば、たとえば、現地のだれか一人か数人を密着取材した1時間くらいのドキュメンタリーとか、そういう番組なら見てみたいと思わないでもありません。製作者の主観で5分くらいにまとめたものとか、そういうのではないですよ。どこで何を感じるかは人それぞれなのだから、あまり製作者の主観の入っていないきめ細かいドキュメンタリーが見てみたい。彼らの何気ない表情、しぐさ、会話、そんなようなものも、伝えてほしい。
おじいちゃんおばあちゃん、働き盛りの人、子供とお母さん、大学生、高校生、中学生、小学生、若い可愛い娘、少年少女、避難所にいる人、もとの家にいる人、ボランティアの人、自衛隊の人、津波の被災地の人、原発被害の人、いろんな人の1日や1週間があるでしょう。そういう人たちのきめ細かいドキュメントを流してくれたら、役立たずの傍観者である僕も、もうちょっとは切実になれるのかもしれない。
のうてんきに、いい加減に生きております。
というわけで、原初の人類の歴史について考えてみるだけです。
・・・・・・・・・・・・・・・・
人類が石を細工して石器を作るようになったのは、およそ200万年前ころからだろうといわれている。ちょうど人類の生息域がアフリカの外へと拡散していった時期と重なる。
石と石をぶつけあって刃物のよう形にして、肉を削り取る道具にする。こういうことは、チンパンジーでは考えつかないのだとか。
これは、出来上がりの形をイメージして作りだされたのか。
そうじゃない。
それをイメージできるのは、そういう道具を作ったか見たという経験がすでにあるからで、人類がだれもそういう石器を作ったことのない段階でそれをイメージすることはできるはずがない。
人間性の基礎は、未来を予測することでも、知能によってそうした象徴的な思考をすることでもない。そういう思考(知能)が契機になって人間的な文化や文明が生まれてきたのではない。
象徴的な思考によって言葉が生まれてきたのではない。人間は言葉によって言葉の象徴性(意味)に気づかされるのだ。根源的には、人は、意味なんか意識しないで言葉を発する。人と出会って「やあ」という。怖い目にあって「きゃあ」という。それらは意味として発せられるのではなく、感情のままに思わずこぼれてくる音声であり、その音声を聞いて、はじめて意味(象徴性)に気づいてゆく。
人間は、言葉によって象徴的な思考を獲得していったのであって、象徴的な思考によって言葉を生み出したのではない。このことを取り違えるべきではない。一般的には、結果でしかないことを原因であるかのようにいわれている。
思わず音声を発してしまうような「ときめき」、その音声に対する「ときめき」、そこから言葉の文化が生まれてきたのであって、象徴的思考をもったからではない。象徴的思考は、そのあとから生まれてきたにすぎない。
人類の歴史において文化や文明が生まれてきたのは、他者や世界対する「ときめき」であって、知能ではない。知能は、たんなる「結果」にすぎない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そのころ人類は、まだほかの猿とそう大差ない知能しかもっていなかった。
猿とそう大差ない知能なのに、それでも猿ではけっして生み出すことのできない石器を生み出したり、火を使用することを覚えていったのだ。
そのころ猿になくて人間にはあったアドバンテージとは何か。
それは、「今ここ」に深くときめき憑依してゆくメンタリティである。直立二足歩行を始めた人類は、このメンタリティを特化してゆくことによって猿と分かたれた。知能なんかではない。
300万年前から200万年前ころは、地球気候の緩やかな寒冷・乾燥化によって人類の生息域である森がしだいに縮小していった時期であり、しかもライバルの猿の群れがやってきて、さらに小さな森へと追いやられていた。そうやって小さな森にひしめき合って暮らすようになれば、余分な個体を追い出すということをしない習性の人類にとっての群れの鬱陶しさは切実になってくるし、ライバルから追われて移動してゆかねばならないという苦労も身にしみてくる。
直立二足歩行を始めて以来、アフリカの豊かな森で比較的平穏に3,400万年の歴史を歩んできた人類は、その間知能の進化も身体の進化もしなかったが、ここにきて今まで通りの安穏な生活をつづけてゆくことができなくなっていった。そういう状況から、人間的な石器の発明や火の使用などの文明が生まれてきたのだ。
群れが密集してくれば、タイトな連携が生まれてくる。そのタイトな連携は、人と人がたがいにときめき合ってゆくことの上に成り立っている。知能によるのではない。
ここにきて彼らは、世界や他者に対してより深く「ときめく」という心の動きを特化させていった。その心の動きから、猿にもまねできない人間的な新しい石器が生まれてきたのだ。
人間的な文化や文明の起源は、つねにこの「ときめく」という心の動きを契機としているのであって、知能ではないのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ただ石と石をぶつけあって遊んでいたら、偶然そのような剥片石器ができてしまった。
あらかじめ剥片石器をイメージしてそれを作ろうとしたのではない。人類はまだ、そんな象徴思考など持っていなかった。
ただもう石と石をぶつけあうことの面白さにときめいたのだ。
人間は、猿以上にそういう「ときめく」心を持っている。これが、人間性の基礎である。
人間性の基礎は「知能」とか「象徴思考」などという「労働」にあるのではない。「ときめく」という「遊び」にある。我々が生まれてきたことは、ただの遊びでありお祭りなのだ。「いかに生きるべきか」などということを問う労働ではない。遊びにこそ、人間の人間たるゆえんがある。
硬い石をぶつけ合っていれば、カチカチと面白い音がする。硬いものどうしをぶつけ合う手ごたえも面白い。そういう世界に対する「ときめき=好奇心」から石器が生まれてきたのだ。
そうして石の硬さと肉の柔らかさの対比に気付き、それを確かめるようにその石器で草食動物の肉をそいでいった。
その石器は、「今ここ」の世界により深くときめく心の動きから生まれてきたのであって、出来上がりの未来を予測したのではない。
文化や文明は、いつだってそういうところから生まれてくる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ニュートンが林檎の落ちるのを見て万有引力の法則を発見したのは、落ちるのを予測したからではない。それは予期せぬ出来事だったのであり、そのことに驚きときめいたから「なぜだろう」と思ったのだ。「なぜだろう」と思わなければ、そんな発見もない。
「なぜだろう」という「ときめき=好奇心」がなければ、文化や文明など生まれてこない。
まず石と石をぶつけ合うという「遊びの文化」が生まれ、そのあとに「石器という文明」が生まれてきた。
人間は言葉をもったからさまざまな文明を生み出すようになっていった、ということは多くの人類学者の語るところであるが、しかしその言葉は、「情報の伝達」という「労働」ではなく、あくまで他者やこの世界に「ときめく」という「遊び心」から生まれてきたのだ。
遊びとは、今ここの世界にときめき憑依してゆく行為である。人間の文化や文明はそこからはじまっているのであり、何はともあれ、まずはじめに「遊び」があった。それが、人間の歴史なのだ。
石器を生み出したのは、石と石をぶつけ合う「遊び」であって、道具を作ろうとする「労働」の意図によるのではない。原初の人類は、生き延びようとしたのではない。そんなことなど忘れて「今ここ」にときめき憑依していったのだ。
原初の人類の歴史を「生き延びる」とか「労働」とか「食糧確保」とか、そんなパラダイムで解こうとすると、全部間違う。既成の人類学の定説なんて、みんなそこのところでつまずいている。直立二足歩行する人間性の基礎は、そのようになっていない。
・・・・・・・・・・・・・・・・
太平洋戦争のあの手ひどい敗戦からでも復興したのだから、今回の東北の被災地もきっと復興するだろうといわれている。
それはそうだろう。しかしそれは、彼らが復興のヴィジョンを持っているからではない。人と人の緊密な連携を生み出す心の動きを体験しているからだ。それは、生きてあることの嘆きを共有しつつ、たがいにときめきあってゆくことにある。
あの陸前高田の浜辺に生き残った一本の松を見て彼らがどれほど深くときめいたかは、われわれにはわからない。
しかし、何はともあれ人類の文化や文明はそういう「ときめく」という心の動きから生まれてきたのであって、知能がどうの象徴化の思考がどうのとほざいているあほな人類学者にわかる話ではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/

いまやもう、日本の未来がどうのといってられる場合じゃないでしょう。
日本なんか、滅びてしまってもいいですよ。
だからさ、マスコミも、いいかげん政府批判ばかりするのはやめようよ。あなたたちはそういって自己満足に浸れるのかもしれないけど、こんなときにマスコミがそんなことばかりいっていたら、民衆はますます不安になっていくんだよ。
そうやって政府の批判ばかりしていたら、被災地の人々は耐えられることにも耐えられなくなってしまう。何はともあれ政府はがんばってやっていると信じることができなければ、希望なんか持てないではないか。
報道とは、おまえらの自己満足のためにあるのか。
日本中がクレーマーになって、そのあげくにほんの小さな居心地の悪さにも耐えられなくなってしまっている。そうやって自殺者が年間3万人以上という事態を招き、常軌を逸した放射能恐怖が蔓延してしまった。そういうことにおまえらも片棒担いでいるのだぞ。
とりあえずがんばってもらうしかないじゃないか。こんなときでも、政争を煽って総選挙をさせたいのか。この非常事態に、おまえらみたいな小ざかしい連中の正論なんか聞きたくもないんだよ。
われわれはみんな、とりあえず今ここを生きてある。
今ここに必要なものだけは、なんとか調達するしかない。いちばん必要な心は、人と人がときめき合って助け合う心だろう。そういう心に水をさすようなことを、どうしていうんだ。
とりあえず今ここに深くときめいて生きていられたら、なんとかなる。生き物はみんなそうやって生きている。
人間だって生き物なんだもの、根源的には人間だってそれが生きることのささえになっているにちがいない。
正義づらして未来の日本のことを語られてもねえ、今それどころじゃないでしょう。
未来のことは、未来の人たちが決めればいいだけのこと、殺し合いの暗黒世界が出現するとしても、それもまた人間の可能性としてないわけではない。それがいいとか悪いとか、われわれに決める権利はない。
人間は、未来を予測する能力によって生きのびてきたのでもないし、その能力によって文化や文明を生み出してきたのでもない……僕はもう、世界中を敵にまわしてもそう言いたいですよ。
人間なんて、行き当たりばったりの生き物だ。ほかの動物以上に行き当たりばったりの心の動きを持っている生き物なのだ。行き当たりばったりの政治をして、何が悪い。非常時なんだもの、しょうがないじゃないか。おまえらみたいな部外者の薄っぺらな頭で、えらそうなことばかりいうな。おまえらのその頭で、未来の何がわかるというのか。何を決めるというのか。
今はもう、行き当たりばったりでがんばってみるしかないんだ。暴走もするし、逡巡することもあるだろう。情報は、二転三転する。何が正しいかなんて、誰にも決められない。ただの部外者が、結果論でえらそうなことをいうな。
・・・・・・・・・・・・
今ここであなたとエッチできるのならもう死んでもかまわない、と思えるのは、人間だけだろう。人間は行き当たりばったりの生き物だから、今ここのこの世界に深くときめき憑依してゆく、そんな心の動きが文化や文明を生み出してきたのであって、未来を予測する心の動きなんか、その結果として紡ぎだされているにすぎない。
未来を予測するから文化や文明が生まれてきたのではない、文化や文明によって未来を予測するようになってきただけのこと。
人間は今ここに深くときめき憑依してゆく存在であるがゆえに、必然的にその今ここに最初のときほどの感動がもてなくなり飽きてくるという心の動きも起きてくる。そうして、そのときめきを取り戻そうとして未来を意識しはじめる。
「人間は未来を追憶する」、とキルケゴールも言っている。
未来を予測するのは、失った今ここのときめきを取り戻そうとする心の動きなのだ。
はじめに今ここに対するときめきがあった。ここから歴史が動いてゆくのだ。未来を予測して動きはじめるのではない。
まあ、現実的な話をするなら、現在の被災地の人たちが今ここにおいて深くときめき合うという体験を心に刻むことができれば、それが未来を切り開いてゆくエネルギーにもなるのだろう。それこそが未来を切り開くためのエネルギーであって、未来を予測することなんかその次の問題にすぎない。
被災地の人々が今、のうてんきな未来の予測だの希望だのを語り合っているかといえば、そんなことはない。今ここの「嘆き」を共有してゆくことによってたがいの心を支えあっているのだ、と現地を訪れたあるジャーナリストがいっていた。
だからいったじゃないか。僕はずっといい続けてきたぞ。人間の根源的な連携は今ここの「嘆き」を共有してゆくことにある、と。そこにおいてこそよりダイナミックな連携が生まれてくる、と。
なにはともあれ、人と人の高度でダイナミックな連携がなければ何もはじまらない。それは、今ここにおいて「嘆き」を共有しながらときめき合う、という体験から生まれてくる。
人間の歴史は、今ここのこの世界にときめいてゆくという体験から文化や文明を生み出してきたのであって、未来を予測する小ざかしい「知能」とやらによるのではない。そんなことはもう、小ざかしいマスコミの連中に任せておけばいい。今ここのこの世界に対する深いときめきを体験できなくなっているものたちが、クレーマーになったり、未来を予測するなどというよけいなことをしはじめるのだ。
未来は、今ここと深くかかわった結果として見えてくるのであって、未来によって今ここのなすべきことが決定されているのではない。未来は、今ここで何をなすかによって決定されるのだ。
行き当たりばったりでがんばっているそのダイナミズムが未来を切り開くこともある。少なくとも、現在の緊急避難の事態においては、マスコミの連中の吐く小ざかしい正論なんかにかかわっている暇はない。腹をくくってやけくそでやるしかないのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
原初の人類は、生きのびる能力を喪失して二本の足で立ち上がっていった。
それは、生きのびることを断念したのではない。そういう未来に対する意識などもっていなかったのであり、気づいたら喪失していたのだ。そして、喪失しても、それを忘れてしまうくらいの「今ここ」に対するときめきがあったのだ。
もともと生き物は「未来を予測する」などという意識とは無縁の存在だから、人類の直立二足歩行が実現したのだ。それは、「生きのびる」という未来を予測していたら実現するはずがない姿勢である。
アフリカのサバンナで、ライオンがシマウマを追いかけている。
シマウマは、みずからの「今ここ」を振り切りながら、全速力で逃げている。
ライオンは、けんめいにシマウマの「今ここ」に追いつこうとしている。
ライオンがシマウマを捕まえたのは、シマウマの走ってゆく未来を予測したからではなく、シマウマの「今ここ」に追いついたからだ。
生き物の意識は、つねに今ここから一瞬遅れて発生する。目がとらえた現在と脳がそれを画像として認識する現在とのあいだには一瞬のずれがある。
われわれが見ている目の前の世界は、つねに一瞬前の世界である。
もちろんそんなことを自覚している生き物などいないが、意識そのものが「今ここ」に追いつこうとするように発生しているのだ。
「今ここ」に追いつこうとして、痛いとか苦しいとか暑いとか寒いとか空腹というような身体の「今ここ」を感じてゆく。
あるいは、「今ここ」の身体機能からそれを感じさせられる。
いずれにせよ、「今ここ」との関係として、「今ここ」から一瞬遅れて意識が発生する。
意識とは「今ここ」をとらえるはたらきであって、根源的には、未来を予測しようとするようなはたらきにはなっていない。もしも未来に向いていたら、「今ここ」の身体の変調に気付くことができない。
生き物の根源において、未来という時間など存在しない。
未来に対する意識は、人間特有の制度的な観念のはたらきにすぎない。
たとえば、拒食症のように空腹を感じなくなるのは、意識が未来に憑依してしまって「今ここ」をとらえることができなくなっているからだろう。そういう制度的現代的な観念の病なのだ。空腹のうっとうしさは、「今ここ」に憑依している状態である。そういう「今ここ」を拒否し、喪失している。意識は、食べる前から、すでに食べ終えた未来の満腹感に憑依してしまっている。
生き物は、「今ここ」の空腹のうっとうしさにせかされて物を食っているのであって、食いたいという未来に向かう衝動を本能として持っているのではない。未来に対する意識を持ってしまったら、食うことができなくなるのだ。そのとき意識は、うっとうしい「今ここ」を消去して穏やかな「今ここ」を取り戻そうとしている。それが、物を食う、ということだ。根源的にはうっとうしさを消去しようとする衝動であり、だからうっとうしさがなければ拒食症のように食べなくなってしまう。
うっとうしさを感じること、すなわち「いまここ」の嘆きこそこの生のダイナミズムを生み出しているのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
運動神経とは、「今ここ」に対する敏感さのことである。未来を予測しようとする意識が強ければ強いほど、「今ここ」の体の動きは鈍くなる。
二本の足で立って歩くことは、ひとつの運動神経であり、刻々と変化する「今ここ」にときめき続ける体験である。
人間は、今ここに身を潜め、今ここに憑依しながら行き当たりばったりで生きてゆく。
過去も未来も忘れて、ひたすら今ここのときめきを生きようとする。
二本の足で立って歩くことは、今ここに緊急避難してゆく姿勢である。人間ほど深く今ここに憑依している生き物もいない。
運動神経とは、緊急避難の姿勢をつくるセンスのことである。
まあ、猿はもちろんのこと、犬やアライグマだって、緊急避難として、ときに二本の足で立ち上がるということをする。
しかし人間は、その緊急避難を常態化している。だから人は、世間のうっとうしさからの緊急避難の場である家に帰りたいと思うのだし、被災地の人々だって、今ここにとどまって生きようとする。緊急避難こそ人間の生きてあるかたちであり、快楽のかたちである。
人間は、緊急避難としてこの生を生きている。緊急避難として文化や文明を生み出してきたのだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がったとき、未来など意識することなく、ひたすら今ここに憑依していった。生きのびることなんかどうでもいい、というかたちで立ち上がっていったのであり、今ここで消えてゆこうとしたのだ。
人間の快楽は、、今ここに消えてゆくことにある。蛇に睨まれた蛙にとっての緊急避難は、今ここに消えてゆくことにある。まあ、そのようなことだ。女のオルガスムスは、そのようにやってくる。
「隠れる」ということ、すなわち行き当たりばったりの緊急避難こそ、人間の根源的な生きる流儀である。
未来なんか予測しない生き物だから原初の人類は氷河期の極北の地にまで移住していったのだし、そんな住みにくい土地であろうと、今ここに憑依してゆくという緊急避難の心意気で住み着いていったのだ。
行き当たりばったりこそ、直立二足歩行のコンセプトなのだ。人間なんて行き当たりばったりの生き物であり、行き当たりばったりでなければ、生きてあることの醍醐味(快楽)は汲み上げられない。
行き当たりばったりの生き物だから「今ここ」に深くときめき合い、より高度な連携をつくり上げてきたのだ。未来を予測することによって高度な連携が生まれてくるのではない。たがいに深くときめきあっているから、より高度でダイナミックな連携になってゆくのだ。
人間は、二本の足で立ち上がることによって未来を予測する能力を獲得したのではない。より深く「今ここ」にときめき憑依してゆくようになったのだ。
人間にとって、生きてあることそれ自体が緊急避難の事態である。人間は緊急避難を生きようとする。だから人間はそうかんたんに滅びないのであり、そのようにして被災地の人々の多くが今なおそこにとどまっている。そして緊急避難において必要なのは、未来を予測することではなく、「今ここ」の世界や他者にときめきながらより高度で緊密な連携をつくってゆくことにある。そうやって人間は生きのびてきたのだ。
人間は、無力で大いに怖がる生き物であるが、同時にかんたんには滅びない生き物でもある。こんなにも決定的な災害に遭っても彼らはまだそこで立ち上がろうとしている。だから、お願いだから、ネアンデルタールは滅びた、などと無造作にいわないでいただきたい。
僕は、人間の人間たるゆえんにおいて、被災地の人々はきっとそこで立ち上がるだろうと信じているし、ネアンデルタールは滅びた、などというくだらない俗説は絶対に信じない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/

「核アレルギー」などという。
人間は、どうしてこんなにも放射能を怖がってしまうのだろうか。
われわれはもう、際限なく怖がってしまう。
そして、どうして人は被爆した人を差別的な視線で見てしまうのだろうか。
われわれは、被爆することがなんだか人間でなくなってしまうことであるかのような底知れない恐怖に駆られている。そういう恐怖によって被爆者を差別しているのだ。
直立二足歩行をはじめた原初の人類は、戦う能力も逃げる能力も喪失しながら、「隠れる」という習性を磨くことによって生きのびてきた。
しかし、見えない敵である放射能からは、隠れようがない。透明人間から隠れられないのと同じである。そのようにして放射能は、人間存在の根源的な「隠れる」という根拠を蹂躙してくる。
さらに、その見えない敵から受けるわれわれのダメージも、直接的に目に見えたり痛みとして自覚されるのではなく、目に見えない身体内部のいちばん深いところで、しかも決定的なかたちで蹂躙されなければならない。気づいたときはもう手遅れで、そのダメージは死ぬまで消えない。
われわれは、被爆者を不具者のように見ている。そういう差別意識があるから、なお常軌を逸して放射能を怖がってしまう。
原発は安全である、といっても、なんの役にも立たない。そこに放射能が存在するということそれ自体にわれわれは、深く根源的に怖がっている。
今回のような事故があると、そのことをあらためて思い知らされる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
直立二足歩行する猿である人間は、根源的に怖がる生き物として存在している。
原子力は、怖がる生き物である人間がもっとも持ってはいけないものであると同時に、因果なことにわれわれは、その怖がるということから快楽を汲み上げてゆく生き物でもある。
日本が被爆国だからというような、そんな単純な問題ではない。原発に対しては、ヨーロッパ先進国のほうがもっと神経質である。
人間にとっての根源的な恐怖は、死が怖いとか闇が怖いとか、そんなことではない。
人間は、ほかの動物以上に生きてあることを自覚している生き物である。だったら、生きてあることができない、ということが怖いのだろう。生きてあることができない状態で生きてあることが怖いのだろう。
被爆すれば、生きてあることができない状態で生きねばならない。そうやって人間ではなくなってしまうかのように思えてくる恐怖がある。だから被爆者は、ひどく憐れまなければならないし、差別されなければならない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまりこの恐怖は、根源的な恐怖であると同時に、社会的な共同幻想でもある。
共同体にとっての社会という身体は人間の意志で運営されている、と合意されている。そしてそういう社会の中の個人もまた、誰もが、みずからの意思によって身体を支配している、という意識を共同幻想として共有している。
放射能は、そういう社会的合意(共同幻想)を、決定的に蹂躙してくる。いったん被爆してしまえば、もう自分の意思ではどうもならないどころか、子や孫にまで遺伝してゆく。もう、みずからの意思で身体を支配しコントロールしながら生きてゆくということができなくなってしまう。
放射能によって、現代人のこの生の根拠が決定的に蹂躙される。いったん被爆すれば、われわれはもはや人間であることができなくなってしまう。
つまり現代人は、そういう共同幻想のぶんだけ被爆することを怖がってしまうし、そういう共同幻想のぶんだけ原子力をコントロールできると思っているし、コントロールしたがっている。
このへんがやっかいなところだ。
僕は、原発賛成派でも反対派でもない。僕はこの世の中にぶら下がって生きているだけで、この世の中を動かしている一員だとは思っていない。おとなしくついてゆくから、そういうことは皆さんで決めていただきたい。
ただ、現代人はどうしてこんなにも原発をつくりたがり、どうしてこんなにも怖がってしまうのだろうと言うことが気になるのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
原発は、現代の「神」であるのだろうか。
それは、人智を超えて存在している。その発電能力はもう神の領域だし、人間の根源的な怖れや畏れを呼びさます見えない相手でもある。
われわれは、放射能の有効性に目覚めれば目覚めるほど、放射能に対する恐怖も抜き差しならないものになってゆく。
原発がどんなに安全な装置であっても、われわれの恐怖はなくならないし、さらに増すばかりだろう。
原発が有用であるというそのことが、われわれの恐怖を培養している。原発によって豊かな繁栄した社会をつくれば、われわれはますます危機それ自体を生きる心のダイナミズムを喪失してゆき、ますます放射能に対する恐怖を募らせてゆく。
その「神」としての威力によってわれわれは、人間であることのダイナミズムを獲得し、同時に人間であることの心のダイナミズムを奪われ続けている。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、危機を生きる心のダイナミズムを体験していった。そして今、現代人は、原発によってその心の動きを失い、もはや繁栄の中でしか生きられなくなってしまっている。繁栄の中でしか生きられない制度的な心だから、際限なく放射能を怖がってしまう。何はともあれその恐怖は、根源的であると同時に、共同性・制度性の病でもある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
チェルノブイリ周辺に暮らしていた農民は、ゲストである報道関係者には安全な缶詰の食事を提供しながら、自分たちは自分たちがつくった放射能汚染された野菜を食べてその場をしのいでいたのだとか。
この世に生まれてきたことは、どうせいっときのお祭りだ。百年生きようと五十年で死のうと、そうたいした違いはない。「今ここ」がお祭りであればそれでいい……そういうダイナミズムをわれわれはすでに失っているし、原発の事故現場で働いている人たちや東北大震災の被災地で身を寄せ合って生きている人たちはそれを体験している。そういうダイナミズムこそが、原初の人類が二本の足で立ち上がることによって体験した人間性の根源なのだ。
人間は今ここに住み着こうとする生き物である。そうやって今ここに隠れてしまおうとするのが人間の根源的な習性であり、今ここに隠れて危機それ自体を生きようとするのだ。
原発事故の現場で働く人々は「今ここの危機」にもぐりこんで、危機それ自体を生きようとしている。そうしてその周辺の住民は、安全なところに避難せよと日本中から煽られ続けている。いまや、日本中で放射能におびえきった声がこだましている。
現在、人の心のもっとも原初的でダイナミックな連携と、もっとも現代的な退廃(衰弱)とが同時に起きている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/

生きてゆくのに必要なのは、食い物だけではない。食い物もその一部にすぎない。
ようするに、生きてあることの居心地の悪さをどう処理してゆくかということ。空腹であることもそのひとつにすぎない。われわれは一日中食っているわけではないし、食えば空腹のうっとうしさはひとまずおさまるが、人と人の関係などの心の居心地の悪さは、一日中、ときにいつまでもついてまわる。
「生きられる意識」とは物を食おうとする意識(食糧補給の意識)である、と限定してしまうわけにはいかない。物を食おうとする意識とは、生きてあることの居心地の悪さを処理しようとする意識のひとつにすぎない。
生きてあることはもともと居心地の悪いことであり、その難儀を処理してゆくことが生きるいとなみになっている。難儀を処理する能力が生きる能力である。とすれば、人間という猿が「二本の足で立つ」という難儀を引き受けてしまったのも、それはそれで生きてあることの自然な成り行きであるともいえる。
難儀を引き受けながらこの生が充実してゆくのであり、それが生き物の行動様式だ。
生きていれば、細胞のはたらきによって、痛いとか苦しいとか暑いとか寒いとか、そういう居心地の悪さが不可避的に起きてきて、われわれはたえずそれを処理しながら生きている。
われわれは、四六時中居心地の悪さにつきまとわれており、その居心地の悪さを処理してゆくことが生きるエネルギーになり、生きる醍醐味になっている。
生きてあることは居心地の悪いことであり、居心地の悪さを引き受けることが生きることだ。だから人間は、二本の足で立ち上がった。
二本の足で立ち上がることは、居心地の悪さを引き受けている姿勢である。
人間は、ほかの動物以上に難儀を引き受けてしまう生き物なのだ。そこから、生きてあることの醍醐味が生まれてくる。
・・・・・・・・・・・・・
今回の東北地震の被災地に残って身を寄せ合って生きている人たちがたくさんいる。
安全な場所にいるあなたたちは、そのことに対する感動はないか。人間というのはせつない生き物だなあ、とは思わないか。
さっさと疎開すればいいのに、と思うだけか。
疎開すれば問題はすべて解決すると思っているのか。
そんなことですめば、ネアンデルタール=クロマニヨンは氷河期の極北の地に住み着いたりなんかしなかったし、現在の北極近くのエスキモーもいるはずがない。
人間は、危機(居心地の悪さ)それ自体を生きようとする。彼らの「今ここ」にも希望と充実がある。危機それ自体を生きるものこそが、もっとも深い生きてあることの醍醐味を知っている。
人間が、避難すれば万々歳の生き物なら、福島の原発事故の現場で必死に働いている人たちもいない。おまえら、彼らが金目当てだけで働いていると思うのか。ただのヒューマニズムや使命感だけでもない。人間としてのどうしようもない昂揚感から逃れられない、ということもある。彼らがどうしてあんなにも勇敢にがんばってしまうのか、おまえらの薄っぺらで人間離れした脳みそでは永久にわからない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/