アメリカの大統領選挙のこと

 アメリカの大統領選のことをちょっと書いてみます。

この国のネット社会では、バイデン陣営が不正選挙をしているという話がものすごく盛り上がっているようです。

おかしな現象です。

アメリカではトランプ陣営が騒いでいるだけで、ほとんどのマスコミは無視しています。

そりゃあ日本でもアメリカでも小さな不正はいくらでもあるでしょうが、彼らがいうような大掛かりな不正など、そうかんたんにはできないでしょう。

もし不正ができるとしたら、トランプ陣営だってしているだろうし、政権側のトランプ陣営の方がもっとやりやすいはずです。

また、バイデンの方が下馬評が高かったのだから、トランプ陣営はもう、不正選挙をしてでもそれを覆したくなるでしょう。

あたりまえに選挙をすれば、バイデンが勝つ情勢だったのです。

バイデンの下馬評が低かったのなら、「もしかしたら」という憶測も生まれてくるけど、わざわざする必要もなかったでしょう。

痩せても枯れてもアメリカは、民主主義の先進国じゃないですか。それほど大掛かりな不正はできないシステムをつくっていますよ。

トランプが不正だ不正だと大騒ぎして一部の支持者がそうだそうだと騒いでも、多くのアメリカ人は冷めているでしょう。

 

ほんとうに大掛かりで信憑性の高い不正の証拠があってトランプ優勢の状況が覆ったのなら、もっと多くのトランプ支持者が騒いでいますよ。

 

最初にトランプ票が多かったのは、ほとんどのトランプ支持者はすぐに開票される期日前投票や当日投票の人たちばかりで、後から開票される郵便投票をしたのはバイデン支持の人がほとんどだったからでしょう。

郵便投票は、有権者の半分近くの1億枚以上あったといわれています。

だってバイデン支持の人たちからしたら、期日前だろうと当日だろうとマスクをしない主義のトランプ支持者がぞろぞろやってくる投票所には行きたくないし、行って妨害されたり脅迫されたりする恐れだってあります。だから、郵便投票にしたのでしょう。

 

というわけで、最初のころの開票でトランプ票の方が多かったのは当然のことだし、開票が進むにつれてバイデンの票が増えてきたのも不思議なことでもなんでもないはずです。

バイデンの票が増えてきて慌てて不正だ不正だと騒ぐのはとんだ茶番だし、そんなフェイクニュースにからめとられるこの国のネット社会も、いったい何なのでしょうね。

 

ほんとうにトランプ支持者の方が多かったのなら、開票を見守るために開票所の前に集まってくる人たちも、トランプ支持者の方が多くなければつじつまが合いません。

でも実際に「もうこれ以上開票するな」といって集まってくるトランプ支持者は、どこでもごく少数でした。

現在のアメリカでは、バイデンを支持するにせよしないにせよ、多くの人が反トランプになっているようです。

そりゃあ、そうでしょう。トランプは嘘ばかりついているし、差別主義者だし、コロナ対策もめちゃくちゃです。まあだからこそトランプを支持するという人も一定数いるのでしょうが、それが多数派になるとしたら、アメリカの民主主義も地に堕ちたものだということになってしまいます。

 

多くの黒人が白人警官から次々に虫けらのように殺されていれば、そりゃあブラック・ライブズ・マターのムーブメントだって起きてくるし、それを応援する白人の若者たちもどんどん増えてきています。

前回の大統領選ではトランプに入れた黒人だって、今回は反トランプに回るでしょう。

今のアメリカの差別やフェイクニュースはトランプによって扇動されている、と多くのアメリカ人が気づいています。

前回から反トランプだった人たちからすれば、4年間待ちに待ってようやくこの日を迎えたわけです。そうしてみごとにトランプを引きずり下ろすことができたのだから、大騒ぎして街に繰り出したくもなるでしょう。

 

現在のアメリカでは、あちこちの街の街頭で歌や踊りのお祭り騒ぎが起きています。それはまるで、この国の中世の「念仏踊り」や幕末の「ええじゃないか騒動」のようです。

それを見ただけでも、現在のこの国に比べたらアメリカの方がずっと民主主義が機能していることがわかります。

 

民衆が立ち上がらなければ、時代なんか変わらないでしょう。

権力社会に飼い慣らされて権力社会の真似ばかりしている今どきの右翼なんか、最低です。それこそ、ファック・ユーです。

今どきは、時代に流され権力に飼い慣らされていると、かんたんにネトウヨと呼ばれる人種になってしまうようです。

時代に流され権力に飼い慣らされているから、かんたんにフェイクニュースを信じてしまうのでしょう。

ネット社会の多くのインフルエンサーが、さももっともらしく不正選挙がどうのこうのと語っていて、アホじゃないかと思ってしまいます。

それがただの陰謀論フェイクニュースであることくらいは、人間や人間の社会がどのように成り立っているかということを考えれば、かんたんにわかるでしょう。人間なのだもの、これだけ長く選挙システムの歴史を歩んでくれば、世界中どこでもそれなりに工夫をしているでしょう。

現在のアメリカのあちこちの開票所で開票作業に携わってきた多くの人たちの気が遠くなるような地道な作業は全部無駄なものにすぎない、と彼らはいうのでしょうか。

 

「公正=ジャスティス」こそ平和なのだ、というのがアメリカ民主主義の根本思想なのですよ。アメリカなんかべつに好きでもないけど、日本よりも民主主義が遅れているということはないでしょう。

一国の総理大臣風情が国を代表する学術会議の人事を捻じ曲げてしまうという下品極まりないことをしてなんの後ろめたさもないなんて、アメリカ人もヨーロッパ人もきっとあきれていることでしょう。

 

とにかく国家権力なんて、無視するか抵抗して戦うかのどちらかであるのが、人類普遍の民衆社会の伝統なのですよ。

国家権力にすり寄って正義ぶるなんて、下品そのものですよ。

まあ多くのオールド左翼にしろ、妙な思い込みを振り回して正義ぶるということそれ自体が、凡庸で下品なのですよ。彼らを見ていると、知識や京というのはいったい何なのだろうと思ってしまいます。なぜもっと素朴にニュートラルに考えられないかと。

 

素朴に考えて、野党の民主党にそんなにも大規模な不正選挙などできるはずがないし、現在のアメリカのとくに都市部の住民の多くはすっかりトランプに幻滅してしまっているのはきっと確かなことでしょう。

何よりも、今のアメリカはトランプのせいでこんなにもコロナが広がってしまっているのだから。

しかも、差別や分断がこんなにも加速してしまった。

 

人々は、不景気にはある程度我慢することはできても、人と人の関係が壊れてしまうことには耐えられないのであり、それが普遍的な人間性の基礎というものでしょう。

現在のアメリカの多くの若者たちが反トランプに立ち上がっているのはとても素敵なことだと思います。

 

物事の正しいかどうかということなど、たいした問題ではないでしょう。

トランプにしろ安倍晋三にしろ菅義偉にしろ、どうしようもなく下品じゃないですか。

下品なものには耐えられない、それが当たり前の人情というものでしょう。

とくにこの国の都会で暮らしているインテリ層がトランプを支持できるなんて、僕にはまったく理解できません。

 

アメリカであれ日本であれ、田舎に暮らしている人たちが都会のおしゃれな暮らしをしている人種や知識や教養のある人種に反感を抱くのは仕方ないとしても、都会暮らしのインテリのくせに善悪や損得という物差しでしかものを考えられない人種なんて、腐り果てていると思います。

 

この国の天皇天皇たらしめている第一義的なことは、品格です。

品格こそが、この国における物事の是非を判断するときの伝統的なものさしなのです。

とくに都会のインテリが、「自分や家族の幸せのため」などというさもしい損得勘定の言い訳をするべきではないのであり、品格こそが第一義なのです。それこそが、この国の守るべき伝統なのです。

 

あんな下品な人が総理大臣をしているなんて、世界に対して恥ずかしいじゃないですか。現在のアメリカ人だって同じで、トランプのような下品な男が大統領をしていることに耐えられなくて声を上げているのだろうと思います。

そうやってたくさんの市民が街頭にあふれ出てきた。彼らは「トランプに恋することなんかできない」といっているのでしょう。今回のことは、そういう民衆の素朴な気持ちの勝利なのでしょう。

 

欧米人は政治意識が高いといっても、政治のことの屁理屈が民衆運動を組織するのではなく、じっさいに民衆を動かしているのはそういう人としての普遍的で素朴な感情ではないでしょうか。

彼らがアメリカを愛しているのなら、アメリカが気高い品性をそなえた美しい国であってほしいでしょう。それが人としての自然であり、景気が良くなって自分たちの生活がよくなるとかならないとか、そんな俗っぽい問題は二の次のことであるはずです。

 

人は根源において、不幸、すなわち経済的な欠損としての貧乏にも、身体的な欠損としての病気や障害にも耐えられる存在です。

だからどんなに愚かで貧しい民衆あろうと、第一義的にはいわゆる真善美の品格にあこがれて生きています。真善美などというと陳腐だけど、まあそういうことです。

人を根源において生きさせているのは、欲望ではなく、「あこがれ」なのだ、と僕は考えています。だから人類の知能は進化してきたのでしょう。衣食住のことなんかそっちのけで進化してきたのですよ。

 

総理大臣や大統領が「あこがれ」の対象にならないなんて不幸なことでしょう。

だからこの国の歴史は、普遍的な「あこがれ」の対象として天皇を祀り上げてきたわけです。

天皇がいないアメリカであるなら、大統領が「あこがれ」の対象であってほしいという願いは、われわれ日本人よりもずっと切実でしょう。

人は恋する生きものです。まあそれだけのことなのだけれど、それだけのことが、じつは衣食住のことよりももっと大切なのです。そうやって人類は進化してきたのです。

 

権力社会の価値観と民衆社会の価値観は同じではないでしょう。権力社会の権力闘争は当然現世的な利益を争ってなされるが、民衆が権力者を選ぶときは、美しさや清らかさや崇高さというような異次元的なものに対する「あこがれ」によって決定されたりします。

だから、源義経天草四郎のような敗者が歴史に名を残したりします。

歴史はつねに権力闘争の勝者によって書き換えられてゆくが、それでも別のかたちで民衆社会に語り継がれてゆく「あこがれ」の対象があります。

 

民衆運動をもっともダイナミックに組織させるのは、最終的には現世利益としての衣食住のことではなく、美しさや清らかさや崇高さという異次元的な世界に対する「遠いあこがれ」なのです。

今回のアメリカ大統領選挙における「反トランプ」ムーブメントにも、そういう民衆社会の「遠いあこがれ」がはたらいていたのだろうな、と僕は感じています。

たとえジョー・バイデンにその要素が希薄だとしても、アメリカという国家の品格を取り戻したいという願いはあったはずです。

とくに若者たちにとっては、アメリカがかっこいい国であってほしいでしょう。それだけのことだが、それだけのことこそがもっとも大事なのだと僕は思います。それは、国家の品格の問題なのです。

つまり今回のことは、素朴な民衆の無意識が、フェイクニュースや差別の温床であるトランプ政権を倒した、といえるのではないでしょうか。

バイデンになればアメリカはどうなるかとか、トランプが続けていればどうだとか、民衆はべつに先のことを考えて投票をしたのではないのです。

ただもう、みんなで仲良くやっていける国にしたかったのでしょう。

アメリカはみんなが平等の国なんだ、と無邪気な若者たちは言いたかったのだろうし、気取った連中や強欲な連中はそんなふうにさせてなるものかと思った。そうやって投票が伯仲したのでしょう。

 

なんのかのといっても、黒人と白人がだんだん仲良くなってゆき、どんどん血が混じり合ってゆくのはもう、避けがたい歴史の必然でしょう。

大人たちの世界やハイソな世界や田舎の世界ではなおも黒人と白人を分けようとしているのだろうが、若者たちの世界ではどんどんその垣根が壊れていっていることでしょう。そういうことが証明された選挙だったのではないでしょうか。

歴史の歯車をもとに戻そうとする依怙地な人たちの勢力はまだまだ強いけど、彼らだって追い詰められているのでしょう。

この国も70歳80歳の老人が政権の中枢にいて、彼らに飼い慣らされた者たちばかりがのさばっているようです。

でもアメリカだろうとこの国だろうと、彼らの歴史的な役割はすでに終わっているはずです。だからこそなおさらむきになって強圧的になるのでしょう。

 

たとえばすでにアメリカに定住している移民は、後からやってくる移民に対して、自分たちがようやく手に入れた権利を侵すものとして排除しようとする。それと同じように、下層の白人は黒人を差別しようとするわけで、そういうものたちがトランプを支持しているのでしょう。

白人優位の社会で最下層に置かれていることの屈辱感は並大抵ではないでしょう。

この国だって、下層の男たちは、ネトウヨになって女や在日朝鮮人を差別しようとしています。そうやって社会の上層ですでに既得権益を得ている者たちと一緒になってマジョリティを形成しているのだろうし、それはアメリカ社会でも同じ構造なのでしょう。

 

しかしそんな社会構造も、大阪都構想アメリカ大統領の選挙によって、差別やフェイクニュースによって世の中が動かされるという時代も少しづつ後退しつつあることが証明されたと思います。

新しい時代がどうのという以前に、普通に人間性の自然に照らし合わせて考えれば、人の世が差別やフェイクニュースだけでどこまでも突き進んでいけるはずもないでしょう。

 

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ユーチューバーデビューの計画は、あきらめてはいませんが、依然として1ミリずつしか進んでいません。あきらめてはいませんが、徹底的な機械オンチの上にまわりから反対されていることもあるし、われながらとても恥ずかしいことをしようとしているという思いもあって、あきらめていないけどほんとに実現できるのだろうかという不安でもたついてばかりいます。

でももう、今月中には何とかケリをつけて踏み出さねばと思っています。ほかの人ができることをどうして自分にはできないのかと、情けなくなります。

 

とにかく話したいことはたくさんあるし、いつか話すことに慣れてくれば、毎日二、三本ずつ発信できるのではないか、などと夢見見たりしているのですが、今はまだ20分の話に3、4時間かけて原稿を書いて準備しなければならない、というレベルです。

日本学術会議騒動についてのもうひとつの感想

ネトウヨは、すぐ金の話を持ち出す。

日本学術会議はわれわれの血税10億円を不正に使っているとかなんとか。

でも、起源としての税は、見返りなんか求めない純粋な「捧げもの」であったのです。その始まりは死者を埋葬するときの副葬品だったわけで、そこから発展して祭りのときの神への捧げものになり、さらにそれを横取りするようにして権力者による税を徴収するという制度が生まれてきたのです。

税は見返りのない「捧げもの」であるという歴史の無意識は、今でもだれの心の中にも息づいているのではないでしょうか。

だからほんものの保守主義者伝統主義者であるのなら、税金がどうのこうのというようなみみっちいことをいうなという話です。

人類社会に、税は「捧げもの」であるという無意識がはたらいていなければ、大金持ちがたくさんの税金を払うという慣習は成り立たないでしょう。

今回の日本学術会議の問題は、税金がどうのとか科学者たちの思想や活動がどうのとかというような問題ではないはずです。

学者たちの思想や活動なんて千差万別だし、それでいいのでしょう。

問題は、政府は学者たちの思想や活動に介入しない、という現行の法慣習を守るか守らないか、ということにあるはずです。

半端な脳みそのインテリや庶民が学者たちに対するコンプレックスやルサンチマンをぶつけているなんて、醜悪そのものです。何が正義かなんてどうでもいい。半端な脳みそで正義を振り回していい気になっているなんて、どうしようもなく醜悪でグロテスクです。

 

まあいちばんグロテスクなのは、今回のようなことを発想した菅内閣のメンバーである政治家や官僚たちでしょう。

そしてその醜悪なファシズムにプロテストできるかどうかと、われわれ民衆がいま試されています。

しかし庶民は知らんぷりしていてもいいのです。権力社会に対して知らんぷりするのは、この国の民衆社会の伝統です。

でも、世の中には政治に対して関心を寄せている人たちはいつの時代も一定数います。今回のことはそういう人たちどうしのバトルであり、菅内閣のしたことに批判的な考えの人々は擁護しているグループに勝つことができるか、という問題でしょう。

おそらく民衆は、有利な方につきます。ひたむきで熱っぽい方につきます。

 

菅内閣やそれを擁護している者たちはもう徹底的に無知で醜悪で倒錯的なのだけれど、それでも彼らは彼らなりの屁理屈で正義を主張しているわけで、どちらが正義かと争っても声高で熱烈な方が勝つに決まっています。

正しさを主張し証明することも大切だけど、それ以上に大切なのは、「戦う」という心意気というかひたむきさです。それが民衆の心を動かすのではないでしょうか。

当の学者たちが象牙の塔にこもって、もごもごと正論をつぶやいているだけでは、勝ち目はないでしょう。

そこで、おまえらみんな死ぬ気で戦え、といったらいけないのでしょうか。それくらいでないと勝てるはずがないし、そうやって戦うことの恍惚というのはあるでしょう。

世界や人類にわが身を捧げて死ねるなら、本望でしょう。

長生きしたあげくに、死ぬことにおびえまくりながら病院のベッドで寝たきりになってゆくことよりましかもしれません。

いや、どちらがいいかということなどわからないけど、「もう死んでもいい」という勢いで何かをしようとする気になれるのは、人間の本性であろうと思えます。戦う、というのは、そういう心意気を持つことだし、持つことができるのが人間なのでしょう。

学問であれ芸術であれスポーツであれ仕事であれ遊びであれ、人間の思考や行動は、限界を超えてゆこうとします。それが「もう死んでもいい」という勢いです。

「もう死んでもいい」という勢いを持っていない学者なんか学者じゃない、ともいえます。

本気で死ぬ気で戦う学者はいないのでしょうか。

まあ、それくらいの覚悟を見せないと、相手はひるまないでしょう。

相手は、したたかで傲慢で狡猾です。そんな人間ばかりがのさばる世の中であっていいはずがありません。

学者たちには、これが人間だ、というところを見せてもらいたいものです。

この世の中にほんとに尊敬できる学者がどれだけいるのか知らないけれど、学問というのはもっとも人間的な営為のひとつだと僕は思っています。

あの総理大臣ごときに学問の何がわかるかと思うけど、わからないからあんな恥知らずなことができるのでしょうね。

この世の中は、権力持ったらいけない人間が権力を持ってしまうようにできているのでしょうか。権力を持ったらいけない人間とは、権力を欲しがる人間のことです。

政治の世界が正しい知識や教養で動かせるなんて、インテリの幻想です。それは、あくなき権力欲と執念深さで動いている世界なのでしょう。

あの総理大臣は、権力闘争のひとつとして日本学術会議への人事介入をしているのであって、学問とは何かということなどどうでもいいのですよね。そこが彼の恐ろしいところだし、学問とは何かという問題だから一般の庶民が関心を持たないのはしょうがないことです。

だからこの問題を大きくするためには、学者自身や政治に関心がある者たちが戦わないといけない。

政治に関心がないわれわれ庶民だって、命を懸けて戦う人がいれば応援しようという気になります。

 

戦う人は美しい。この国の民衆社会にだって、権力社会に対するプロテストの伝統はあります。

古代の仏教伝来に際し、権力社会が押し付けてくる仏教に対するカウンターカルチャーとして民衆は神道を生み出しました。この国の民衆社会のプロテストの伝統は、そこからはじまっているのです。

平将門の乱とか島原の乱とか大塩平八郎の乱とか、それらはけっきょく民衆の蜂起の上に起きてきたことだろうし、中世における一遍の念仏踊りや幕末のええじゃないか騒動や大正の米騒動だって、つまりは民衆によるプロテスト運動だったはずです。

政治のことなんか知ったこっちゃないからこそ、プロテストの運動も起きる。戦うことの恍惚や美しさは、民衆のほうがよく知っています。というか、民衆は権力を奪おうとする「闘争」なんかしないが、権力に対する「抵抗」はする、ということでしょうか。

権力闘争が他者から何かを「奪う」戦いだとすれば、民衆によるプロテストは、他者に自分の命を「捧げる」戦いです。

この世界の生贄になろうとする心意気がなければ、民衆のプロテスト運動なんか成り立ちません。現在のアメリカのブラック・ライブズ・マター運動には、まさしくそうした動きを感じさせるものがあります。彼らは、自分のためというより、殺された黒人のために戦っているのです。しかも多くの若者たちが立ち上がっている。これは、たくさんの年寄りが偉そうにのさばっているこの国の現状とは大きな違いかもしれません。

とはいえ、自分のためではなく他者との連帯のために立ち上がるというのは、世界共通の民衆社会の伝統かもしれません。

 

で、現在のこの国はといえば民衆社会の伝統が危うくなっている状況で、それを取り戻すことができるのはきっと女子供や若者たちなのだろうと思います。

右翼であれ左翼であれ、女子供や若者にマウントを取ろうとする今どきのオヤジやジジイたちはみんなだめです。どうしようもない老害です。

マウントを取りたがるなんて、猿のすることです。猿の社会は、そういう順位制のヒエラルキーの上に成り立っています。

それに対して人間は、他者に献身し、「もう死んでもいい」という勢いでこの世界の生贄になろうとする生きものです。人間が二本の足で立ち上がっているのは、そういう姿勢なのです。そうやって原初の人類は、猿であることから決別したのです。

それはきわめて不安定で危険な姿勢であり、猿よりも弱い猿になってしまうことだったのです。つまりそのとき、だれもがわが身を捨てて他者に献身してゆかなければ集団が成り立たなかったのです。

 

というわけで学者たちは、自分たちがこの世界の生贄として学問をしているということをちゃんと認識していただきたい。学問を志すからには、あなたたちはただのサラリーマンやマイホームパパであってはいけないのですよ。さらには、本格的な学問というのは、「善良な市民」のすることでもないのです。「朝(あした)に道を問わば夕べに死すとも可なり」です。あなたたちには、死ぬ気で戦っていただきたい。それは、孔子の教えでもあるのです。

死ぬ気で戦わないと、あの狡猾で傲慢で醜悪極まりないジジイやオヤジたちに勝てるはずがないじゃないですか。

でも今回の件は、内閣支持率が大幅にダウンしたりして、最初の予想以上に政権に対するダメージはあるのかもしれません。

やっぱり、菅野完氏がハンストをはじめたことは大きかったと思います。それによって広く認知され、批判的な人の声以上に政権を擁護する人たちの多くが慌ててフェイクニュースをたれ流したりして、かえって騒ぎを大きくしてしまったということもあるのでしょう。

政権を批判するものは、命を懸けて立ち上がる。政権にすり寄る者たちは、政権の庇護のもとでぬくぬくと商売をしている。橋下徹だろうと百田尚樹だろうと、そういういささかの後ろめたさがあるのかもしれない。彼らは声高に命を懸けて戦うポーズだけはするが、性根はただのこずるい日和見主義者にすぎない。民衆はいつだって命を懸けて戦う者の味方だ、ということを彼らだって知っているのでしょう。知っているけど、本性の部分においてはそんな度胸はさらさらない。だから菅野完のそういう命がけの行動を前にしてあわてふためき、大騒ぎして攻撃したり知らんぷりを決め込んだりしている。

まあ、今やあのバカ騒ぎする右翼たちも、わけしり顔で人格者ぶったりしている左翼的な知識人たちも、菅野完というひとりの作家によって「お前らみんなただの日和見主義者じゃないか」と告発されているのでしょう。

 

菅内閣にすれば、警察やマスコミをコントロールしておけば法律を無視した強権的なことをしてもそれほど支持率は下がらない、という楽観的な予測があったのかもしれません。

民衆は支配し搾り取るための対象であって、助ける必要はない……これが大和朝廷発生以来の、この国の権力社会の本能であり伝統です。

だから民衆は、国家権力に対する関心がない。民衆の関心は天皇にあるのであって、国家権力ではない。それが民衆社会の伝統であり、ほんらいの神道のコンセプトです。

神道の神はだれも助けないし、だれも罰しない。そうやって日本列島の神は、この世の向こう側の世界に「隠れている」対象なのです。

神道の神の「他界性」、その「他界」に対する「遠いあこがれ」こそが、日本列島の民衆社会における精神風土の伝統なのです。

だから民衆が、あくまで現世的な存在であるお上のことに無関心であるのを責めることはできない。

であればこの問題は、世の学者たちが体を張って決着をつけないといけないのでしょう。菅野完だって、おそらくそういうことを訴えているのであって、自分の行動によって内閣を改心させることができるなんて、つゆほども思っていないはずです。

せめてものプロテスト

内閣による日本学術会議への人事介入に抗議して、菅野完という作家が官邸前でハンストをしています。

菅内閣のこの暴挙は、平たくいえば学問の自由に対する冒涜ということになるのでしょうが、欧米のメディアなどもそろって、人類の英知に対する挑戦だというような論調で批判しているそうです。

まあ世界中に恥をさらしている、ということでしょうか。

たしかに、醜悪そのものですよ。おまえらみたいな無知な政治家ごときが何を思い上がったことをしてやがる、という話です。

とはいえ国内では、一部の右翼の連中が、「もともと日本学術会議なんてろくでもない組織なのだからこれでいいのだ」と合唱して擁護しています。

日本学術会議に対する評価はともかく、権力者によるこうした弾圧というか強権発動を見せられると、背筋がぞっとするような恐ろしさと気味悪さを覚えます。

そしてそのことをいち早く察知してハンストというプロテストの行為に及んだ菅野完という人は立派だと思います。

 

プロテストができないなんて、情けないことだと思います。

アメリカではBLM(ブラック・ライブズ・マター)の運動が盛り上がっているというのに、この国では、こんなにもひどい社会状況になってしまっているというのに、そうしたプロテストの動きが一向に盛り上がってきません。

差別・貧困・若者の自殺等々、いくらでもひどい状況はあるわけじゃないですか。

そういう伝統がないというわけではないでしょう。中世には百姓一揆がどこでも起きていたし、幕末には「ええじゃないか騒動」が大いに盛り上がったし、大正時代には米騒動が起き、戦後の全学連全共闘学生運動は世界の学生運動をリードするほどの熱い勢いでした。

日本列島の歴史においては、列島中の民衆が一丸となる革命はついに一度も起きていないけど、局地的な内乱や騒乱はいつの時代もあちこちで起きていました。

大和朝廷の発生以来、民衆はつねに虐げられ支配されてきたけど、心を権力社会に売り渡すことはありませんでした。

民衆のあこがれは、権力社会ではなく、つねにこの世の外の異次元の世界に向けられていたのです。

天皇はこの世の外の存在だし、それはつまり旅の僧や旅芸人のように旅に出てこの世の無縁のものになることにあこがれるということでもありました。

べつに日本列島だけのことではないけど、人類の旅の文化はこの世の外にあこがれることの上に成り立っています。

この国の天皇制が1500年以上続いたということは、この国の伝統の精神風土がこの世の外の世界にあこがれることの上に成り立っているということです。

だからこの国の民衆社会は、ふだんは権力社会の支配に従順でも、心まで権力社会に売り渡しているというわけではないのです。いざとなったら、反乱を起こしたり、旅に出てしまったりしてきたのです。

心はすでにこの世の外に向いているのであり、そういう心模様の形見として天皇が存在してきたのです。

そういうプロテスト運動の伝統はないわけではないのです。

 

日本人の集団性の伝統は、国家や政府に対する忠誠にあるのではないのです。だからこそ明治維新政府は、国家神道によって民衆をがんじがらめに支配してゆかねばならなかったのでしょう。

大日本帝国の軍隊が部下を殴っていうことを聞かせるということばかりしていたのは、殴らないと統制が取れなかったからでしょう。

もともと国家に対する忠誠心の薄い民族なのです。だから、明治になるまで国歌や国旗がなかった。それが、四方を荒海に囲まれて異民族から侵略されたことがない歴史を歩んできた民族の精神風土です。

殴らないと心が「上の空」になってしまう民族なのです。

われわれ民衆の心は、いつもこの世の外の世界をさまよっています。そういう漂泊の心こそ、この島国の伝統です。

日本列島の民衆は、この世の外を漂泊する「無縁」の者や「無縁」の心にあこがれながら歴史を歩んできたのであり、そういうこの世の外の「無縁者」の代表として天皇を祀り上げてきたのです。

寅さん映画の人気は、天皇制の伝統の問題でもあります。

日本列島の民衆は伝統的に国家権力との関係意識が薄く、国家権力の外の天皇との関係意識で歴史を歩んできたのです。われわれは、表層的な意識としての観念ではなく、無意識というか歴史的な潜在意識のところで国家権力の外の存在である天皇を祀り上げてきたのではないでしょうか。

 

そのへんの凡庸な右翼たちのように「日本人に生まれてよかった」などと合唱しながら国家権力にすり寄ってゆくのは、日本人の伝統ではないのです。

国家権力のことなんか知ったこっちゃないとか、ときに百姓一揆のように命がけでプロテストするとか、それがほんとうの日本的精神の伝統ではないでしょうか。

彼らはどうして、国家権力にすり寄ってゆくことを恥ずかしいと思わないのでしょうか。

右翼であれ左翼であれ、国家権力にプロテストすることこそ日本列島の伝統なのではないでしょうか。国土や国の民に献身することと国家権力にすり寄って安心や利益を得ようとすることは、まったく別のことでしょう。

われわれ現在の日本人は、明治以降の大日本帝国による洗脳政策によって飼い慣らされてしまったのでしょうか。

国家のことに対しては、知らんぷりするかプロテストするかのどちらかであるのが日本列島の民衆の伝統なのではないでしょうか。

だから今回の菅内閣による日本学術会議への人事介入を擁護する言説を振りまいているマスコミ言論人やネット民たちは、ほんとうにどうしようもなく醜悪なゲス野郎どもで、それでもおまえら日本人かと思います。

あの連中だって、菅義偉という人と同じくらい気味悪いです。

僕は政治オンチだから、今回のことに対するちゃんとした理屈はよくわかりません。ただもうひたすらあの連中の心映えの醜悪さが気持ち悪いばかりです。

おまえらそれでも日本人か、おまえらの心に大和魂というものはないのか、日本人としての心意気はないのか、と思います。意地汚く国家権力にすり寄ってゆくことばかりしているんじゃないよ、といいたくなります。そういう態度の醜さというのを、どうして自覚できないのでしょうか。

得をすれば勝ちだということ、得をすることを追求するのが正義だ、ということでしょうか。

まあ資本主義とは利益を追求するシステムのことだろうし、自己利益を得るための指南書としての自己啓発本がもてはやされている世の中です。

 

現在のこの国における自己利益を追求する生き方のトップランナーのひとりとして、まず橋下徹という人の名が浮かびます。だからネトウヨたちに人気があるのでしょう。そうやってもてはやされる者ももてはやす者たちも、どうしようもないゲス野郎だと思います。

自己利益を守りたいのなら、自己利益を阻害する者たちを徹底的に排除しようとするようになってゆきます。それが、現在のこの国にはびこる右翼とか保守といわれる者たちのメンタリティというか生態なのではないでしょうか。

大切なのは「日本人とは何か」と問うことであって、「日本人でよかった」と満足したり安心したりすることではないでしょう。

「日本人とは何か」と問うのが日本人であって、「日本人でよかった」という満足や安心などは日本文化の伝統にはないのです。

日本列島の精神風土は、不安に震えることから逃れて満足や安心を得ることではなく、不安に震えることそれ自体を抱きすくめて生きることにあるのです。

満足や安心を得ることそれ自体が不安の呼び水になってしまうのが日本列島の精神風土です。まあそれが世界共通の普遍的な人間性の基礎だともいえるわけで、そうやって人類の文化はさまざまなイノベーションを起こしながら進化発展してきたのです。

不安に震えている人は美しい。それはもう、そうじゃないですか。だれだってそう思ってしまうじゃないですか。

橋下徹とか百田尚樹とか、いい気になって日本人としての自己利益を追求することを正義ぶって吹聴している連中なんて、見るに堪えないほど醜悪じゃないですか。そういう醜悪さを共有してゆくことが日本列島の伝統なのですか。冗談じゃないですよ。彼らほど日本列島の伝統がわかっていない者たちもいない、と思いますか。

いや、わからなくてもいいのです。わからなくてもちゃんと無意識のところで、すでにそうした不安を抱きすくめて生きるという人間性を身体化している人たちがいるのですよね。それが、日本列島の民衆社会の伝統であり、弥生時代から続く神道ほんらいの伝統であり、天皇制の伝統なのです。

満足や安心を欲しがることの裏には、強迫観念とか不安神経症とかがぴったり張り付いている。それが、橋下徹百田尚樹をはじめとするあの右翼たちのメンタリティです。

彼らはつまり、不安を抱きすくめるという日本列島の伝統を身体化していないということで、つまり彼らはこの国ではおバカなギャルでも持っているそのメンタリティを持っていない、ということです。

正しいかどうかなんて、どうでもいいことです。正義などというものは、ヒットラーだって持っていたのです。時代の状況によっては、人殺しだって正義の人になれるのです。

僕がいいたいのは、彼らは日本人としてどうしても醜悪だということです。日本人としての大和魂も大和心も彼らのもとにはない、ということです。

あんな醜悪な人間たちがどうしてのさばり続けるのでしょうか。とはいえいまさら彼らが日本列島の伝統精神を獲得できるはずもなく、彼らが悪いともいえません。

嘆かわしいのは、彼らをのさばらせている者たちがこの世の中に一定数いる、ということでしょう。

間違っている、といっても、反論されるだけだし、けっきょくは水掛け論になってしまうだけでしょう。自分の方が正義だと信じようとするモチベーションは彼らの方がずっと旺盛です。

彼らを置き去りにできないわれわれ民衆が悪いのだと思います。

彼らは間違っている、と裁いてもせんないことです。

正義などというものは、どこにでもあるものでしょう。国家権力を背負っていればそれが正義だ、ともいえます。だから彼らは、みずからの正義を信じて疑わない。それがどんなに醜悪なふるまいであっても、どれほど民衆を抑圧しようと、知ったことではない。彼らにとっては、支配することそれ自体が正義なのです。

 

どうすればわれわれ民衆は、彼らを置き去りにしてしまうことができるでしょうか。

右翼であれ左翼であれ、正義はわれわれの側にある、と主張する時代はもう終わりにしてもらいたいです。

正義なんか旗印にしてもしょうがない。正義を争うことなんか永田町すなわち権力社会の中だけでやってくれ、というのが日本列島の民衆社会の伝統だと思います。

民衆の存在基盤は、けっきょく人間の本性にあるのではないでしょうか。

橋下徹百田尚樹に人間の本性や日本列島の伝統があるでしょうか。

自己利益を獲得して満足や安心を持とうとするのは、人間の本性でも日本列島の伝統でもないはずです。

アメリカのBLM(ブラック・ライブズ・マター)ムーブメントは、差別と反差別のどちらに人間の本性があるかと問う運動なのでしょう。

資本主義社会においては、差別や競争が人間の本性だと認識されてきました。BLMムーブメントは、そこのところが問い直されているのでしょう。そしてそういう根源的なところを問い直すことができるのは、既得権益者としての大人ではなく、若者たちでしょう。

今はまだ橋下徹百田尚樹に洗脳されている若者も多いのかもしれないが、それはこれまでの資本主義社会というか近代合理主義社会においては差別や競争が人間の本性だと認識されてきたからでしょう。

でも今回の世界的なコロナ騒動によって反差別・反競争に目覚めた若者が増えてきて、それがBLMムーブメントになって現れているのだろうし、この国だってだんだんそうなってくるのかもしれません。

橋下徹百田尚樹のような権威主義的なアジテーターに洗脳されない若者が増えてこないことには新しい時代は生まれてこないだろうし、増えてくる兆しを感じているから彼らはますます強圧的になっているのでしょう。

権威主義であるということは、差別主義であり競争主義でもあるということです。そしてその思考はかんたんに反権威主義に裏返るということです。そうやって彼らは、天皇や国家や国旗の権威を称揚しつつ、現在の日本学術会議への人事介入に対しては「学術会議なんてろくなもんじゃない」といって擁護しているわけです。

 

悪いけど僕は、学者たちを尊敬しているけど、権威だなんて全然思っていませんよ。本を読んで記憶したり調べたりする能力が特化しているということは尊敬に値すると思っています。でも、ものを考える能力まで彼らが特別に優れているとは思っていません。

ものを考える能力は人間ならみな同じだし、ときにそのへんのおバカなギャルの方が彼らよりずっと深く考えていたりする部分があるのです。

そりゃあアカデミズムの世界には、それ相応の能力評価と自立性を与えられてしかるべきですよ。半端な知識と教養しか持たない一般人にそれを査定する能力や資格なんかありませんよ。もちろんたかだか菅義偉橋下徹百田尚樹ごときにおいてもです。

天皇だって、権威でもなんでもありませんよ。それを権威だと思っているのは権力社会の人間や右翼たちだけで、われわれ一般大衆は天皇をこの上なくいとおしいと思いあこがれているだけです。それはきっと、だれもが抱く赤ん坊や美人に対する想いと別のものではないでしょう。

この世のものとは思えないような、という言い方をするように、この世の外の存在の輝きというものがあるのです。それは、権威を崇拝するというようなことではなく、人としての「遠いあこがれ」なのです。

まあ太陽はあの水平線やあの山の向こうの異世界から現れて異世界に消えてゆくわけで、そういう「異世界」に対する「遠いあこがれ」はだれの心の底にも息づいている原始的な本能のようなものだといえます。

われわれ民衆は、「遠いあこがれ」を抱きながら生きている存在であって、あの連中のように正義を旗印にして生きているのではありません。

われわれ民衆の「遠いあこがれ」は、いかにも現世的で通俗的な正義や権威に向いているのではなく、その向こうの「この世ならぬもの」に対してなのです。

歴史的に世界中どこの民衆も、そういう「遠いあこがれ」を共有しながら、権力社会を置き去りにしていったりプロテストしたりして歴史を歩んできたのではないでしょうか。

 

彼らはどうして権力社会にすり寄ってゆこうとするのでしょう。

権力社会にプロテストしたり権力社会なんか関係ないと思ったりするのが、日本列島の民衆社会の伝統のはずです。

今どきの右翼なんか、民衆社会の伝統の衰退のあらわれでしかない、とつくづく思って情けなくなります。

それが正義であろうとあるまいと、民衆のくせにどうして権力社会にすり寄ってゆくことができるのでしょうか。ごくごく当たり前に、とても不思議です。

僕は伊勢で生まれ育ったのだけれど、あのころの町の人はみんな「国家権力なんか関係ない」という思いで生活していたと思います。

で、中学になって九州の福岡という都会に移り住んだのだけれど、そのとき大きなカルチャーショックを覚えました。子供心にも、なんとなく人々の「意識の高さ」のようなものを感じました。

悪くいえば、大人も子供もなんだか伊勢の人々よりもすれているなあ、という感じでした。

まあ博多は商人の町だったし、時代もようやく高度経済成長がはじまりかけていたということもあるのでしょうか。つまり今どきの右翼思想なんか、そういう時代に踊らされた心の上に成り立っているのであって、伝統的でもなんでもないと思います。

僕だって右翼かもしれないけど、国家がどうのということばかり言っている今どきの右翼なんかみんなすれっからしですよ。国家の正義や権威をありがたがるというのは明治以降の日本人の傾向であって、日本列島1万年の伝統ではないはずです。とにかく彼らは、どうして「国家なんか関係ない」という気持ちで生きている純朴な民衆の味方になれないのか。

 

日本学術会議の問題にしても、どうして知識や教養がある者たちに嫉妬し反感を抱かねばならないのか。

江戸時代のこの国が世界的に見てもずば抜けて識字率が高かったということは、知識や教養を尊重する民族だったということを意味します。何はともともあれ新しもの好きのおっちょこちょいであるのが、この国の伝統です。

日本学術会議や東大を権威だと思うこと自体が屈折したルサンチマンであり、正義ぶってそれらを裁こうとするなんて、コンプレックスの裏返しでしかないでしょう。

そりゃあしょうもない学者や東大生はいくらでもいるだろうが、純粋に学問をしている人だって一定数いるはずで、一定数いればいいのです。日本人は学問や教養を大切する民族だということの証しは必要です。

学者のレベルは学者がいちばんよく知っていることだし、どうして中途半端な凡人たちに査定されねばならないのか。

また、中途半端な凡人が査定することに賛同するなんて、そんなみみっちく貧乏たらしいことは考えるなという話です。

十人に一人、あるいは百人に一人でもまともな研究者がいればそれでいいのです。それを「学者はみんなバカだ」といって憂さを晴らしているなんて、やることがあまりにみすぼらしすぎます。

日本列島の民衆の伝統においては、良くも悪くも正義か悪かという物差しなんかないのです。

カッコいいかカッコ悪いか、ということだけです。

橋下徹だろうと百田尚樹だろうと醜悪すぎます。醜悪でも正義であればそれでいいんだというその根性がけち臭いのであり、それは日本列島の伝統でもなんでもないのです。

なぜなら民衆は、現世的な善悪という基準を超えた異次元の世界に対する「遠いあこがれ」を共有している存在だからです。

 

現在のアメリカのBLMムーブメントだって、民衆は差別をすることの醜悪さに抗議して盛り上がっているのであって、正義はわれわれの側にあると主張しているのではないのです。

なぜなら正義とは差別の別名であり、人は醜い大人になることによって正義という名の差別に目覚めるのです。

もともと世間知らずの存在である若者に、正義という意識なんかありませんよ。ただもう醜悪なものに対する拒否反応があるだけです。

正義なんて、たんなる社会的なものさしじゃないですか。そうやって法律というものがつくられているのでしょう。

総理大臣だろうと警察だろうとネトウヨだろうと、正義を振りかざす人間ほど気味悪いものはない。

「関係ない」と思えば知らんぷりしておけばいいだけだが、それがこちらにまとわりついてきて「気味悪い」と思えば、抵抗すなわちプロテストするしかありません。

権力社会に対しては、知らんぷりするかプロテストするか、それがこの国の民衆社会の伝統です。

いや、世界中そうでしょう。

BLMムーブメントでみんなでラップを合唱しながら行進してゆくあのスタイルだって、この国の中世の「念仏踊り」や幕末の「ええじゃないか」騒動だってあんなふうだったのかな、と思わせられます。

安倍内閣菅内閣はもう、「関係ない」を通り越して「気味悪い」というレベルです。そして菅内閣は、安倍内閣以上に陰湿で陰険で、背中が凍るような恐ろしさを感じます。さらには、それを支持する人間たちが一定数いて大声で騒いでいる現在の状況は、これがほんとの末法の世というものだな、と思わせられます。

ここまでくればわれわれはもう、プロテストするしかないのでしょう。あのグロテスクな連中が退却してゆく状況をつくらないといけない。この世界につくろうとしてがんばっている人たちがいるのなら、自分もささやかながらそのムーブメントに加わることができたら、と思っています。

幻滅……われわれに未来はあるのか?

菅内閣が,今までの慣習を破って、日本学術会議が推薦した新メンバー100人くらいのうちの、特定の6人の任命承認を拒否した、ということが話題になっています。

これは、天皇内閣総理大臣の任命承認をするという慣習の手続きを拒否するのと同じことでしょう。

天皇がそういうことをするでしょうか。

つまりこれは、天皇制の否定なのですよね。

天皇は、総理大臣の任命証書に署名捺印をすることを拒否していいのでしょうか。

僕はそういう問題だと思っているけど、客観的にいえばまあ、学問の自立を踏みにじる仕業なのでしょうね。あるいは、ポル・ポトスターリン毛沢東による粛清弾圧と同じ行為なのかもしれません。

というわけで、菅義偉という人には人間に対する何かどす黒いルサンチマンのようなものがあるのかなと思えてきて、少なからずぞっとします。

僕が政治に対するちゃんとした見識と関心を持っているのなら大いに怒るべきことなのだろうなとも思います。

天皇は怒っていいと思います。私はもう二度と任命証書に署名捺印はしない、といっていいと思います。

しかし菅内閣は、どうしてこんなにも見え透いた嫌がらせをあたりまえのような顔をしてすることができるのでしょう。あの人たちは、どういう神経をしているのでしょうか。ぞっとするほど気味悪いです。

政権がそういうことを平気でできるような社会の構造になっているのでしょうか。政治家や資本家は傲慢で強欲だし、マスコミはすれっからし日和見主義だし、民衆は無知で怠惰だし、そんな醜い部分ばかりが露出してきています。だれもがそうだとも人間というのはそういうものだとも思わないけど、われわれはもう、見えない何かの力に動かされ流されてしまっているのでしょうか。

このことは大きな社会的事件になってゆくのでしょうか。学者たちは、ちゃんと抵抗することができるのでしょうか。

僕のような政治オンチも、ちゃんと怒るべきなのでしょうか。

 

コロナによって世界が変わる、とよくいわれたりしています。

どうなのでしょうね。

そうあってほしいが、本当にそうなるかどうかはわかりません。

バブル経済がはじけたときも、東日本大震災のあともそのようなことがいわれましたが、この国が生まれ変わるというようなこともなく、昔の夢を追いかけながらますます停滞していっただけでした。

ただ僕は、人類の未来の文化は本質的には基礎的原始的なかたちに戻ってゆくのだろうと、なんとなく想像しています。

 

この宇宙は、何もないところから出現して、いつかは消えてゆく。古代ギリシャの哲学者のヘラクレイトスは、「宇宙の根源は<火>にある」といいました。

燃える「火」は出現と消滅が同時に起こっている現象です。

現在の最先端の物理学では、すべての物質は出現と消滅を繰り返す「現象」であって「存在」ではない、というようなことが議論されているそうです。

生(誕生)と死。生は死であり、死は生である、ということ。宇宙の生成がそういう循環構造になっているとするなら、究極の未来は「消滅」であり、明日という未来は原初に還ってゆく、ということでしょう。

つまり、原始時代は人類の未来である、ということです。

もちろん表層的な文明のかたちが同じであるはずはないが、本質的にはそういうことなのでしょう。

そして現在は、もっとも発達した資本主義と原始時代が混在しているという状況であり、であれば未来は原始時代になってゆくことになるはずです。

現在の社会にも、個人の内面においても、すでに原始性は息づいているのでしょう。

たとえば現在はもう、力があるとか賢いとか仕事ができるとか、そういう現代社会を動かしていた能力がAIにとってかわられる時代になってきました。

そうなれば、「人間とは何か」ということが改めて問い直されるようになってくるのでしょう。

原始時代は、そういう現代的な能力を価値とするような社会ではありませんでした。力も知能指数も仕事の能力も、人を評価する基準ではなかったのです。ただもうそこに「あなた」がいるというというそのことにときめき合って集団を形成していたのであり、それが人間性の基礎なのだろうし、人類社会はけっきょくそういう関係に回帰してゆくのでしょう。

なんのかのといっても、いつの時代においてもどこの世界においても、人間が二本の足で立っている猿であるかぎり、人間であることから離れることなどなかったのです。

だから数千年前に生まれた文明社会だって、最初の理不尽な王権制度からけっきょくは民主主義に回帰してきたのでしょう。

民主主義とは、原始的な制度のことです。どんなに文明的な味付けが加えられようと、本質においては原始性なのです。

人間の社会なんて、ただもう他愛なくときめき合い助け合っていればいいだけでしょう。そしてそれが、じつはもっとも効率的な社会の運営方法なのです。なぜなら人間は、二本の足で立っている猿だからです。

 

最近、竹田恒泰という右翼の論客が『天皇国史』という本を出したそうですね。

またベストセラーになるのでしょうか。

僕は百田尚樹の『日本国紀』を買って読んでしまったことに凝りているから、たぶん買わないでしょう。

ネットでちょいと調べたら、ようするに天皇は権力社会でどのように歴史を歩んできたかということを書いた本らしいですね。

でも僕が知りたいことは、あくまで天皇と民衆の関係の歴史です。

大和朝廷の発生以来の1500年を貴族や武士や政治家たちが天皇を絶対的な「権威」として祀り上げながらどのように民衆を支配してきたかという歴史は、われわれも知る必要があることかもしれません。

でもわれわれ民衆にとっての天皇は、権威でもなんでもなく、ただもう他愛なくときめき慕っているだけの対象であり、その「他愛ないときめき」の形見として祀り上げてきただけなのです。

われわれにとって天皇は、男であろうと女であろうと「永遠のカリスマアイドル」であり「永遠の処女」なのです。

処女をカリスマアイドルや生贄として祀り上げるのは、原初以来の人類の普遍的な集団性であり、権力社会が天皇を絶対的な権威として祀り上げ民衆支配の道具にしてゆくこととは、まったく別のことです。

彼らには、われわれ民衆のような天皇に対する他愛ないときめきはありません。その他愛ないときめきに付け込んで民衆を支配しようとする欲望があるだけです。彼らが天皇を神として崇める気持ちのそこには、民衆を支配しようとする欲望がぴったりと張り付いているわけで、天皇を神として崇めることは、もっとも天皇バカにている気持ちでもあるのです。

彼らは、天皇をただの道具としてしか思っていない。だから、「男系男子」がどうのというようなしゃらくさいことをいってくるのです。

「おまえらみたいな下賤の者たちが次の天皇をどうするかというようなことを勝手に決めようとするな」という話じゃないですか。

天皇家のことは天皇家で決めてもらえばいいだけのことです。

われわれ民衆は、天皇天皇であればそれでいいだけです。血筋がどうのということなど、どうでもいいのです。そのことも、天皇家で決めればいいだけのことです。われわれはもう、無条件に天皇にときめいているだけなのです。

われわれ民衆と、男系男子がどうのとしゃらくさいことをわめいているあの薄汚い連中と、どちらが心の底から天皇を慕っているでしょうか。

大和朝廷が生まれる前は、天皇自身が次の天皇を決めていただけなのです。なぜならそのとき天皇は社会の外の存在であってもちろん権力などは持たず、社会のいとなみのことは民衆自身でやるという直接民主主義の社会だったのです。

だから、天皇家のこともまた、天皇家で決めていました。

現在だって天皇の存在意義は、この社会から隔絶した存在であることにあります。だから天皇には戸籍や苗字がないし、そういう隔絶した存在だからこそわれわれ民衆の遠いあこがれの対象になりえているのでしょう。

メタ思考というのでしょうか。人は心の底に異次元の世界に対する遠いあこがれを抱いています。それは宗教心でもなんでもなく、純粋に知的な好奇心であり、愛の問題でもあります。

だから、こちらの世界の人間があちらの世界の天皇家のことに手を突っ込んだらだめなのです。

男系男子がどうたらとか、よくそんな無作法なことがいえるものだと思います。竹田恒泰だろうと百田尚樹だろうと江藤淳だろうと小名木善行だろうと櫻井よしこだろうと、彼らはあまりにも愛が薄すぎるのです。人間が下品なのです。

男系男子がどうのとか、女性天皇女系天皇の違いとか、そんなことはわれわれ民衆は知らなくてもいいのです。そんなことは権力社会周辺の薄汚い連中がわめいているだけのことです。

すべては、天皇家にお任せすればいいだけのことなのです。そう思い定めることこそがじつはもっとも高度で深く純粋なメタ思考であり、普遍的なやまとごころの伝統なのです。

百田尚樹竹田恒泰だけでなく、小林秀雄折口信夫吉本隆明江藤淳だって、もう僕の敵ですよ。あの大家たちに対してだって、何をくだらないことをほざいていやがる、と反論したくなる部分はいくらでもありますよ。

あんな連中よりも、そのへんのおバカなギャルの方がずっとたくさんのことを教えてくれますよ。

 

だから、ユーチューブがやりたいのです。

今はまだ、家族や知り合いたちから反対される身でやっていいのかどうかとか、根っからの機械オンチの怠け者である自分にできるのかどうかと煩悶したり逡巡したりすることが多くて、すんなりとは前に進めないでいますが、何とか一日でも早く一歩を踏み出したいと焦っています。

原稿だけはもう、4か月分くらい書き溜めています。これらをブログにアップしてもいいのだろうが、やっぱりユーチューブでやりたいです。

年寄りというのは、情けない生きものです。ただの愚痴であるのわかっているけど、一歩踏み出すというたったこれだけのことが、思った以上に高いハードルなってしまっています。

なぜユーチューブがしたいかといえば、僕だって社会にコミットしたい、ということでしょうか。

しかし僕にできることなんかかぎられています。もともと政治オンチだし、政治に対する拒否反応があるから、政治活動に参加することはできません。

僕にできることは、今まで自分が考えてきたことをできるだけ広く発信しようとすることだけです。

アリが通れるだけの小さな穴だけど、自分にしか発信できないことがある、という自信はあります。その部分で、社会にコミットしたいわけです。

僕はしょうもない生き方をしてきて、自分に与えられた人生の時間を無駄に浪費してきただけだと思っていたけど、この十数年間をひとりで考えながらほかのユーチューバーがしゃべらないモチーフを蓄積してきた、ということに気づきました。

本に書いてあることをおもしろおかしくしゃべって拍手喝さいを浴びているユーチューバーがたくさんいる中で、俺はそのほかの内容を用意してあるからどうか俺にも言わせてくれ、と思うに至りました。

べつにみんなが知らないことを教えてあげたいというのではなく、だれでも知っていることを問い直したいだけです。つまり、日本化の伝統や古人類学に関する陳腐な通説が大手を振って流布していることと戦いたい、ということでしょうか。

だって、僕なりにこの十数年、何もかも打ち捨てて必死に考えてきたし、日本文化論に関しては、内田樹氏や小浜逸郎氏や西部邁氏なんか言うことがいちいち薄っぺらで話にならないと思っているし、尊敬していた小林秀雄吉本隆明折口信夫だって今となっては敵になってしまっているからです。

そんなことあるものか、そんなことあるものか、と必死に考えてきて、ここまでくればもう自分なりになんとか決着をつけたいわけです。

もしかしたら、だれかから徹底的に打ちのめされたい、と思っているのかもしれません。それで潔く店じまいするか、新しく出直すか。

僕が負けることは民衆の歴史が負けることだ、という思いもないわけではありません

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嘆きの哲学と哲学の嘆き

安倍総理がやめて、今度は菅総理になるらしい。

この先の世の中はいったいどのようになってゆくのでしょうね。

いずれにせよ僕にとっての不愉快な政治状況はまだまだ続くらしい。いや、もっとひどくなるのでしょうか。

あの人は、他人を信じていない。他人を信じないことは、この世の中で出世するためのもっとも有効な武器のひとつです。

まあ今どきは、右翼全体が他人を信じていない世の中らしいです。

僕は、左翼ではないが、反自民・反右翼です。それはつまり、明治以降の政治史が好きになれない、ということです。

べつに確たる政治思想など持ち合わせておりませんが、大日本帝国とか国家神道というようなものはグロテスクだと思います。

とくに明治以降の国家神道制度の醜悪さには我慢がなりません。

で、日本列島の伝統としてのほんらいの神道とはどういうものかということは、ここ数年ずっと考え続けています。

起源としての神道は、古代の仏教伝来のときに、仏教に対するカウンターカルチャーとして民衆社会から生まれてきました。

そのようにして民衆社会から生まれてきたプリミティブな神道が、千数百年かけてじわじわと国家権力に乗っ取られてゆき、ついにはモダンなカルト宗教というかたちで民衆支配の道具へと変質してしまったのが明治政府による国家神道であり教育勅語した。

国家主義というのは、国家権力のプロパガンダによって生まれてきた思想であり、明治政府は国家神道によって民衆の心の中に国家主義を植え付けてゆきました。洗脳していった、というか。

少なくとも江戸時代までの民衆の頭には、「国家」という概念はありませんでした。だから、国歌も国旗もなかったのでしょう。

もともとのやまとことばの「国(くに)」という言葉に「国家」という概念は含まれていなかったのです。まあ、「故郷」とか「世の中」というようなニュアンスでした。

明治以降の民衆がなぜああもかんたんに国家主義に洗脳されてしまったのかといえば、その洗脳の道具がもともと民衆のものだった「神道」だったからでしょう。

だからわれわれは、ほんらいの神道国家神道とは似て非なるものだということをちゃんと確かめる必要があるのではないでしょうか。

起源としての神道は民衆社会のたんなる祭りの習俗だったのであり、明治以降の国家神道はまぎれもなくカルト宗教です。だから僕は、「民族」とか「伝統」というものにこだわりながらも、右翼が嫌いなのです。

われわれ民衆は、「民族」とか「伝統」という概念を、右翼という名の国家主義者たちの手から取り戻す必要があるのではないでしょうか。

明治以来のたかだか150年の国家主義や家族主義が、どうして「伝統」と決めつけられねばならないのでしょうか。

国家や家族は人と人の関係の結果としてあるだけのものであって、国歌や家族の存続のために人と人の関係が決定されているというようなものではないでしょう。人間性の自然として、そんなふうになるはずがないでしょう。

日本人にとって国家とは何かとか家族とは何かというような伝統はないのです。

日本人の人と人の関係の作法はどのようにはぐくまれてきたか、という伝統があるだけです。

日本列島の伝統に、国家論とか家族論というようなものはないのです。

国家も家族も、人と人の関係のなりゆきの結果としてつくられていけばいい、というのが日本列島の伝統なのです。

だから日本列島の歴史においては、家系図なんか適当に捏造しても許されてきたし、江戸時代までの民衆の頭の中には国家という概念などいっさいなかったのです。

大和朝廷の発生以来、国家を意識してきたのはいつだって権力社会だけだったし、一部の神道がそういう国家権力と結託しながら国家神道がつくられてきたのです。

日本列島の伝統においては人と人の関係がいちばん大切なのだし、今でもだれだってそのことをいちばん気にしながら生きているはずなのに、どうして国家論や家族論が優先されてしまうのですか。だから、今どきの右翼はいけ好かないのです。

僕は伊勢の生まれだから伊勢神宮は大好きだし素敵な神社だと思っていますが、日本史において最初に国家権力と結託していったのは伊勢神宮の神官たちによって生み出された「伊勢神道」です。

現在のあの愚劣な国家神道は、古代の伊勢神道からはじまっています。

したがって現在の伊勢神宮に残されている儀式に起源としての神道のかたちがあるというわけではないのです。あんなものは、国家権力と結託しながらもったいをつけてそれらしいかたちに仕上げられてきただけの、むしろ時代とともにもっともても変質してしまった、いわばただのカルト儀式なのです。

起源としての神道は、田舎の鎮守の杜におけるぴーひゃらどんどんの祭りの賑わいの中にこそ残っているのです。

僕だって伊勢神宮の森や川や橋や建物は大好きだけど、伊勢神道なんてろくなもんじゃないですよ。

僕が子供のころに通った小学校のそばに皇学館大学という伊勢神道の本拠地があって、あの陰鬱な雰囲気の石造りの建物はまさにカルト宗教の秘密結社のようで、ほんとうに気味悪かったです。

あの建物のそばを通るたびに僕は、あの中でわけのわからないおどろおどろしい儀式がなされているのだろうな、と想像していました。

もしかしたら皇学館にはお化けが住んでいる、というような噂があったのかもしれないし、自分で勝手にそう決めつけていただけかもしれないし、今となってはもうよく思い出せません。

まあ僕にとっての国家神道というのはそういうイメージで、後年、神道をそういうカルト宗教にしてしまったのは江戸末期の平田篤胤という国学者だったということを知りました。

今の日本会議神社本庁の建物も、なんだか気味悪いですよね。

僕は今でも、「皇学館」という言葉そのものに不気味さと恐怖を感じます。

幼少期に伊勢神宮のそばで暮らしたものからすると、大好きな伊勢神宮国家神道というカルト宗教の巣窟にしてもらいたくないという気持ちがあるし、してしまえる人たちも気味悪いです。

正月や終戦記念日などに伊勢神宮靖国神社の参道を妙な旗を立てて行進している人たちを見ると、ゾンビの群れのように思えてしまいます。

僕は神道を日本的なメンタリティの原点だと思っているけど、国家神道はとても気持ち悪いです。

ほんらいの神道には国家という概念などないし、人を支配する教え(教義)もありません。ただもうこの世界の輝きを祝福しているだけです。それが、神道の原型であり本質なのです。

みんなで世界や他者の輝きを祝福しながら集団として盛り上がってゆくのが、神道という祭りの賑わいの作法です。

神道とは、祝福の作法なのです。

今どきの右翼は、祝福するということを知らなすぎます。外国を敵視したり女を差別したりとか、そんなことばかりじゃないですか。

起源としての神道は、世界や他者を他愛なくときめき祝福してゆく祭りの賑わいの作法だったのです。

まあ今どきは右翼も左翼も、「日本人に生まれてよかった」とか「自己肯定感が大切だ」とか、おかしな屁理屈ばかりこねてきます。

われわれが人間として祝福しているのは、自分ではなく、世界や他者のはずです。人は、そこから生きはじめるのではないでしょうか。

だれもが他者を祝福している世の中なら、自分を祝福する必要なんかないでしょう。

自分のことを忘れて他者を祝福しているのなら、自分を祝福している必要なんかないでしょう。言い換えれば、人間は根源において自分を祝福したり肯定したりする根拠を持っていないから、自分を忘れて世界や他者にときめいてゆくことができるのでしょう。

たぶんだれの心の底にも、何かのはずみで「自分なんか生きている値打ちもない人間のクズだ」思ってしまう傾向が潜んでいるのでしょう。だからかんたんに「死んでしまいたい」とか「もう死んでいい」と思ってしまったり、うつ病になったりするのでしょう。

自分を肯定し、自分に執着し、いつも自分のことばかり意識しているのが普遍的な人間性だというわけではないでしょう。

何が「日本人に生まれてよかった」か。

自分は日本人だという意識など希薄であるのが日本列島の伝統なのです。それが、古代のおおらかさというものです。

日本人であるという前に人は、生きてあるというそのことにいたたまれなさやくるおしさや悩ましさを抱えている存在であり、その「嘆き」から人としての「おおらかさ」が生まれてくるのでしょう。

生きものは根源において生きられない存在であり、だからこそ他者に「生きていてくれ」と願ってしまう。みんながそう願っていたら、だれも「自分には生きる権利がある」などと思う必要はないでしょう。

生きるいとなみは、根源において「もう死んでもいい」という勢いでなされているのです。その勢いがなければ生きるいとなみは成り立たないのです。

「もう死んでもいい」という勢いで命のエネルギーを消費してゆくのが生きるいとなみです。その勢いがなければ、もったいなくて消費できないでしょう。

生きものは、その勢いで子を産み育てる。これは、生物学の問題であって、倫理や道徳の話ではありません。人類の歴史は、その勢いで進化発展してきたのです。

 

まあそんなことを語りたくて、ユーチューブをはじめようと思いました。

でも、こんなしょぼくれたジジイが家族に内緒で世間の前に顔をさらしてしゃべるということは、そうそうスムーズに勢いがつくというものではないようです。

撮影のために新しいスマホを買うのに1週間かかり、マイクとか三脚とかホワイトボードとかをそろえるのにさらに二週間かかり、これからユーチューブの手続きの仕方を知り合いに教えてもらいに行ってきます。

それから撮影をはじめ、ユーチューブの番組としてアップするのは、はたして9月中にできるかどうか。

僕と同年代でも簡単に始めることができる人はいくらでもいるのだろうが、何しろこちらは徹底したパソコンオンチだから、なかなか前に進めないでいます。

あきらめて手を引いてしまえば一番楽なのはわかっているけど、やっぱりそうはいきません。

この世界はわからないことだらけだし、世の中に流布している人類史や日本文化論の通説に対しては、「そうじゃないだろう」といいたくなることがたくさんあります。

「そんなの変だ」とか「そんなことあるものか」と思えることがたくさんあって、それでも黙って生きているというのは、まあやっぱりちょっといたたまれないものがあります。

今どきは本の受け売りをして知ったかぶりをすることが全盛の時代で、本や教科書に書いてあることを解説する番組がユーチューブの主流らしいのだけれど、それはこの社会が停滞していることの証しでしょう。

既存の情報や考え方だけでいいのなら、世の中は前に進まないでしょう。

人類史における既存の学説はつねに変更され続けているのであり、そうやってたえず変転してゆく動きを持っているのが人間の世界の普遍的なかたちではないでしょうか。

既存の常識を疑うということ。「わかる」のではなく「なんだろう?」と思うこと。それが人間的な知性の基礎であるはずです。

気取った言い方をすれば、「わからない」という知の荒野に立って身もだえしたり途方にくれたりするところから「考える」ということがはじまるのであって、「わかる」ということは考えることの終わりでしかありません。

言い換えれば、「わかる」ということは、そこでさらにたくさんの「わからない」ことと出会う、ということです。そうやって「わからない」ということに身もだえしているからこそ既存の通説を「疑う」という思考態度が生まれてくるというわけです。

「批評」とは「疑う」ことであり、それこそが人間のもっともプリミティブな思考態度だと僕は考えています。

つまり、「知る=わかる」ことではなく、「なんだろう?」と思うこと。それがほんらいの「学ぶ」ということです。

「学ぶ」の「まな」の語源は「興味深いもの」や「親愛なもの」のことで、それに「不思議」「震える」の「ふ」がついて「なんだろう?と思う」こと、「探求する」こと、というようなニュアンスになります。

「なんだろう?」と思うことは、「疑う」ことでもあるはずです。

「学ぶ」とは、「疑う」ことや「不思議に思う」ことであって、「わかる」ことではないのです

近ごろは「教育系ユーチューブ」というようなジャンルがあって本や教科書の解説動画が流行っているらしいが、だからといって人々の知的好奇心が活発にはたらいている時代だともいえないような気がします。考えることを省いて手っ取り早い解答を欲しがっているだけかもしれません。

また、人生や金儲けのハウツー本とか自己啓発本が本屋の棚を賑わわせていることだって、お手軽な解答を欲しがっているだけのことであり、それもまた時代の停滞や閉塞感をあらわしているのでしょうか。

哲学をするのに哲学の本を読む必要なんかありません。考えればいいだけです。人間や歴史について「なんだろう?」と思えばいいだけです。だれでも知っていることに、もう一度「なんだろう?」と問い直せばいいだけです。その結果として自分の考えたことがプラトンマルクスニーチェと同じだったとしても、それは本を読んで得た知識とは根本的に違います。「考える」という過程があるかないかの違いです。そその「過程」のとをを、古代のアジア人は「道」といっていました。

考えることの醍醐味というのはやっぱりあるわけで、それは「わからない」という荒野に分け入っていくことであり、恋することと同じです。キスすることと同じです。

哲学とは、「わからない」ということに恋することであり、じつは何がわかるわけのものでもないのです。

宗教にはその先に「悟り」の境地や天国や極楽浄土が待っているけど、哲学がたどり着く地平は、さらに深くて多くの「わからない」ということです。

死ぬまで「わからない」という荒野の分け入ってゆくこと、それが哲学や批評の醍醐味であり、それが人間の地のはたらきの本質なのだろうと思います。つまり人類の歴史はそうやってはじまり、永遠にそうやって流れてゆくのだろうと思います。

恋する人も失恋した人も、死者を想う人も、みんな哲学者ですよ。そのへんの知ったかぶりの哲学オタクよりも、ずっと哲学的な存在ですよ。

つまり、哲学をすることと哲学者であることとはまた別のことなのですよね。

哲学者とは哲学をお勉強する人のことであって、彼らがみんな哲学をしているとはかぎりません。

それに対して何でもかんでも「なに、何?」と聞かずにいられない幼児は、まさしく哲学をして生きているともいえます。彼らはそれを言葉にすることができないけど、じつはわれわれよりもずっと深い世界の真実に気付いているのかもしれません。

まあ僕がユーチューブでしゃべりたいのは、古人類学における起源論のことや、縄文・弥生時代の歴史を通しての日本文化論のことなどですが、それはまた自分が生きている今ここを問うことであり、永遠の未来に続く人類普遍の問題を問うことでもある、と考えています。

民衆は政治の話をするべきか?

人とかかわりたい気持ちはないわけではないが、世の中の政治経済の話をするのはめんどくさい、という気持ちがあります。

そしてこれは、平均的な日本人の心模様ではないかと思えます。

でも、こうやってブログを書いたりユーチューブを見たりしながらネット世界に身を置いていると、なんだか政治経済の話をしないのが後ろめたくなってきます。

このブログをはじめたころは、自分の興味が赴くままにネアンデルタール人のことや日本文化論のことなどを書いているだけで気が済んだのだけれど、それをするのが後ろめたくなってきたのはなぜなのでしょう。

安倍政権がはじまって、民衆が追い詰められてゆくという事態がどんどん進んできたからでしょうか。

いくらなんでもそれはないだろうというひどい政治が平気でなされているのは、政治に無関心であるわれわれの責任だろうか、という思いが僕の中で徐々に膨らんできたようです。

また、日本会議という国家神道を信奉するグループが政治の世界に強い影響力を持つようになってきたというのも、とても気になることでした。

あんなただの邪道でしかない神道がほんとうの神道だといわれるのは、僕にとって我慢のならないことでした。

だから、数年前から神道天皇の起源のことを書きはじめました。

そしてこのことを書きながらどんどん政治に無関心であることが後ろめたくなってゆきました。

政治のことなんか無関心で生きていたいですよ。

でも、無関心でいたいのならブログなんか書くな、という声がどこかから聞こえてきます。

ブログなんかただのプライベートなページのはずだけど、やっぱり書くからには自分の中に読んでくれる人をイメージしています。

ただの自己満足だけで書くことなんかできません。

たとえごく少数の読者であろうと書くからには楽しんでもらいたいという気持ちはあるし、自分のような生きていてもしょうがない半端な人間にとっては、世間様からこのブログのページをお借りしているという意識がどうしようもなく疼いています。

権利だなんて思っていません。書くことを許していただきたいと思って書いています。

まともな社会人の人にはわからないだろうけど、われわれのような世間のごくつぶしは、正直いっていつもこわごわ書いているのです。

記事をアップするときは、いつも「えいやっ!」と、それこそ清水の舞台から飛び降りるような決心をしているわけです。

ただの自己満足だけの記事だと、その決心がなかなかつかないのです。

そうやって、書きたいことがあるのに書けなくなってゆきました。

世の中にはまじめに政治のことを心配している人がたくさんいるのに、自分だけ知らんぷりしていていいのだろうか、という気になってしまいます。

それくらいひどい政治が横行している世の中ではないでしょうか。

今やもう、知らんぷりしていられるレベルではないですよね。

そしてひどい政治だと思っても、それに対する的確な批判ができない自分を、ちょっと恥ずかしいと思います。

そして的確だとも思えないような批判がたくさん発信されていることにも、なんだかなあ、という幻滅も覚えたりします。

そんな世の中で、山本太郎という政治家には頑張ってほしいと思うのだけれど、れいわ新選組の妙な内輪もめが起きて、その処理の仕方もなんだか粗雑で、すっかり人気を落としてしまったみたいです。

「命の選別発言」をした候補予定者を除籍処分にしたのは正しいと思います。

でも、その手続きの踏み方のドタバタ感は、ちょっと見ていられない景色であったのは確かです。

その発言をした候補予定者に命の問題をレクチャーするとかと言って、だれがレクチャーするのかと思ったら、障害者10数人を連れてきたなんて、とんだ茶番です。彼らは選別される当事者であっても、人類社会にとっての命の問題とは何かということを研究するプロではないですからね。

それをするなら、そういうことを研究しているプロとしての生物学者とか医者とか哲学者とか文学者とか評論家とか社会学者とか、そういう人たちを呼んでくるべきでしょう。

そして基本的には、人類はまだそういう問題を解決していないのですよね。

ダーウィンの進化論の「適者生存」という概念はかんたんに優生思想と結びついてしまうのだけれど、この概念というか法則が科学的に正しいか間違っているかということはまだ決着がついていません。

正しいのなら、優生思想をきっちりと否定仕切ることはできなくなってしまいます。

「適者生存」とは何か、「優生思想」とは何か、まずはそういう概念をきちんと説明できる研究者を呼んでくるべきでしょう。

障害者を並べてレクチャーするなんて、これが山本太郎の発想かまわりの者たちの提案なのかは知りませんが、考えることがあまりにも安直で情緒的過ぎます。

僕は政治とかかわっている人たちに対するある種の引け目というかコンプレックスのようなものはあるのだけれど、それでも「お前らの考えることはその程度か」という幻滅は覚えてしまいます。

もちろん僕は、あの「命の選別発言」をした候補予定者の思想や哲学なんて陳腐極まりないものだと思っているし、人間的にもあまり好きではありません。それでもやっぱり、もっとスマートな対処の仕方があっただろうという感想はぬぐい切れません。

ともあれ僕は、ダーウィンの適者がたくさんの子孫を残すという「適者生存」の法則が科学的に正しいとは思いません。

そう考える根拠は何かと聞かれたらなかなか一言では答えられないのだけれど、とにかく、倫理道徳的にではなく、科学的に間違っているのだと考えています。

これは人類史の大問題だし、僕だって何人かの理系の人と議論をしたこともあるのだけれど、とにかく「適者生存」なんて、科学的につじつまが合わない話ですよ。

たとえばみごとな羽模様を持った一羽の孔雀がいつもいい気になって見せびらかしていたら、真っ先にキツネやイタチやオオカミなどの天敵に見つかって食われてしまうでしょう。そうして結果的に、羽模様が見事な孔雀ほど子孫を残せない、ということになるはずです。

進化論の法則は「適者生存」ではないのです。

またこのことは、クジャクの羽模様が見事になっていったのはもちろんメスと交雑して子孫を残すためだったわけだけど、同時にそれは「もう死んでもいい」という勢いでそうなっていったことだったのであって生き延びようとする目的だったのではない、ということを意味しています。

われわれはこういうパラドキシカルな命のはたらきをどう考えればいいのでしょうか。

進化論は生き延びるための戦力ではなく「もう死んでもいい」という勢いで起きてきたことであり、結果的にそれが生き延びることになっていった、ということでしょう。

ダーウィンが考えた「適者生存」の法則なんかあまりにも安直すぎて信じられないし、この考えもまたひとつの近代合理主義思想かな、と思ったりします。

とにかく「適者生存」などといっていたら優生思想が生まれてくることはもう避けられないのであり、人格者ぶってそれはだめだといっても決定的な説得力にはならないのです。

障害者を並べてレクチャーしたって、動かせない正義にも真実にもなりえないのです。

そんなの、正直言って茶番劇です。

ほんとに山本太郎には頑張ってもらいたいのだけれど、れいわ新選組そのものの活動は、「なんだかなあ」と幻滅することがたくさんあります。

噂によれば極左勢力がバックにいるとかという話だけれど、右でも左でも政治思想を振り回されても、われわれ民衆はついてゆけないのですよね。

われわれ民衆が応援するのは、政治思想や政策ではなく、その政治家としてのたたずまいというか心の姿というか、そんなようなものでしょう。

だから僕は、石垣のり子にしても大石あきこにしても、そのきっぱりと「私をいやだ」といって見せる態度は、それはそれで政治家としての美しいたたずまいだと思えるわけです。

また、ただの民衆のくせにまるで国を背負っているかのような顔をして中国や韓国との外交政策がどうのといいたがるのは、強硬派の右翼も謝るべきだという左翼も、「何をしゃらくさいことを言ってるんだろう」と思ってしまいます。

国を背負っているつもりであるのなら、どうすれば仲良くできるかということを教えてくれ、といいたいです。

僕は「民族」という言葉が嫌いではないから左翼ではないのだろうが、国家神道がほんとうの神道だと思っているバカな右翼も大嫌いです。

国家という概念とは無縁の古代の民衆から生まれてきた起源としての神道がどんなものであったのかということが大いに気になります。そしてそのことを基礎にした日本文化論をユーチューブで発信したいとこのごろずっと考えています。

まあ最初は8月になったら始めるつもりだったのだけれど、まわりから「みすぼらしいジジイがそんなことをしても誰も見てくれないからやめとけ」とか「一家の恥さらしだからやめてくれ」といわれ、自分でも「やっぱりそうだよなあ」という気持ちがぬぐえないし、なかなか決心がつきかねてぐずぐずしながらここまで時間が過ぎてしまいました。

いちおう100本分の原稿は書き上げました。

次にするべきことは、それを読み上げる動画を取ることで、ホワイトボードも使うつもりです。

覚悟の問題だから、どんなに恥ずかしくても、それなりのリスクがあったとしても、顔出しはしようと決めています。

まずは明日、ガラケーからスマホに買い替えてきます。

そして一挙に100本の動画をつくり貯め、それを毎日一本ずつ発信して何の反応もなければ、そこでやめようと思います。

つくり貯めないでそのつど一本ずつ配信してけっきょく5本か10本で挫折してしまうということになったら、あまりにも情けないから、とりあえず100本つくっておいてから発信します。

まあ何の見栄えもしないジジイがきわめてニッチなジャンルのことをぼそぼそしゃべっているだけですからね。勝算なんか、まったくありませんよ。

また、本や教科書に載っていることを解説つもりはないのだから、役に立つ情報とはいえません。

本気で日本人とは何かとか日本文化とは何かと考えている人の刺激になるようなことが話せたら、と思っています。

ただし現在のこの国のユーチューブを見る人のほとんどは本や教科書の内容の解説動画を望んでいるそうだから、まあ僕なんかお呼びでないことでしょう。

でも外国で暮らしている日本人の人は、国内の人々よりはもっと客観的にもっと切実に日本人や日本文化のことを考えているのだろうし、そういう人たちの何人かにも届けることができたらいいな、と思ったりしています。

とりあえず、明日から具体的な一歩を踏み出します。

この生の後始末

れいわ新選組が、ネット界隈で変な騒動を巻き起こしました。

発端は大西つねきという人の「命の選別」発言で、「政治の仕事は命の選別をする責務を負っていて、老いた人から順番に死んでいってもらわねばならない」というような趣旨でした。

 

まあ素直に謝っておけばよかったのだろうが、「俺は間違ったことをいっていない」と尻をまくってしまいました。

 

それが正しいかどうかというのはどうでもいいことで、人がそれを聞いてどう思うのか、という問題があるだけなのですよね。

「許すべきだ」とか「許してはならない」とか「間違っていない」とか「間違っている」とか、そういうさまざま意見が飛び交っていたわけだけど、まあ人がなんと思うと人それぞれですからね。

なんでもいいのだけれど、そうやって「判断する」というその態度が、なんだか胡散臭いなあ、と思ってしまいます。

 

まあ政治家は「判断する」のが仕事だろうが、僕は政治家ではないから判断なんかしたくないし、できません。

何なのでしょうね。

正義も寛容もよくわかりません。

 

怒りたくなる気持ちもわかるけど、怒ってもしょうがないということもあるのでしょう。

そして「許してやれよ」といわれても、「いちいち人の気持ちまで指図するな」という意見だって成り立ちます。

「判断する」とは、自分は正義だと思っているということであり、自分は寛容だと思っている、ということでしょう。

どっちもどっちだし、どっちもどっちでいいのでしょう。仕方ないことなのでしょう。

 

世の中というのは、いったい何なのでしょうね。

 

だから僕は、政治のことはあんまり考えたくないのです。

考えたくないのに、考えないといけないという強迫観念に襲われて、いやになってしまいます。

 

4人乗りのボートに5人が乗っている。ひとりが降りないと全員が死んでしまう。

だったらいちばん歳をとっている人に下りてもらうのか?

もしその人が「死ぬのは怖い!」「死ぬのは嫌だ!」と泣きわめいたら、あなたならどうしますか?

死ぬのがいちばん怖くない人に下りてもらうのがいちばんいいのかもしれません。

どうせだれの命もしょうもない命です。

そして、自分の命よりも他者の命の方が大事だというのが、人間性の根源にある命題であるのかもしれません。

また、「だったらみんなで死んでしまおう」という提案があっても、それは間違いだともいえないでしょう。

 

僕には、正義も寛容もよくわかりません。それが政治家に必要なものであっても、僕に必要なものだとは思えません。

政治のことを考えるのは、ほんとに鬱陶しい。

 

なのに今、このブログで政治以外の日本文化論や人類学のことを書くのが、どんどんきつくなってきています。

コロナウイルスのせいでしょうか。

そうかもしれません。

 

だからYouTubeをやって恥をさらせば自分に納得をつけられるのではないか、と思ったりしています。

日本文化論や人類学の講座チャンネルです。そこに塹壕を掘って大学の先生に反論してゆきたいことがあるし、おバカなギャルに聞いてもらいたいこともあります。

さっきのボートの話なんか、おバカなギャルに決めてもらうのがいちばんいいのかもしれません。

彼女はこういうでしょう。

「だったら私が死んで上げる」と。オトタチバナヒメのように。

 

遅くとも8月半ばまでには発信をはじめたい、と思って今準備をしています。