衣装の起源は、「おしゃれ」をすることにあった。
人間は、そういう「遊び」をする生き物である。「遊び」が、原初の人類の歴史をつくってきた。
二本の足で立ち上がったのも、言葉を話すようになったのも、石器を生み出したのも、衣装を着るようになったのも、すべては「遊び」としてはじまったことだった。
ヘーゲルは、「人間性の本質は労働にある」というようなことをいっていて、現代の多くの人もそう思っているらしいが、人間を人間たらしめているのは「遊び」なのだ。
根源的には、人間が生きることは「遊び」であって「労働」ではない。生きることに価値などなどない。人間が生きることは、価値を生産する行為ではないし、「こう生きねばならない」という労働ではない。原初の人類は、「こう生きねばならない」という価値観や未来意識によってこの生をつくってきたのではない。「せずにいられない」ことをしてしまった結果として「すでに生きてある」ことを気づかされていただけだ。そして彼らは、「すでに生きてある」ことのその運命を受け入れていった。そのようにして直立二足歩行が定着し、気がついたらアフリカを出て氷河期の極北の地まで拡散しながら、その運命を受け入れるというかたちで生き延びていったのだ。
人間にとっての生きることが価値を生み出す「労働」であるのなら、住みにくいだけの地球の隅々まで拡散してゆくということは起きなかった。それが労働であるのなら、みんなが住みやすいところを目指して移住してゆき、今頃住みやすい温暖な地にひしめき合っていることだろう。しかしそんなことは、猿のすることだ、猿は、住みやすいところにしか住まない。
チンパンジーは、自分たちの住みやすい熱帯の森にしかいない。原初の人類は、たぶんチンパンジーと同じような猿だったはずなのに、チンパンジーに追われてアフリカの外まで拡散していった。そして、つねに未知の土地の新しい環境を運命として受け入れていった。
どんなに住みにくくても人類はそれを運命として受け入れながら住みついていったのだ。
われわれは、望みもしないのにこの世に生まれてきてしまった。そして、望まないのに死んでゆかねばならない。われわれにとって生きることは、望みもしないこの残酷な運命に対する気を紛らわす「遊び」として成り立っている。
気を紛らわす「遊び」がなければ、住みにくい土地に住みついてゆくことなんかできないし、それが人間の本性なのだ。
人間は死を自覚する生き物である、という。だからこそ、誰もがその残酷な運命を共有し連携してゆく生き物になった。
怖がらなくてもいい、みんながそれを共有しているのだ、と僕は自分に言い聞かせる。
みんなで二本の足で立ち上がることは、ひとつの連携である。人間は、それによってより弱い猿になり、より密集した群れをいとなむことができるようになった。言葉を交わし合うことも、ひとつの人間的な「連携」であり、「おしゃべり」という「遊び」として発展していった。石器のつくり方を教えるためとか群れの運営のためなどの「伝達=労働」の道具であったのではない。そんなことは、言葉などなくとも伝わることだ。そんなことより、群れが密集してきて、みんなで楽しい時間を過ごす「遊び」として言葉が必要だった。たとえば、みんなで洞窟の中でたき火を囲みながら語り合う、そういうところでこそ言葉は生まれ育っていった。
人間的な連携として、「遊び」が生まれてきた。
衣装の起源もまた、「おしゃれ」という「遊び」の行為としてはじまった。
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原初の人類が初めて二本の足で立ち上がったとき、それはとても前に倒れてしまいやすい姿勢だった。不安定だし、胸・腹・性器等の急所をさらしてもいるから、どうしてももとの四本足の姿勢に戻ろうとする衝動がはたらいてしまう。
そんなとき、だれかが目の前に立っていれば、倒れるわけにいかない。その目の前の相手から体の正面の急所を見つめられたら、とても不安になってしまうが、それはおたがいさまであり、その不安を共有しながらたがいの直立姿勢を安定させていった。これが、人類最初の「連携」だった。「連携」によって、みんなが二本の足で立っている集団になっていった。
相手と正面から向き合っていることのプレッシャーが、直立姿勢を安定させる。この閉塞感=ストレスと解放感が混在した心の動きこそが、人間的な快楽のもっとも根源的なかたちである。
見つめられることの不安=ストレスが、直立姿勢の安定という解放感を生む。
解放感の起源は、直立姿勢の安定にある。これが、生まれて初めて二本の足で立ち上がった赤ん坊のよろこびであり、そのとき彼らは、満面の笑みでそのよろこびを表現する。
人類は、正面から向き合う関係を持ったことによって、知能の発達の契機を得た。それによって言葉が生まれ、体毛が抜け落ち、衣装をまとうようになっていった。
見つめられることのストレスと恍惚、これが衣装の起源の契機であり、このストレスと恍惚の根源は、直立姿勢の不安と解放感にある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何はともあれ、群れが大きく密集してきたことによって、そうした現象が生まれてきた。
それは、人類が氷河期の極北の地まで拡散し住みつくようになっていったからだ。
人類が最初に氷河期のドーバー海峡(そこは氷が張っていたか陸続きになっていた)を渡っていったのは。およそ50万年前である。
彼らは、当時の地球上の人類種の中でももっとも進化が遅れていたグループだった。
体も小さかった。
20万年前ころにあらわれたネアンデルタールの祖先である。
アフリカのホモ・サピエンス北ヨーロッパネアンデルタールは50万年前ころに枝分かれした、というのが現在の分子生物学の定説になっている。
南ヨーロッパに生息しているころはまだ血の交流があった。だから、アフリカの人類と南ヨーロッパの人類のあいだには、それほど大きな身体差はなかった。しかし氷河期の北ヨーロッパまで拡散してきてしまうと、北で生きてゆける体質と南の暮らしに適応した体質とのあいだに大きな隔たりが生まれて、たがいの血が相手のところまで伝播してゆくということがなくなっていった。
地球上のすべての群れがまわりの群れと女の交換をしていれば、その血は地球の果てまで伝播してゆく。しかし、南の暮らしに適応した体質では北の果てで生きてゆけないとなれば、もうそこまで伝播してゆくことはない。
そして拡散していった人類は、つねにもっとも環境適合能力の劣ったグループだった。これが、人類拡散の法則である。ここのところで、世の人類学者は誤っている。彼らは、優秀な種が率先して拡散していったというパラダイムで考えている。
そうじゃない、50万年前に北に拡散していったのは、もっとも進化が遅れていたグループだった。だからネアンデルタールの骨格も、同じ時代のアフリカのホモ・サピエンスよりも原始的で、背も低かった。
しかし彼らが文化的に遅れていたとはかぎらない。彼らは、地球上のどの地域よりも大きく密集した群れをいとなんでおり、そうしないと生きてゆけない環境だった。そういう条件から言葉が発達し、衣装をまとうようになっていったのだ。
・・・・・・・・・・・・・
現在のヨーロッパ人の肌が白いのは、北の地に拡散してきてから体毛が抜け落ちていった人類の末裔であることを意味している。チンパンジーの体毛をむしり取ったら、その下の肌の色はおそらく真っ白だろう。色黒のアフリカ人がヨーロッパに移住し、寒冷気候に合わせて肌を白くしていったのではない。そんなふうにして肌が白くなるというのなら、その科学的根拠を示してもらいたいものだが、そんなことは起こり得ないのだ。
人類の知能が本格的に進化し始めたのは、ネアンデルタールが登場してきた20万年前ころからである。それによって、脳容量も大幅に増え、現代人とほとんど同じになった。それまでは、身体能力に差があったくらいなのだ。
そのころ、イングランドの北半分やスカンジナビア半島のすべてはただの氷原であり、さすがにそこにはまだ人類も住めなかった。彼らは、草食動物の北限の地で、狩の腕を磨きながら住みついていった。
まあ、ぎりぎりの生存だったのだろう。豊富な体毛と火があったから、何とか生き延びることができたのかもしれない。
そのころ、まだ精巧な石器はなかった。ただ、寒い地であったから、必然的に群れは密集してゆく。密集して体を寄せ合っていなければ、冬は越せなかった。
その密集した群れで彼らは、まず連携することを覚えた。そうして、少しずつ言葉を進化させていった。大きく密集した群れで暮らすためにまず必要なことは、大きく密集した群れで暮らすことのできるメンタリティと関係の作法である。何はさておいても、それがなければ大きく密集した群れでは暮らせない。食いものは、二次的な問題である。食えるものなら何でもよかった。そういうものたちでなければ、わざわざ新しく過酷な環境に住みついてゆこうとなんかしない。
しかしそうした過酷な環境で寄り集まり連携してゆくことを覚えれば、狩の技術も上達してくる。そしてそれに合わせて石器も改良されていった。
石器によって狩の技術が上達したのではない。狩の技術の上達が、石器の改良を促したのだ。
ネアンデルタールが登場してきた20万年前ころは、ヨーロッパもアフリカも石器文化にそれほど差異はなかった。
しかし狩の仕方は、かなり違っていた。
アフリカでは、森の小動物を個人技で仕留めるのが主流だった。彼らは、家族的小集団を組んで森から森に移動して暮らしていた。
一方北ヨーロッパでは、マンモスやオオツノジカなどの大型草食獣にチームプレーの肉弾戦を挑んでいった。寒いところでは、そういう脂肪分の多い食物が必要だったし、そういうチームプレーが生まれてくるような大きく密集した集団をいとなんでいた。
アフリカでは敏捷な小動物に対する投げ槍の文化が発達し、北ヨーロッパでは大型草食獣との肉弾戦のための銛の文化が発達していった。だから、アフリカでは石器のつくりがしだいに繊細になっていったのに対して、ネアンデルタールは、あくまで頑丈な石器にこだわった。研究者はこれを、ネアンデルタールは保守的だったというのだが、そうではない、狩の仕方や対象が違っていていたからだ。
ともあれ、集団生活の文化は、寒い北の地で発展した。言葉は、その暮らしの中から育ってくる。
20万年前のネアンデルタールは、同時代のアフリカ人よりも発達した言葉の文化を持っていたはずである。
人間的な文化である集団生活や言葉や衣装は、原始人としての限界を引き受けて果敢に氷河期の北の地に住みついていったネアンデルタールによって切り拓かれてきたのだ。人類史におけるネアンデルタールは、そのように位置づけられるべきである。
ネアンデルタールは滅びた、と合唱しているこの国の古人類学者なんか、なんにもわかっていない。
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人類の脳は、ネアンデルタールの出現とともに爆発的に発達し、現在と同じレベルまでになった。
そしてその脳を発達させたのは、集団の暮らしのストレスと恍惚である。
人間は、集団の中で大きなストレスを体験し、同時に、そこでこそ根源的な解放感を体験する。
ネアンデルタールの末裔としてのヨーロッパ人は、人類史において、最初に人と人が正面から向き合うことの文化を完成させた人たちである。
彼らは、「見つめる」という文化を持っている。
彼らの視線の濃密さは、格別である。それは、正面から向き合い、やがて抱き合う関係に入ってゆくための、ひとつの手続きである。そいう関係を持ってたがいの身体を温め合わなければ、寒い地では生きられなかった。何はさておいても、抱きしめ合うという「連携」の関係をつくらなければ、生き延びられなかったし、大きく密集した群れを維持することもできなかった。
見つめられることは大きなストレスだが、そのプレッシャーが直立姿勢を安定させる。西洋人は背筋がピンと伸びて姿勢がよい。それは、見つめ合う文化を持っているからだ。
また、だから、人の眼ばかり意識している自意識過剰な人間は、そっくりかえったような姿勢で歩く。
何はともあれ、他者の視線こそ、人間の直立姿勢を安定させているのだ。
見つめられることは大きなストレスである。そのストレスが応力となって、直立姿勢を安定させる。
そしてそのストレスが、抱きしめられることによって解放される。これが、極北の地で暮らした人々が追求した人と人の関係だった。
抱きしめ合うことは、見つめ合うことが不可能な関係である。それは、より直立姿勢が安定する関係であると同時に、体の正面の胸・腹・性器等の急所が圧迫されて、より大きなストレスを生む。しかしそのストレスが、解放(快楽)でもある。ストレスフルであればあるほど快楽も深くなる。直立二足歩行する人間の快楽は、そのようにもたらされる。50万年前に氷河期の北ヨーロッパに住みついていった人々は、この関係を追求しながら寒さに耐えて生き延びていった。
彼らを生き延びさせたのは、一義的には、この大きく密集した群れを維持してゆく作法であったのだ。この「見つめ合う」という「遊び」によって、言葉や衣装が生まれ育っていった。人間の生きるいとなみが食い物のことだけですむのなら、言葉も衣装も生まれてこなかった。人間が生きてあることはひとつの「遊び」であり、それが、原初の人類の歴史だった。
人間は、大きく密集した群れをつくる生き物であり、大きく密集した群れは「遊び心」がなければ維持することができない。「遊び」を契機にして文化や文明が生まれ、人間の脳が発達してきた。これが、原初の人類の歴史である。
人間の「遊び」とは、つまるところ、直立姿勢を安定させる行為にほかならない。そこに人間であることの根拠があり、そこから人間的な快楽(=解放)が生まれてくる。
そして、直立姿勢を安定させる体験の根源は、人と人が正面から向き合うことにある。人間は、このストレスと恍惚のバイブレーションの中で、大きく密集した群れをいとなんでいる。50万年前に原初の北ヨーロッパに住みついた人々は、この関係を追求してゆき、やがて20万年前に現代人と同じレベルの脳を持ったネアンデルタールが出現した。
人類が第一義的に追求してきたのは、大きく密集した群れをいとなむことであり、そのための直立姿勢を安定させる「遊び」であり、したがって、けっして食い物を得るという「労働」が第一義的になされてきたのではない。
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社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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直立二足歩行の起源を問うことは、人間の根源的な習性とは何かと問うことでもある。しかし、それを問えば社会に役立つとか、そんなことは僕の知ったことではない。僕は、それが知りたいだけだ。
われわれはきっと誰もがその根源的な習性を抱えて生きているが、この社会がそのことの上に成り立っているとはかぎらない。
この社会は、あなたたちのものだ。この社会をよくするためというようなことは、あなたたちで考えていただきたい。僕は、この社会に「あなた」がいることを思い、「あなた」に向かって語りかけているが、この社会をよくしたいというようなことを考える趣味も能力も資格もない。
どんな世の中になろうと、それがわれわれの運命であり、なるようにしかならない。
何がいい世の中かという正解などない。それはだれにも決められない、と思っている。
「こうしなければならない」とか「こう考えねばならない」とか、「こう生きねばならない」とか、よくそんな偉そうに人を指図するようなことがいえるものだ。善人や才能がないやつにかぎってそういうことをいいたがる。人は、才能に限界を感じると、そういう着地点を見つけようとする。
僕だって才能なんかないが、着地点が欲しいと思ったことはない。ひとまず考え続ける。考え続けなければ生きていられない。
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内田樹先生は「人間は神から人間的責務を付託されている」とおっしゃる。まあこれが、才能のない人間が最後に見出す着地点なわけですよ。「神の付託」と思ってしまえば、そこから先はもう考える必要がない。典型的な思考停止のパターンだよね。
勝手に神を捏造するなよ。
神を捏造しないかぎり、「神の付託」などというものは存在しない。
神は、「神の付託」を受け取ることの不可能性として存在する。
存在しない、というかたちで存在する。
人は、神を捏造することを覚えたことによって、「こうしなければならない」とか「こう考えねばならない」とか、「こう生きねばならない」とか、そんな偉そうなことを思い描くようになってきた。
僕は、人間がそんな偉そうな発想するのが当然の生き物だとは思っていない。少なくとも原始人にはそんな発想はなかったし、彼らは神を捏造することもしなかったはずだ。彼らにとって神は、感じるものであって、捏造するものではなかった。彼らには、「……ねばならない」という発想はなかった。
人間がみずからの身体を支配することを覚え、支配することそれ自体を覚えたことによって、神を捏造するようになってきた。
まあ、「家族」という親が子の心や体を支配する空間で、そういう思考を覚えさせられるのだろうね。親に反発してそれを拒否する、というケースもあるが、人類史においては、「共同体の発生」が「神の捏造の発生」だったのかもしれない。つまり、「一神教の発生」、ここから「……ねばならない」という思考が生まれてきた。
いずれにせよ、そんなことはどうでもいい。それは、人間の根源的な習性ではない。人間は、二本の足で立ち上がらねばならないと思って立ち上がったのではない。気がついたら立ち上がっていたのだ。立ち上がったら動物としての身体能力を大幅に喪失するのに、それでも立ち上がってしまった。
そして、気がついたら体毛を失っていた。体毛をなくさねばならない事情があったわけではない。寒いところにいて体毛をなくしたら困るのに、それでも気がついたら抜け落ちていた。
人間は、「……ねばならない」などと考えて、望むとおりの歴史を歩んできたわけではない。
しかし、何もしなかったわけではない。「せずにいられない」ことがあった。そういうことがあったから二本の足で立ち上がってしまったのであり、体毛が抜け落ちてしまったのであり、その「せずにいられない」ことこそが根源的な習性だ。
・・・・・・・・・・・・・・
衣装は、人類が体毛を失ったことと引き換えに生み出されてきた。
しかし、体毛の代わりの防寒の道具というわけではない。防寒が必要なら、体毛を失うことはない。防寒のための体毛など必要のない暮らしになっていったから、体毛が抜け落ちた。したがって、防寒のために衣装を生み出した、という根拠は成り立たない。
もしも前回に言ったように、見られることのストレスによって体毛をなくしたとすれば、頭髪が残っているのは、そこではとくにストレスを撃退しようとする免疫作用が強く働いているのかもしれない。
脳のある頭部は、もっともストレスを受ける部分だろう。だからこそ皮膚の新陳代謝も活発に働いて、体毛を失わなかった。性器の周辺も、まあそういうことかもしれない。性器の場合は、もともと尿意というストレスを抱えているから、脳と同様にもともと皮膚の新陳代謝が活発な部分であるのかもしれない。
人間は脳を酷使するから、頭髪も際限なく伸びてゆく。頭部には過剰なカロリーが供給されている。
頭部にせよ性器周辺にせよ、その部分の皮膚は、世界との関係ではなく、身体内部との関係に置かれている。だから、世界との関係の「見つめられている」というストレスから逃れることができている。
拒食症に陥ると、体毛が濃くなるそうである。それは、皮膚感覚が世界との関係を失って、身体内部との関係に終始してしまっているからだろう。
何はともあれわれわれの皮膚は、世界との関係を意識する部分に置いて体毛を失っている。
男は、女よりも世界との関係のストレスが希薄である。だからいくぶんか体毛が残っている。とくに西洋の男は毛深い。
そのようにいくぶんか体毛が残っているということは、人類の体毛が抜け落ちたのはそう遠い昔ではないことを意味する。
現在でも、ごくまれに全身が体毛に覆われた赤ん坊が生まれるそうである。こういう「先祖がえり」の突然変異が起きるのは、人間の体毛が抜け落ちてからまだあまり時間がたっていないからで、百万年単位の遠い昔なら、遺伝学的に起きるはずがないのだとか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
原初の人類は、二本の足で立ったことによって、たがいに見つめ合う関係をつくっていった。
四足歩行の動物が正面から向き合うのは、戦闘態勢に入っているときである。
しかし人間は、正面から抱き合い、セックスをする。正面から向き合い、言葉を交わし合う。人間は、正面から向き合うことによって親密な関係をつくってゆく。
二本の足で立ち上がることは、ほんらい、とても不安定で、しかも胸・腹・性器等の急所を相手にさらしてしまうのだから、正面から向き合えばとても大きな不安や恐怖を伴うはずである。
目をつぶって垂直飛びを繰り返すと、知らない間にだんだん後ろに下がってゆくらしい。それは、体の正面に無意識の不安と恐怖を抱えているからだ。
またそれは、前に倒れやすい姿勢である。だから正面から抱き合えば、たがいに支え合っている関係になり、生き物としてのそういう安堵をもたらす。
ただ相手が前に立っているだけでも、姿勢が安定する。その、相手が前に立っているというプレッシャーによって、はじめてきちんと立つことができるともいえる。
人間にとって相手と正面から向き合うことは、もっとも不安と恐怖を伴うと同時に、もっとも直立の姿勢が安定する関係でもある。
人間は、その不安と恐怖を飼いならしながら、つねに正面から向き合い、親密な関係をつくってきた。
そして正面から向き合えば、どうしても相手を見つめてしまう。そのとき見つめられることは生き物としての大きなストレスであると同時に、人間としてのよろこびでもある。よろこびそれ自体がストレスでもある。
この人間的な関係のストレスと快楽は、群れが密集してくることによって、より一層顕著になり、やがて人間は、年中発情している生き物になり、正面から向き合って言葉を交わし合うようになっていった。
人間は、群れの密集をいとわない生き物である。それによってストレスも大きくなるが、快楽も大きくなる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
原初の直立二足歩行は、群れが密集しても共存してゆくことのできる姿勢としてはじまった。
したがって人類の歴史は、時代を経るにしたがって群れが密集していった。群れの個体数の増減に関係なく、どんどん密集して暮らす生き物になっていった。
人間は、密集状態を生きようとする習性をもっている。そしてそれを可能にしたのが、正面から向き合い親密になってゆくという関係である。
人間は、根源的に見つめられて存在している。このことによって体毛が抜け落ち、衣装が生まれてきた。
人類の群れの密集状態が本格化してきたのは、50万年前以降の、氷河期の北ヨーロッパに住みつくようになってからのことだろう。その、寄り添い合って密集していなければ生きてゆけない過酷な環境で、年中発情しているようになり、言葉を交わし合うことも本格化してきた。
そうして、体毛が抜け落ち、やがて衣装が生まれてきた。
そのころ地球は、数万年ごとに温暖期と氷河期を繰り返していた。氷河期に体毛が抜け落ちるということはなかっただろう。そのあとの温暖期が来て、どんどん抜け落ちていった。つまり、氷河期に寄り添い密集してゆく暮らしが極まり、その暮らしのまま体毛がなくても生きてゆける温暖期を迎えたとき、だんだん体毛が抜け落ちていった。
そのとき彼らが体毛という衣装を失った代わりに新しい人工的な衣装をまといはじめたとしたら、それは、防寒のものではなかったはずだ。見つめられることの不安と恐怖、すなわちその居心地の悪さに耐えて見つめられることのよろこびを確保するものだったはずだ。
まあ冬場は、体毛の代わりになる動物の毛皮か何かをまとったかもしれない。しかしそれは、あくまで体毛の代わりであって、新しい人工的な「衣装」とはいえない。体毛がなくなってしまえば、防寒の必要などない季節にも何かをまとわずにいられなかった。それが、げんみつな意味での「衣装の発生」だったのだ。
そしてこのころが、ネアンデルタールという人類が出現したといわれているおおよそ20万年前ころのことだろうと僕は考えている。
衣装は、見つめられることの居心地の悪さに耐える装置として生まれてきた。これは、衣装の根源的な機能であると同時に、「おしゃれ」という究極の機能にもなっている。
おしゃれな着こなしは、見せびらかしもしないし見られることを拒否することもしない。「すでに見られている」ことのストレスと恍惚の上に成り立っている。おしゃれは、人間の根源的な習性の上に成り立っている。おしゃれこそ、衣装の起源である。
そして原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、まさにこのストレスと恍惚を体験していったのだった。
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直立二足歩行と衣装の起源についてはもう、30年前くらいから考えているのだが、基本的には今もそのときと変わってはいない。
衣装は、二本の足で立っていることの居心地の悪さをなだめる機能として発生してきた……これが30年前の最初に考えたことでした。
きっかけは、吉本隆明氏が「海燕」という文芸雑誌に寄稿した「ファッション論」という批評文で、衣装の起源と根源的な性格について語っていたことでした。
で、つまらないこと言っちゃって、という感想しか持てず、だったら俺がその起源と根源を考えてやろうじゃないか、と思い立ったのがきっかけです。
そのとき吉本さんは衣装の起源は「防傷防寒の道具」としてはじまったというようなことをいっていて、考えることの程度が低いなあ、と思ったのでした。一種の「労働史観」ですよね。歴史家なんか、みんなこのパラダイムで考えている。しかし僕は「労働」というパラダイムで「起源」は語れない、と思っている。
すべての起源は「遊び」にある、というのが今なお変わらない僕の立場だ。「遊び」が人間の歴史をつくってきた。二本の足で立ち上がったことだって「遊び」だったし、現在残っている原初的な衣装としての「ペニスケース」や「ボディペインティング」や「パンツ」だって、労働の道具なわけないだろう。すべて「遊び」じゃないか、というのが吉本さんに対するそのときの僕の反論だった。
吉本さんの論旨は、まずはじめに「防傷防寒の道具」としてはじまり、それからおしゃれや儀式などの「遊び」の道具になってきた、というもので、逆に僕は、現代こそそうした「防傷防寒の道具」としての「通気性」だの「保温性」だのという機能が盛んに追求されているのではないか、と考えた。
そのとき、生まれて初めて100枚くらいのレポートを書いてみた。それから5年前まで僕が書いたレポートはそれ一つだけで、ずいぶん稚拙な書きざまだったが、衣装の起源と根源は直立二足歩行の起源と切り離して考えることはできない、というスタンスは今も変わっていない。
人間が生きるために必要なのは心をなだめることであり、それができなければ生きていられなくなって衣食住なんかどうでもよくなってしまうのが人間なのだ。衣食住が満たされればされるほどそういう傾向になってゆくのが人間であり、それが、人間の根源であり行き着くところでもある。
原初の人類は、心をなだめるために、二本の足で立ち上がったのだ。人間の歴史は、そこからはじまり、そこに行き着く。
逆にいえば、心をなだめるために物を食うのであって、食うために食うのではない。本能という言葉をあえて使うなら、食いたいという本能があるのではない、心をなだめたいというのが人間の本能なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人類史における衣装は、いつごろ生まれてきたのか。
アマゾンの奥地などではいまだに裸のままで暮らしている人たちもいるのだから、そう古いことではないだろう。
人類の衣装は、北と南とどちらで先に生まれたか。
もし防寒の道具として生まれたのなら、北の方が早い、ということになる。
しかし原初の人類には、猿と同じ体毛があった。体毛を持っているかぎり、防寒のために衣装を着るという発想は生まれにくい。すでに体毛という衣装を持っているのだから、「衣装」という発想が生まれてくる根拠がない。
防寒という目的があるのなら、人間は体毛をなくしたりはしない。したがって、防寒という目的から衣装が生まれてきたということも論理的にあり得ない。
防寒ということよりももっと人間の行動を左右する要素があったから、体毛をなくしてしまったのだ。
つまり、その「防寒ということよりももっと人間の行動を左右する要素」、すなわち「体毛をなくさせた要素」によって衣装が生まれてきた、ということだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
人間から体毛をなくさせた契機はどこにあるのか。
原初の直立二足歩行は、群れが密集しすぎてたがいの身体のあいだの「空間=すきま」を保てなくなったためにそれを確保しょうとしてはじまった。したがって人間は、その本性として、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保することにものすごく神経質になる生き物である。つまり、そういう皮膚感覚が、他の動物に比べてものすごく発達している。
見知らぬ人や嫌いな人間がそばに寄ってきたら、体中の皮膚がざわざわする。そういう皮膚感覚がどんどん発達していって、体毛が抜け落ちたのだ。
群れが密集してくれば、どうしても皮膚感覚は過敏になっていってしまう。
そして人類の歴史において、そこまで群れが密集していったのは、おそらく人類が極寒の北の地に住みつくようになりその暮らしを確立していった20万年前あたりのことだろうと思える。寒い北の地では、みんなが寄り集まって密集していなければ生きていられなかったし、より集まっていることのよろこびをくみ上げる文化もどんどん発展していった。そういう状況から、体毛が抜け落ちていったのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
見知らぬ人や嫌いな人間にそばに寄ってこられることは大きなストレスだが、そういう人間から見つめられることもさらに大きなストレスになる。
しかし人間は、根源的に見つめてしまう生き物であり、見つめあって密集した群れをつくっている生き物でもある。そういう見つめられる(監視される)ストレスも、体毛が抜け落ちてゆく契機になった。
群れが密集してくれば、見つめられることのストレスは増大する。人間はそういうストレスが増大する歴史を歩んできたのであり、現代ほどそのストレスを多く抱えている時代もなかった。そしてなぜこんなにも密集してしまったかといえば、人間は、見つめられるストレスと同じだけ見つめ合うときめきも体験している存在だからだ。
見つめられることがストレスなら見つめ合うことなんかしなければいいのに、それでも見つめあってしまうのが人間なのだ。見つめ合うことのときめきは、見つめられることのストレスを忘れさせてくれる。人間は、見つめられることのストレスを見つめあうことによって解決してきた。そのようにして体毛が抜け落ちてきたのであり、そのようにして現代人は、せっせとおしゃれをしたり、裸になったりしている。
そのようにして人間は、限度を超えて密集した群れをつくってきた。
現代ほど裸が止揚されている時代もなかっただろう。夏の海辺で裸みたいなビキニの水着を着ることも、現代的なおしゃれのひとつだ。それは、見つめられることのストレスから解放されていることの証しとして表現されている。人間は、見つめられることのストレスを見つめあうことによって解決する。そういう表現としてビキニの水着があり、人間はおしゃれをする。
しかしそれでも、ブラジャーとパンツだけはつける。人間が群れをつくる生き物で群れの中にいるかぎり、これだけはつけないと居心地が悪い。群れから解放されて、はじめて全裸になる。このぎりぎりのブラジャーとパンツが、衣装の起源であり、究極である。
・・・・・・・・・・・・・
人間の群れ(共同体)は監視し合うシステムであり、見つめられることのストレスが限りなく増大する場所である。同時にわれわれは、ここでそのストレスからの解放として友情や恋愛を体験し、見つめあってもいる。つまり、人間的な「連携」を見いだいしている。仕事だって、ほんらいは見つめ合うことのストレスから解放されて人間的な連携を見出してゆく場であるはずなのに、現代においては、いたずらに監視し合うシステムだけの場になってしまっている。すなわち、見つめられることのストレスが増大するだけの場になってしまっている。上にいけばいくほど監視されるストレスから解放されて、下にいけばいくほど監視されるストレスが増大してゆく。
新入社員が居つくことのできない社会システムをつくっておきながら、新入社員の心がけが悪いなんていうなよ。
家族だって、親が子を監視するシステムになってしまっている。
人間は、監視されるストレスによって体毛を失った。監視されることが大きなストレスになるくらい皮膚感覚が鋭敏な生き物なのだ。そしてそこからの解放として、衣装を生み出していった。
ストレスが大きいから、そこからの解放としてのよろこびも大きい。その解放の装置として、衣装が生まれてきた。
人間が群れをつくる生き物であるかぎり、ブラジャーとパンツはつけなければ解放されない。このブラジャーとパンツは、限度を超えて密集した群れの中に置かれてそのストレスに耐えて生きていることのあかしであり、そのストレスをみんなで共有しているという連携のあかしでもある。
衣装は、密集した群れの中に置かれてあることのストレスから解放される装置であり、解放されてあることのよろこびを共有してゆく装置でもある。だから、そういう「連携」として、「流行」という現象が生まれてくる。
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吉本さんは、「裸こそ衣装の根源であり究極である」といっておられるが、そうじゃないんだなあ、衣装の根源と究極は、「体毛」なのですよ。だから、もっとも現代的な衣装は、「通気性」や「保温性」を追求する。だから、もともと体毛が生えてないはずのおっぱいやペニスを隠す。そこは、人間のもっとも皮膚感覚の鋭敏な部分である。限度を超えて密集した群れの中に置かれていると、その部分がどんどん過敏になってゆく。だから、その部分をなだめるように衣装で覆っていった。これが、衣装の起源であり、究極である。
衣装は、体毛の代替であると同時に体毛を超えた存在でもある。
20万年前の極寒の地を生きたネアンデルタールという人類は、体毛を失ってでも密集した群れで生きようとした。密集した群れをつくれば、体毛を失っても生きられた。
人類の衣装は、体毛と引き換えに生まれてきた。
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社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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津波に流されて死んでいった人の命と、避難して生き残った人の命とどちらが重いかといえば、生き残った者たちに多くのかなしみをもたらしたという意味で、死んでいった人たちの命の方が重いというほかない。あえてどちらかというなら、そうとしかいえない。
生き残るべき大切な命と死んでしまってもかまわない命があったわけではない。なのに死んでゆかねばならなかった命は、死んでゆかねばならなかったという分だけ重い。みんな生き残ってもいいはずなのに、彼らは死んでゆかねばならなかった。その分だけ彼らの命は重い。
生き残った者は賢明で、死んでいったものは愚かだったというわけでもないだろう。賢い人がたくさん死んでいったし、愚かなのに生き残った者たちもいる。すべては運命のめぐり合わせだ。
僕はべつに、生き残ったことが価値あることだとは思わない。それは、死んでゆかねばならなかった人たちに対して失礼だ。
死んでいった人たちの命の方がずっと重い。生きている者にとって死んでいった人の命は重い。
生き残った者たちは、そういう重さを背負ってこれから生きてゆかねばならない。
生き残った人たちは素晴らしい、というのは、外野の意見にすぎない。当事者にとっては、死んでいった人の命の方がずっと重い。生き残ることに価値があるのなら、喜べばいいだけのこと。しかし、当事者は、それだけではすまない。死んでいった命を、なおいっそう重く切なく受け止めなければならない。
誰だって生き残りたいが、生き残れない者も生み出してしまうのが、この地球の生命現象の事実だ。誰も生き残れない。みんなそのうち死んでゆく。
死んでゆくという事実の重さと確かさに比べれば、生きてあるという事実はいかにもあいまいだ。夢のようにあいまいだ。
被災地の当事者たちは、このあいまいさに身もだえしなければない。
このあいまいさの嘆きを、彼らは共有している。人間的な連携は、この「嘆き」を共有するところから生まれてくる。
生きてあることの価値を共有している平和な地域のわれわれが、生きてあることの嘆きを共有している被災地の人々よりも深く豊かな連携をつくれるということはあり得ない。
僕は、生き残った人々の「嘆き」をささやかながらでも追体験してみたいと願って、ひとまずこの記事を書いている。
生き残ることが素晴らしいとなんかいえない。彼らのこれからの生には、物理的にも精神的にもさまざまな困難が立ちはだかっている。いつまでも消えない恐怖、死んでいった家族や友人たちへの思い……しかし人は、そういう「嘆き」を共有してゆくところでこそ、もっとも豊かに連携している。
直立二足歩行する人間は、根源的には弱い猿であり、怖がる生き物である。被災地の人々は今、そういう人間の真実を思い知らされている。何はさておいても、彼らのその「恐怖」や「嘆き」が癒されなければならない。人類は、その「恐怖」や「嘆き」を共有し連携してゆくこととによってそれを癒してゆくという歴史を歩んできた。そのようにして文明や文化が生まれてきた。われわれだって今、そういう体験をしているのだ。
そうした「恐怖」や「嘆き」を体験してしまった被災地の人々には今、たとえばうららかな春の日がさす窓辺にもたれてまどろんでゆくような時間こそが必要なのであって、復興の経済がどうのというような生臭い話ばかりして追い詰めてもしょうがない。まあそういう話は、おりこうな人たちでやってくれ。
おまえら、人間が正しく社会を運営してゆくことができるとでも思っているのか。その思い上がりは何なのか。そうやって他人を裁いたり見下したりしてうれしいか。人間なんか、行き当たりばったりで右往左往しながら生きているだけじゃないか。その卑小さを思い知ったら、生きている人間の命なんか薄っぺらなものさ。
立派な人間なんぞに、何ほど値打があるというのか。人間なんか、春の窓辺でまどろむことができればいいだけさ。そのことの方が、はるかに値打のあることだ。おまえらみたいな立派な人間はそのことがわからないからくだらないのだ。
今ここに生きてあることがどんなに狂おしく悩ましいことか、人生を技術(ビジネスマインド)だけで生きているおまえらにはわからない。おまえらは、生きてあることのほんの一部しか味わっていないんだぞ。それは、おまえらが、死んでいった人の命の重さを知らないからだ。それに比べたら自分の命なんか夢のようにあいまいで軽いということを思い知っていないからだ。
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もう内田樹先生のことなんか気にしないで原初の人類の歴史のことだけを考えていこうと思い立ってこの新しいテーマを書き始めたのだけれど、ちょっと今、足踏みしてしまっている。
「生き延びる」などという言葉を正義づらして振り回されると、ほんとにむかつく。
内田先生だけでなく、現代社会そのものが、このことばを当然の正義のように合意している。
リスクヘッジ(危機回避)」などともいうらしい。
原発事故があったから、首都圏の者も関西や九州に疎開してこい、と先生はいっているのだとか。そしたら、この国の一極集中のひずみが緩和される、と。それが、リスクヘッジというものなんだってさ。
で、それに対して、そんなことをしたら首都圏の経済が停滞してしまう、という愚かな反対意見ばかりが寄せられた、と先生はいう。
すごい問題のすり替えだ。
中にはそんな意見もあったかもしれないが、ほとんどの人は、首都圏はまだそんな段階ではないのだからよけいなことをいうな、と言っているだけだろう。変にパニックにならないで冷静に事態の推移を見守るのがさしあたって首都圏の住民の取るべき態度だ、とたいていの人が思っている。そしてフランス大統領のサルコジだって、日本人のその態度を尊重する、と言っている。
一極集中がどうのという話で先生を批判しているのではない。そうやって問題をすり替えながら他人を安く見積もるというのが、この先生の常套手段である。
われわれは、人間を人間とも思わないで、安直に「疎開してこい」というその傲慢さと思考の愚劣さを批判しているのだ。
疎開すれば、誰もが、住みなれた故郷や家を捨てて他人の厄介になりながら肩身の狭い思いをして暮らしていかなければならないんだぞ。できればそんなことはしたくないのが人情だろうが。そういう人情を踏みにじって、体育館などの施設を提供して面倒を見てやるからさっさと疎開してこいという、その鈍感な無神経さはいったい何なのだ。
人々は、その鈍感な無神経さを批判しているのであって、経済がどうのといっているのはほんのごく一部なのだ。それを、まるでみんながそういっているかのような言い方をしてさげすんできやがる。
こんなときに、都落ちした人間のルサンチマンをまる出しにして一極集中のことに難癖をつけてもみっともないだけだ。この国を背負って発言しているつもりであるのなら、まずは被災した人々の心に寄り添ってゆくようなメッセ−ジを送ってみせろよ。それが、人間としてのたしなみというものだ。それが、大人の常識というものだ。この国の制度がどうのという前に、まず被災者に対して「あなたたちとともに生きている」というその心映えを示してみせろよ。人格者を気取るなら、それくらいわかれよ。それが、人間に対する礼儀というものだろうが。
たしかに、こんなアホを相手にしてもしょうがないのかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかしこんなアホが大手を振ってのさばっている世の中だ。たくさんの善男善女が、あっさりとたらしこまれている。というか、彼らも同じ人種だということだろうか。
こんなアホが存在してはならないというのではない。こんなアホが存在するのが人間の社会であり、それはもうしょうがないことだ。
しかし他人の心に寄り添ってゆくことのできないこんなアホが大手を振ってのさばっているのは何か変ではないか。人の心を置き去りにして「共同体が生き延びる」ことを第一義とする論理ばかり押し付けてこられたら、世の中がますますぎくしゃくしてしまうし、たがいの心に寄り添いあいながらひっそりとこの社会の片隅で生きている人々がますます追い詰められてゆかねばならない。
べつにこんな愚劣な人間がいてもいいけど、大手を振ってのさばられたら困るのだ。その愚劣さの分だけ少しはおとなしくしてもらわないと困る。
そのためには、この愚劣さを批判して対抗する動きが起こってこなければならない。しかし現在のところ、世に流通している知識人たちの内田批判は、どれもいまいち中途半端だ。
僕は、内田一派の対抗勢力として中島義道氏に期待していたのだけれど、それほどラディカルな対立は持っておられないということがこのごろ見えてきた。
決定的にラディカルに対立できる言説はまだ出てきていない。だからあの連中がいい気になってのさばっている。
僕をはじめとして心底うんざりしているのは、底辺の声なき声ばかりだ。
そりゃあね、誰よりもラディカルな内田批判を世に送り出したいという気はないでもないですよ。でも、悲しいかな、いまの僕にできることは、せいぜいこんなところでささやかに悪態をついているのが関の山、というわけ。みじめなものです。だからもうやめようと思ったのだけれど、こういうことになるとそうもいっていられなくなる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
みんなそのうち死んでしまうのだ。
なのに、生き延びることばかり考えて生きていたら、死ねなくなってしまうではないか。
この社会の病は、死ぬわけにいかない生を生きることによって起きている。
生きているということは、必ず死んでしまう、ということでもある。
この生を自覚することは、死を自覚することでもある。
われわれにとって未来とは、死の別名でもある。だから生きてあることを自覚する人間という存在は、未来のことは考えるまいとする意識もどこかにはたらいている。そうして、恋人どうしが明日もまた会えるとわかっているのにそれでも別れがたくて抱き合っているように、ひたすら今ここを生きようとする。
死を自覚しているがゆえに、人間ほど「今ここ」を切実に生きようとする生き物もいない。
「今ここ」に豊かに反応してしまうから、感動もすれば怖がりもするのだ。そういう「今ここ」に対する豊かな心の動きが、人間を人間たらしめているのであり、文化や文明はそこから生まれてきた。
「今ここ」を生きようとするから、人間は言葉を生み出した。言葉は、「今ここ」の手触りとして発せられる。「今ここ」に深く豊かに心が動いてしまうから、思わず音声がこぼれ出るのだ。「今ここ」のあなたに深く豊かに心が動いてしまうから、言葉を交わし合うようになってきたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
かんたんに「生き延びる」などといってもらっては困る。
「今ここ」に鈍感なやつほど、そんなスローガンを振りかざすのだ。
死を知ってしまった人間は、「生き延びる」ことをスローガンにして生きているのではない。死を覚悟して生きているのだ。
だから、「今ここ」に、切実に豊かに反応してゆく。その心の動きこそ、人間であることの根拠なのだ。
生き物としての身体能力を大幅に喪失している直立二足歩行は、生き延びることを放棄する姿勢である。そうやって人は、「今ここ」に深く豊かにときめきながら生きている。
つまり人間は、自分のことよりもまず他者に意識が向いてしまう存在なのだ、ということ。自分のことが気になるのなら、二本の足で立っていられない。猿のように、そんな危ない姿勢はさっさとやめてしまうさ。
人間は、自分のことなんかほったらかしにして世界や他者にときめいてしまう存在である。そうやって二本の足で立っているのだ。
われわれだって、被災地の人々が今どんな思いで暮らしているのかと気にせずにはいられないではないか。
内田先生、あなたが人間であるなら、何はさておいてもまずその心情を吐露してみせなさいよ。
そういうことに思いを巡らすことをほったらかしにして、えらそうに「共同体が生き延びること」を第一義の問題にして語ろうなんて、人間に対して失礼ではないか。それじゃあまるで、被災した人々は厄介者だといっているのと同じじゃないか。そういう厄介者を抱えてこの国はどう生き延びてゆくか、てか?ご立派なことだ。
そして、そういう愚劣な言説に同調していい気になっている連中だって、どうかしている。おまえら、それでも人間かよ。
復興の問題なんか、行き当たりばったりで右往左往しながらやってゆくしかないのだ。おまえらの描くちんけな青写真が大正解だとでも思っているのか。
正解なんかないんだよ。
先のことなんかほったらかしにして、目の前の問題に体ごと取り組んでゆけばいいだけなんだよ。そのダイナミズムこそが必要なのであり、人間はそういう歴史を歩み、進化してきたのだ。
一極集中がどうのとほざいているアホなんかほったらかしにして、今ここをけんめいに頑張ってみるしかないんだよ。
政府は、無能でも何でもいいから、とにかくここは死に物狂いで頑張れ。被災地の人々はどんなに嘆き悲しんでも嘆き悲しみすぎるということはないし、政府は死に物狂いで頑張れ。菅直人が無能だとかなんだとかいっても、おまえらみたいな外野のギャラリーよりはずっと有能なんだよ。今ここに菅直人という総理大臣がいるということも、われわれ日本人の運命なのだ。今はもう、その運命に殉じるしかないではないか。死に物狂いで頑張れば、何とかなるさ。何とかならなくても、死に物狂いで頑張ったのなら許すさ。
東電の幹部連中の姑息な経営態度もひとまず問わないから、今は、見栄も体裁もかなぐり捨ててこの事態を終息させてみせてくれ。
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そうだよなあ、生きてあることに価値なんかない。
津波に流されていった人たちのことを思えば、そんな厚かましいことはいえない。
そして、生きてあることに価値がないからといって、自分で死ぬということも、なんだかみすぼらしい行為のように思えてくる。
人類の運命をまるごと背負って大津波に流されてゆく死に方に比べたら、自分で死ぬなんて、死それ自体になんの必然性も確かさもなく、恥ずかしくて死ねなくなってしまう。
たとえば、古事記オトタチバナヒメが嵐の海に飛び込んでいったような、そんな自死の方法というのは現代にもあるのだろうか。
人間は、危機を生きようとする生き物である。だから、みずから死を選ぶときもまた、危機の中に飛び込んでゆくようなかたちであらねばならない。
津波に流されて死んでいった人のことを思えば、もう自分で死ぬことはできなくなってしまう。その気持ちはなんとなくわかる……と僕のようなのうてんきな人間がいったら生意気だろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の気持ちなんか誰もわかってくれない。誰も他人の気持ちなんかわからない。
でも、人は、他人のその気持ちを信じることができる。他人のその気持ちに憑依して、追体験してゆくことはできる。そうやって、もらい泣きをする。そうやってわれわれは、被災地の人びとの嘆きの映像を前にしてもらい泣きしてしまっている。
あなたがもし「死にたい」というのなら、その気持ちはひとまず信じますよ。僕のようなのうてんきな人間はその気持ちの正味なんかまるでわからないけど、あなたの中にその気持ちが付きまとって離れないでいることはもう、疑うことなく信じていますよ。
人は、他者の気持ちがわかるのではなく、他者の気持ちを信じてしまう生き物なのだ。
この「信じる」という心の動きが、人間を人間たらしめている。
こんなことを言ったら人が気を悪くする(傷つく)、ということがわからない人がいる。それは、基本的に人を「信じる」ことができていないからだ。
他人を説得するというか、他人を丸めこむ能力は、現代社会を生きるための重要な才能のひとつになっているが、それは、基本的に人を信じていないからできることである。丸めこまれるものは、それによって自分の信じる世界を一つ失うのであり、そういう不幸に思いをいたすことがないから、丸めこむことに邁進することができる。
そういう不幸に思いをいたすものはつい言い淀んでしまうし、気にしないものは、かさにかかって丸めこみにかかる。前者は他者との距離(空間)を意識しているが、後者にはその距離感・空間感覚がない。前者は他者に対する怖れがあるが、後者にはない。後者には、他者の心に対する信憑がない。他者の心が傷つく、ということがわからない。
なぜ他者との距離感・空間感覚が薄いかといえば、対等の関係で人と向き合ったことがないからだろう。こちらが支配するか、されるか、優越感を抱くか、劣等感を抱くか、庇護するか、されるか、横柄であるか、卑屈か……そんな「距離(空間)」のない関係でばかりで生きてきたからだろう。
現代人の中には、「距離(空間)」を保った対等の関係をつくれない人たちがいる。
説得するのは、猿の関係である。猿は、説得して順位関係をつくってゆく。
説得するものたちは、相手の気持ちがわかるつもりでいる。相手が泣いていれば、悲しんでいることがわかる。しかし、自分も一緒になって悲しむことはできない。そのとき彼らは、喜々として慰めるものになる。しかしこれは、猿の関係である。そうやって慰めるものと慰められるものという順位関係をつくっている。
人間は、根源において、説得しないし、されもしない。たがいの距離(空間)を保ちながら、ひたすら相手を信じてゆく。つまり、相手の存在に憑依してゆく。そうやって「もらい泣き」が生まれてくる。これが、根源的な人間の関係である。
このへんは、ややこしい。離れているから「信じる」という関係が成り立つ。離れているから、信じなければ関係が成り立たない。
くっついていれば、信じる必要もない。先験的に決められている関係がある。その関係にしたがって、まどろめばいいし、いいように丸めこめばいいし、支配すればいい。猿のように。
二本の足で立ち上がって他者とのあいだに離れた「空間=すきま」をつくりあっている人と人の関係は、「発生する」のであって、先験的つくられているのではない。人間には、まどろむことのできるような先験的な関係はない。離ればなれで存在しているのだ。そうして、そのつど信じてときめき合いながら、「今ここ」において関係が発生し続けているだけである。
・・・・・・・・・・・・・・・
そりゃあねえ、この世の俗物どもにやいのやいのと責められながら説得(洗脳)されないで生きてゆくのはしんどいですよ。ときどき悲鳴を上げながら怒ってしまったりもしますよ。
怒りたいことは、きりがないほどありますよ。
僕みたいに愚かでだめな人間は、やいのやいのといつも責められていますからね。
なつかない僕が悪いのですかね。たぶん、そうでしょう。
たとえば、内田樹先生のいうことに納得なんかできないですよ。あんな「猿の関係」の論理を押しつけられたら、そりゃあむかつきますよ。
たとえば、今回の津波放射能の災害のことでいま一番考えなければならないことは「どうしたらこの災害を避けることができたか」ということなのだとか。
冗談じゃないよ、まったく。災害は起きてしまったんだよ。だったら、今考えるべきことは、その災害にどう対処すべきかということだろうが。
人間性の根拠は、危機を回避することにあるのではない。危機をどう生きるかにある。
そして被災者を全国に分散して疎開させればいいんだってさ。町の復興は国が決めて、住民はそれに従えばいいんだってさ。まったく、他人なんか、将棋の駒くらいにしか思っていない。そうして、いま、その疎開論が現実的な議論になってきていないことにブツブツ文句を言ってやがる。被災した人々がそれでも現地で身を寄せ合って生きていることに対する感慨やそのことの意味に対する思考など、この先生にはまったくないらしい。
先生、あなたの思考は薄っぺらで、レベルが低すぎるんですよ。
この先生は、人々が災害に遭ったことは承知しているらしいが、人々がどんなに恐怖し悲しんだかということや、いま故郷に対してどんな想いを抱いているのかということにはまるで関心がないらしい。前述したように、他人の心の動きを追体験してゆくことができないのだ。つまり、他者の存在に対する信憑とかときめきというものがまったくないのだ。この先生にとって他者は、支配する対象でしかなく、将棋の駒のように動かせばいいだけで、大事なことは「共同体が生き延びること」なんだってさ。
現在のこの社会をおかしくしてしまっているのは、まさしくこの「共同体が生き延びること」を第一義とする思想なのだ。そうやってあれこれの商品の偽装問題が起き、情け容赦のない派遣切りが起き、個人を置き去りにしてしまっているのではないか。
今回の東電幹部の姑息な経営態度だって、まさしくこの「共同体が生き延びること」を第一義とする思想の上にまかり通ってきたのではないのか。
僕は、先生のように自慢たらしく平然と「共同体が生き延びること」を第一義として語ることのできる人間が気味悪いし、怖いとも思う。そして、おまえの脳みそは猿並みだな、とも思う。たしかに猿は、そうやって群れの秩序と存続を第一義として生きている。
しかし人間は、猿ではない。猿であって、猿ではない。
何はともあれ、今となってはもう、人々の「今ここ」の心に寄り添いながら復興策を模索してゆくしかないではないか。おまえが勝手に決めるなよ。いい気になってそんなことを語って、何がうれしいのか。
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今回の東北大震災では、日本中がもらい泣きした。僕は、そのことの意味を考えたい。それは、人間はなぜ直立二足歩行をはじめたか、という問題なのだ。
この国を背負ったつもりのしゃらくさい議論なんか、僕の柄ではない。しかし、そうした議論をするにしても、人間とは何かという問題をもう一度深く問い直すという態度の多少は持っていてもいいのではないだろうか。
他者の心の動きを追体験できないやつがしゃらくさいことをいっても、ろくなことにはならない。
今のわれわれにとって第一義的に大切なことは、「共同体が生き延びること」ではなく、被災した人々がどのようにして立ち直ってゆくことができるかということであり、彼らの「今ここ」にどれだけ思いをいたすことができるか、ということではないだろうか。
被災地の感慨こそが優先されるべきだと、僕は思う。
津波に流されていった人のことを思えば、この生も共同体も、生き延びることなんかなんの価値でもないのだということ、さらには、人類の運命をまるごと背負って死んでいった彼らに比べれば、あなたが、みずから死を選ぶ行為にどうしようもなくみすぼらしいものを感じてしまうのだとしたら、それはなんとなくわからなくもない、と僕はいいたいのだ。
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原初の人類の歴史を粛々と書いてゆくつもりだったのだけれど、大震災以後、このところちょっと変則的な書きざまになってしまっている。
僕がもし、内田樹先生のような人気作家であったなら、きっと毎日被災地の人々に発信し続けるだろうと思う。内田先生が発信すればいろんな反応が返ってきて、書くことなんかいくらでも浮かんでくるだろう。何もかも投げ捨てて発信せずにいられなくなることだろう。
なのにあの先生ときたら、自分の見識とやらを二つ三つ披歴して、はい一丁上がり、という気分であるらしい。まったく、ご立派な人格でいらっしゃる。
ある人にいわせると、先生は最初フランスのインテリの意見を代弁しているつもりで原発廃止だのエコだのとぶち上げたのだが、サルコジの発言などからむしろ逆の状況になっているらしいということがわかって、今だんまりを決め込んでいるのだとか。
そうかもしれない。
ともあれ、この際、自分を見せびらかすことなんかどうでもいいじゃないか。
最近の団塊世代のブログをあちこちのぞいても、この期におよんでもまだ彼らは、自分を語る(見せびらかす)ことばかりしている。
あげくに、一部では、脳が計画停電中、だってさ。笑わせてくれる。こんなときに自分を語ることばかりしているはしたなさに気づいて、ちょっとは戸惑っているのかね。
団塊世代なんて、そんなやつらばかりだ。
彼らは、自分を捨てて相手の気持ちに寄り添ってゆくということができない。だから、内田先生みたいにあっさり脳が停電してしまう。
やつら以外の日本中の人々は、テレビや新聞の報道に接して、毎日何度も泣けてきてしまっているのが現在だろう。
僕だって、泣かされてしまっているさ。だけど、人気者でもないのに、ねえ君たち、と呼びかけるのもむなしいしぶざまだと思うから、こんなあいまいな書きざまになっているだけのこと。
みんな、被災地の人々と対話をしたいと思っているのだろう。援助というかボランティアをするのは、対話をさせていただくために支払う対価にすぎない。われわれは今、彼らから、人間とは何かとか生きるとは何かということの多くを学んでいるし、もっと直截に深く学びたいとも思うのだろう。
内田先生、あなたも「考える」ことを商売にしている人間なら、われわれは彼らから何を学ぶことができるのだろうか、と問いなさいよ。自分を見せびらかしてばかりいる場合じゃないんだよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
僕は、だめな人間である。
だめな人間であることを許してもらえないのなら、僕は生きてゆくことができない。
僕は、世界中が怖い。生きてあることそれ自体が怖い。
どうやら人間は、怖がる生き物であるらしい、と思う。
すくなくとも原初の歴史においては、人類は、子犬のよう震えながら身を潜めて生きていただけである。
われわれがもしも、文化や文明というものを持たず、体の大きさもチンパンジーと同じであるなら、チンパンジーよりも強い猿であることなんかできない。
そのとき原初の人類は、ほんらいの身体能力を失いながら二本の足で立っていった。
逃げる能力も戦う能力も喪失したのだ。そういう能力を喪失しながらこの世界や他者にときめいてゆくことが、二本の足で立ち上がるということだった。
そのとき人類は、チンパンジーより知能がすぐれていたわけでも、チンパンジーよりも体が大きかったわけでも、チンパンジーよりも身体能力があったわけでもない。それで、二本の足で立ち上がることによって大幅に身体能力を喪失すれば、チンパンジーよりも強いはずがない。
さらには、チンパンジーよりも根性無しの猿になってしまった。
たとえばチンパンジーの群れどうしは、たがいのテリトリーが重なる部分(オーバーラップゾーン)を持ち、緊張感のある対立関係をつくりながら共存している。個体どうしでも、対立し順位関係を保っている。
チンパンジーには対等という関係はない。
しかし直立二足歩行する人間は、怖がる根性無しの猿であるから、たがいのテリトリーや身体のあいだに「空間=すきま」をつくって、対立のない関係をつくろうとする。チンパンジーはオーバーラップゾーンで戦争をするが、人間は、現代でもしばしばそこを「休戦地帯」という「空間=すきま」にして対立を回避しようとする。それが、人間の太古以来の習性なのだ。
またわれわれは、村と村のあいだの「空間=すきま」を「市」にして「交換」という文化を生み出してきた。そうして個人と個人のあいだにおいても、トランプやベーゴマやおはじきといったように、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を祝福しながら対等な関係になってゆくという「遊び」を生み出してきた。
人間は怖がる生き物だから、そうした「空間=すきま」を止揚しながら、文化や文明を生み出してきたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
人類は、二本の足で立ったことによって、生物としての何かアドバンテージを獲得したのではない。したがって、アドバンテージとは何だったのかというパラダイムで語られる直立二足歩行の起源仮説は、ぜんぶアウトなのだ。
人間は、二本の足で立ち上がることによって怖がる弱い猿になっただけである。
手を使えるようになったとか長く歩けるようになったとか、そんなことはたんなる「結果」であって、そんな「目的」があったのではない。
立ち上がるほかない状況にせかされて立ち上がってしまっただけなのだ。
それがとても怖がる弱い猿になってしまうことだったのに、それでも立ち上がってしまった。なぜそれでも立ち上がったかといえば、それによってたがいに体をぶつけ合う鬱陶しさから解放されたからだ。そういう解放感こそ直立二足歩行によってもたらされたものであり、それはもう、怖がる弱い猿になることを支払ってでもありがたくめでたいことだった。
また、そのとき人類は、生き物としての本能を失ったのではない。その「空間=すきま」を保つことこそ、生き物の本能だったからであり、そういうかたちでしかそれを保つことができなかった。
地球上の生物多様性は、それぞれの種が最低限のエネルギーで生きようとする本能というか生態を持っているから成り立っていることであり、そのとき原初の人類も、生きられる最低限の能力で生きようとしたのだ。
これを「共存共貧」というらしい。原初の人類の直立二足歩行こそ、まさに「共存共貧」の現象だった。
よく、人間は本能が壊れた生き物である、などといわれるが、あんな言説は大嘘で、人間ほど本能的な生き物もいないのである。
本能が壊れたから二本の足で立ち上がったのではない。立ち上がったから壊れるということはあっても、立ち上がる前に壊れるということは論理的にありえない。
猿が、立ち上がる前に、立ち上がることを常態化しようとする衝動を持つことは、絶対にあり得ない。なぜならそれは、みずからの身体能力を喪失することだからだ。
直立二足歩行の起源は、目的論では語れない。
ともあれ人間は、生き物としての本能にしたがって立ち上がったのであり、それなりに生き物としての必然性があったのだ。
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怖がる弱い猿として700万年前に登場した人類は、最初の3,400万年は、知能も体の大きさもチンパンジーと同じだった。
つまり、チンパンジーよりも弱い猿として歴史を歩みはじめ、3,400万かけてやっとチンパンジーに追いついた。したがってそれは、厳密にいえば進化しなかったわけではない。3,400万年たってからいきなり進化をはじめた、というのではいかにも不自然で、つじつまが合わない。知能や体の大きさは進化しなかったが、その生態やメンタリティは、それなりに進化してきたのであり、だから、ひとまずチンパンジーのレベルに追いつくことができた。
そのとき人間が進化させていったのは、群れで行動する連携の能力である。それによって、個体としての非力さを補い、やがてはチンパンジーを追い越してゆくことになった。
人間は、あくまで弱い猿として生きた。人間は、弱い猿として危機を生きようとする。危機の中でこそ、より豊かな連携が生まれる。とすれば、最初の3,400万年の歴史において知能も体の大きさも進化しなかったのは、ある意味で必然的な成り行きだといえる。
700万年前に直立二足歩行をはじめた人間という猿は、知能や身体能力において、すぐに進化の階段をのぼりはじめたのではない。世の研究者のように、二本の足で立ち上がることのメリットがどうのアドバンテージがどうのといっているかぎり、この空白の3,400万年の説明はつかない。
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人間は、手をつなぐということをする。猿はしない。
二本の足で立って手が自由になったからだ、という説明ではおそらくまだ不十分だ。二本の足で立っていることの不安定さや居心地の悪さが、手をつないでゆく契機になっているのだろう。子供はもちろんだが、恋する男女も、不安の中で生きているから手をつなごうとする。危ない場所を歩くときは、大人どうしでも手を取り合う。
西洋では、握手のあいさつをはじめとして、手を取り合う文化が発達している。それは、彼らが、人類史上もっとも過酷な環境で手を取り合いながら生きてきたネアンデルタールの子孫だからだろう。その文化は、おそらく10万年前のそこからはじまっている。
西洋人は、ネアンデルタールの子孫だから、過酷な環境を生きるのが好きである。だから、手を取り合う文化が発達した。
そしてそれは、直立二足歩行する人間の根源的な衝動でもある。
怖がりの弱い猿である人間は、手を取り合い連携しながら、3,400万年かけてチンパンジーに追いついていった。
弱い生き物として生きるのが人間の根源的な習性であり、そうやって人間は、連携しながら危機それ自体を生きようとする。
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人間は、危機においてこそ、より深く豊かに連携してゆく。人間は、弱い猿になって危機を生きようとする。これが、人間の本性だ。そこにおいてこそ、生きることの醍醐味がより深く豊かに体験されている。
だから、今回の大震災を被災した多くの人々は、逃げだすことなく、その地にとどまって生きようとしている。それは、人間としての当然の成り行きである。
彼らは、またいつか大津波に見舞われることだろう。それはもう、彼ら自身も覚悟している。それでもその地にとどまろうとしているのは、人間が危機を生きようとする生き物だからだ。そこでこそより深く豊かな連連携が生まれ、より深く豊かな生きることの醍醐味が体験されるからだ。
被災地から遠く離れた部外者が、自分たちの安全で快適な暮らしに満足しているとしても、それがそのまま被災地の人々のだいいちに望むものとはかぎらない。なぜなら彼らは、もっと深く豊かな生きることの醍醐味を知ってしまったからだ。
人間は、危機を生きようとする。
原発の事故現場で働いている人は今、日本列島を背負って危機を生きている。逃げ出してもいいのに、彼らは逃げ出さない。人間は、危機を生きようとする生き物であり、そこにおいてこそより深く豊かな連携が生まれ、より深く豊かなこの生の醍醐味が体験されているからだ。
彼らは、この世に原発が存在していることをひとまず容認している。容認して頑張っているのであり、容認しなければ頑張れない。
こんなときに、「原発廃止」を叫ぶなんて、彼らに対して失礼である。彼らが逃げ出さないで頑張っているかぎり、われわれもひとまずそれを容認して事故が無事に収拾されるのをおとなしく待つしかない。
それが、現場で頑張っている人に対する礼儀だろう。
外国に逃げだして、収拾されようとされるまいとどうでもいい、という態度をとることが正義なのか。まったく、横着な態度である。
彼らが頑張っているかぎり、無事に収拾されることの期待と祈りとともに見守るしかないではないか。
われわれがそういう態度を示さないことには、彼らだって頑張り甲斐がないぞ。
福島や日本列島がどうなろうと知ったこっちゃない、という態度は、僕にはとれない。
彼らのおかげで、われわれも、ささやかながら危機を生きることの醍醐味を体験させていただいている。
ともあれ、逃げ出すよりも逃げ出さない方が人間の本性なのだ。危機を生きようとするから人間は、どんな住みにくい土地にも住みついて、世界の隅々まで拡散していったのだ。
逃げ出さないから、人類は拡散していったのであり、逃げ出す生き物なら、今頃住みやすい温暖な地域にひしめき合っているだけである。
逃げ出さない生き物だから、ロンドンやミュンヘンやモスクワなどの寒い北の地に大都市が生まれてきたのだ。それらの地は、氷河期においては人間の能力の限界を超えた極寒の地であったが、すでに地球上でもっとも人口密度が高く文化が進んだ地域だった。
人間は、そんなふうに危機を生きてしまう生き物なのだ。人間的な連携も生きてあることの醍醐味も、そこにこそある。そこにこそ、直立二足歩行する人間の普遍的根源的な根拠がある。
現在、世界中の科学者は、原発廃止か存続か、という議論などしていない。いかにしてこの危機を終息させるか、と語り合っているだけだろう。そのような世界中の科学者や技術者が集まって連携しながらみごとに終息させてくれることを、僕は期待し祈っている。
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