「民衆」とはだれか?

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民衆とは愚か存在である。しかしその「愚かさ」の向こうに、この世でもっとも深く豊かな知性や感性が生成している。

このブログの目的というかモチベーションは、十代のバカギャルから東大教授までを対象に問題提起してゆくことにある。

人類学や日本文化論の世界で多くの研究者が依拠している通説に対して「それは違うだろう」と異議申し立てをしてゆきたいし、バカギャルからは学べることが多い。僕は、そのへんの凡庸なインテリに比べたらバカギャルの方がずっと偉い、と思っている。バカギャルは原始人だし、原始人はわれわれ現代人よりももっと確かに人間性の自然・本質をそなえていたにちがいない。そして今どきの人類学者が語る原始人像は、あきれるくらい薄っぺらで陳腐だ。だから、「それは違うだろう」といいたくなる。

ドストエフスキーは「哲学者の語る高邁な真理は、無知な農民だってすでに分かっていることでもある」といった。それはきっとそうだ。無知な農民は、それを言葉にできないだけのこと。とすれば哲学者の仕事は、言葉にできないことを言葉にすることだ、といえる。

原始人だって、現代の哲学者の認識と同じレベルでこの世界や生命の真理=本質を感知しながら生きていたはずだ。ほんとうはだれだって、無意識のところですでにそれを認識している。根源的には、だれが賢いとかバカだということはないし、世間的にはバカだといわれている人間のほうが、よけいな知識・観念のバイアスがかかっていなぶん、じつはもっと深く率直に何かを感知していたりする。

数年前、哲学思想系の知識人である東浩紀が主宰する批評家養成塾というようなサークルがあって、有名知識人を講師に呼んで生徒の優秀作品のいくつかを講評する、というイベントがYoutubeにあげられていた。そのとき、二十代の女子の生徒が『苦界浄土(石牟礼道子)』の感想批評文を提出し、「現在のこの本に対する多くの知識人の評価は<希望>の書というような内容だが、それは違う。ここに書かれてあるのはあくまで<絶望>であり、絶望をかみしめた向こうにしか希望はない」というようなことを主張していた。

これに対して、講師や東浩紀たちは、「あなたの絶望という言葉に対する扱い方は幼稚であり、これではだめだ」というようなことを口々に評していた。

で、そのとき僕は、何を偉そうなことをほざいていやがる、という感じで、ちょっと不愉快になった。

女がいったん「絶望」とか「かなしみ」という言葉を口にしたとき、男はあんまりなめたことをいわないほうがよい。そういうことに関しては、どんな立派な知識人であろうと、男なんかそのへんのバカギャルの10分の1もわかっていないのだ。女は、女であるというそのことにおいて、男よりもはるかに深くその内実を体感している。

もちろん批評文を書くテクニックの問題というのはあるにちがいないが、若い娘に対して「ほんとの絶望というのはあなたがいうほどかんたんなことじゃないんだよ」といわんばかりの、そのしゃらくさい口ぶりがどうにも鬱陶しかった。だったらこちらも、女はみんな、おまえらみたいな尻軽なインテリよりもずっとよく知っているんだよ……といいたくなってしまう。

そしてそれはまあ、現在のこの国の大人の男たち全般の軽薄さと横着さの問題でもあるのかもしれない。

 

この国のコロナ対策において、政府・官僚という権力社会の伝統の愚劣さと醜悪さがこんなにもあからさまに露呈してくるなんて、大きな驚きと嫌悪感とともに、われわれはまったくもって途方に暮れてしまう。死んでしまうのは仕方ないとしても、多くの人々があんな連中に殺されねばならないというのは、愉快であるはずがない。この国の権力社会の愚劣と醜悪さの伝統がここに極まれりという感じだ。

この国の民衆は、さしあたって食うに困らなければ、あんな醜い政権でも許してしまう。今回のコロナ禍によって食うに困る人が増えたのだろうが、それでも今のところはこの国の大多数でもないのだろうし、政府・官僚は「だったら構やしない」と多寡をくくっている。もっとひどい状況にならなければ、あの連中は目が覚めない。

連休が明ければこのままではすまない……といっている人は多い。それでも政府は、なおもごまかしごまかしグダグダとやり過ごそうとするかもしれない。もはや彼らが心を入れ替えることなど当てにはできない。どうにもならなくなって勝手に逃げ出してくれるのを願うしかない。そうしてわれわれは、あの敗戦直後のような焦土と化した景色の中からやり直してゆかねばならないのだろうか。そのとき僕は、生きているのだろうか。

僕は、社会においても個人の人生においても、「どうすればいいのか?」というような問題などないと思っている。「どうなってゆくのか?」という問題があるだけだ。「地獄でなぜ悪い?」というようなタイトルの映画があったが、あってはならない社会もあってはならない人生もないと思っている。うんざりするだけの現在のこの社会だって、それが現実に存在しているかぎり、ひとつの歴史の必然だ。取り返しのつかない歴史の必然だ。人それぞれ、社会それぞれ、せずにいられないことをしながら歴史を歩んでいる。

現在のこの国においてこんなにも醜い政権が生まれてきてしまったのも、すでにそれが存在しているということにおいて、まぎれもなく歴史の必然なのだ。

生まれてすぐに死んでゆく子供を見送るのは、とてもかなしい。死かそれがその子の人生の必然だったのであって、今さら取り返しのつくことではない。

この歴史の流れにおいて、だれの力も信じない、だれの罪も問わない……それが日本列島の「なりゆき」の文化の伝統であり、世界中の原始人の世界観や生命観だったのではないだろうか。原始時代の人類は、それほどに弱い猿だったし、すでにそれほどに高度な思考を持っていた。そしてそれが、究極の未来の人類の世界観や生命観でもあるのではないだろうか。

 

東浩紀は、こういっていた。「これからの思想・哲学は、知識の豊富さだけでも地頭(じあたま)のよさだけでもだめで、歴史に対する<教養>の大切さを見直す必要がある(教養主義の復活)」と。

まあ、現代の浮ついた思想・哲学の世界に対する批判としては、たしかにもっともらしい意見だが、ただ歴史をお勉強してインプットすればよいというようなものでもなく、歴史とどう向き合うのか、という問題もある。

ユダヤ教に対してキリスト教が登場し、天動説に対して地動説が生まれてきたとき、それぞれ既存の千年の歴史を批判し乗り越えてゆこうとする動きがあった。

東浩紀はたしかに現在の薄っぺらな思想・哲学の世界と戦っているが、戦う相手は、歴史そのものでもある。歴史を乗り越えてゆかねばならない。

原始時代は700万年続いたし、それなりに目覚ましい進化もあったが、文明社会の歴史は、わずか5千年にすぎない。そしてそのあいだに目まぐるしく変更され乗り越えられてきたのは、つねに人間性=自然から逸脱してゆく歴史であったからで、つねに人間性=自然によって変更され乗り越えられてきたのだ。したがってそれは、最終的には人間性=自然に還ってゆく歴史である、ということになる。

自然に還ることがいかに困難であることか。そして人は、永遠に自然に還ることを夢見ている。

生きものの誕生と死は、自然そのものである。そのことをよろこびかなしむ感情が人の心から消えてなくなることはない。

なんのかのといっても文明社会の歴史は、民主主義を目指すかたちに収まってきた。それは、権力社会が、民衆がそなえている「(人間性の)自然」によってたえず照射され淘汰されてきた、ということだ。

 

ただ、この国の民衆社会は、権力社会を監視しないという伝統がある。つまり、権力社会とは別の民衆社会独自の自治運営の歴史を歩んできた。そしてそれは、原始的であると同時に、未来的民主主義的なシステムでもあった。つまり、原始的だからかんたんに権力社会から支配されてしまうし、原始的だからこそ高度に未来的でもあった。したがってなんのかのといっていっても、政治的にも文化的にも、民衆社会が先駆けとなって権力社会も変わってきたのだ。

たとえば古代において、漢文が主流の権力社会に和歌の文化を浸透させていったのは、「詠み人知らず」の民衆社会だった。そうして、権力社会においては下層であったはずの、額田王をはじめとする有能な女流歌人が登場してきた。和歌は、民衆社会から生まれ育ってきたのだ。

また、平安末期の武士階級の台頭も、地方の民衆社会の集団性によって押し上げられていったのだし、明治維新だって、まず民衆社会の胎動があったから下級武士が台頭していったのであり、薩長の下級武士はもとより、新選組にいたっては農民が出自の近藤勇がリーダーになったりしていた。

そうして太平洋戦争のみじめな敗戦に打ちひしがれていたこの国がたちまち目覚ましい復興を遂げていったのも、民衆社会のダイナミズムに先導されてのことだった。

この国の民衆社会はたやすく権力社会に支配されてしまうが、同時に、民衆社会の盛り上がりに先導されて新しい時代や新しい権力社会が生まれてくることにもなる。

現在のこの国にあんなにも愚劣で醜悪な政権がのさばっているのも、けっきょく民衆社会の活力が衰退していることにあるのかもしれない。こんな民衆にはあんな総理大臣がお似合いだ、といわれても仕方がない。権力社会に抵抗するのではない。権力社会を置き去りにしてしまうくらい民衆社会が独自に盛り上がっていかなければ、新しい時代は生まれてこない。

 

よりよい時代とは何か、というような議論をしてもしょうがない。人類の歴史は、よりよい時代に向かって流れてきたのではない。「どうなってもいい」というのが基本だから変遷してゆくのであり、それが、直立二足歩行の起源以来の人類の歴史の無意識である。

言えることはただ、最終的には直立二足歩行の起源に向かい、人類滅亡に向かっている、ということ。原初の人類は「う死んでもいい」という勢いで立ち上がったのだし、人類の歴史は「滅亡」に向かって流れてゆく。

原初の人類は、二本の足で立ち上がったときに青い空を見上げ、その「遠いあこがれ」を抱いて歴史を歩みはじめた。その空漠として何もないことへの「遠いあこがれ」、それが「もう死んでもいい」という勢いであり、「どうなってもいい」ということだ。すなわち「死へのあこがれ」……原初の人類は何か目的があって二本の足で立ち上がったのではない。気がついたら立ち上がっていただけだ。

われわれの人生だって、気がついたらこんなしょうもない人生を生きてしまっていただけだし、しかしそれが人類普遍というか、この世の中のほとんどの人の人生のかたちではないだろうか。

まあ、いいこともあれば、悪いこともあった。過ぎてしまえば「何もなかった」のと同じこと。民衆は、そういうことを本能的に知っている存在だから、権力者にたやすく支配されてしまうし、権力者を置き去りにして新しい時代に分け入っていったりもする。原初の人類が二本の足で立ち上がったときのように、新しい時代がどんな時代になるかもわからないまま「もう死んでもいい」という勢いで分け入ってゆく。そういう「愚かさ」こそ人が人であることの証しであり、民衆とはそういう存在なのだし、その勢いで人類史のさまざまなイノベーションが生まれてきたのだ。

民衆とは主体性を持たない有象無象であり、それこそが人間性の自然・本質であり、その有象無象の「祭りの賑わい」に先導されて新しい時代が生まれてくる。したがって人類の集団性が最終的には原始時代の集団性に向かってゆくのは当然のことで、原初の人類は有象無象の「祭りの賑わい」で立ち上がっていったのだ。こんな革命的なことは、有象無象にしかできない。

人類のもっとも豊かな知性や感性は、有象無象の「愚かさ」の中にある。その「愚かさ」は偉大な科学者や哲学者や芸術家の中にもあるわけで、知ったかぶりの中途半端な知識人に「よりよい未来の社会像」なんか説かれても「なんのこっちゃ」と思っておけばいいだけで、彼らの計画する通りの社会がやってくるはずもない。

人は可能なことしか計画できない。しかしイノベーションとは、不可能なことが可能になることである。新しい時代とは、前の時代において不可能だったことが可能になることだ。したがって、「計画」よって生まれてくるのではない。新しい時代は、予期せぬ出来事としてやってくる。

まあ哲学者が言葉にできないことを言葉にする人であるように、計画できない世界に分け入ってゆくのが人の知性や感性であり、凡庸なインテリの「未来の計画」が何ほどのものか。「計画する」とか「予想する」というそのことが凡庸なのだ。

つまり、新しい時代とか新しい知見は「計画=予想」によってではなく、予期せぬ出来事と遭遇する「発見」によってもたらされる、ということであり、それは計画や予想ができない「愚かな」ものによって体験される、ということだ。そして偉大な哲学者や科学者はみな、そのような「愚かな」部分を持っている。

「愚かな」民衆こそ、じつはもっとも深く豊かな知性や感性の持ち主なのだ。その代表選手として、僕は、十七歳のバカギャルを想定している。同じ民衆でも、大人の男の頭の中身なんか、こざかしい観念で汚れ切っている。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』・下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

コロナと直立二足歩行の起源

こんなご時世だからコロナウイルスのことを書かねばという強迫観念は依然として続いているのだけれど、僕に書けることなどたかが知れているから、途方に暮れてしまう。

どうすればいいかとということなどまるでわからないし、これからどんな世の中になるのかということも、僕がいえば、ただの希望的観測になってしまう。

ただ僕自身は、この十年以上、何もかも打ち捨てて精神的にも身体的にも経済的にも「アフターコロナ」の世界を生きてきたという思いはある。一日中家にじっとしていても、知りたいことに向かって思考実験を繰り返していれば、退屈なんかぜんぜんしない。

僕にとっての思考実験とは、パソコンの画面に向かって言葉を置いてゆくこと。そこから「人間とは何か?」とか「日本人とは何か?」ということの思考の、新しい展開や新しい発見が生まれてくる。

寺山修司は「書を捨てて町に出よう」といった。それは、本を読む必要なんかない、ということではない。本を読んだということだけで満足したり自慢したりしてそこで終わっているのではなく、そこから思考や感性が旅立ってゆかねばならない、といいたかったのだろう。

吉行淳之介は、どんな大家や権威の言うことだって何かしらの限界がある、そこに気づかねばならない、というようなことをいっている。その通りだと思う。どれほど尊敬している著者の書いたものでも、何度も読んでいるうちに、「それはちょっと違うのではないか」とか「そんなことあるものか」という疑問や批判が生まれてくる。それはもう、夢中になって読んだからこその話で、そうやって思考がはじまるのだし、そうやって科学も人類の歴史も進歩してきた。

というわけで、人類学や日本文化論においても、腑に落ちないことがたくさんある。そこから先はもう本に書いてないのだから、自分で考えてみるしかない。そうやって僕は、書を捨てて思考の旅に出ることをはじめた。

古代のソクラテス孔子がどれだけの本を読んだかといえば、現在の読書家たちよりもずっと少ないにちがいない。それでもソクラテス孔子は、彼らよりもずっと深く豊かに考えていたはずだ。

だれでもとは言わないが、中途半端な読書自慢なんて、みずからの思考の薄っぺらさをさらしているだけだったりする。極端なことをいえば、1冊も読んでいなくてもわれわれよりずっと深く豊かに思索している人はいる。

「現在の地球上の人類はすべてホモ・サピエンスである」という人類学の通説は極めて疑わしい、と僕は考えている。言い換えれば人類なんて原始時代からすべて「ヒト」というひとつの人類種だったのであり、滅びていった人類種などあるものか。7万年前の地球上に共存していた「ホモ・エレクトス」も「ホモ・サピエンス」も「ホモ・ネアンデルターレンシス」も、みんな同じ「ヒト」だったのであり「ホモ・サピエンス」だけが生き残ったのではない。旅をするサルである人類の血なんか、いずれは地球全体で混じり合ってしまう。それはもう、原始時代からそうだったのだ。どうして『サピエンス全史』とかというクソみたいな本に多くの人が感動しているのだろう、僕にはわからない。

ただインプットするだけでは「思考」とは言わない。それだけでは、たんなる「記憶」にすぎない。「思考」とは、言葉をアウトプットしてゆくことだ。

人は「言葉」で思考しているのではない。「思考」とは言葉にならないものと向き合うことであり、そこから言葉に向かって分け入ってゆくことだ。言い換えれば、言葉にできなくても「思考」は成り立つということ、言葉にできないことと向き合っているその過程を「思考」という。だから、どこかのバカギャルだって、われわれよりずっと深く豊かに考えている部分を持っていたりする。

『サピエンス全史』を書いた人だって、どれほど博学で聡明であろうと、「現在の地球上の人類はすべてホモ・サピエンスである」といっている部分だけは、僕からすればただのアホなのですよ。そのことに対する反論はもう、何冊も本にできるくらいこのブログに書きましたよ。そうやってこの十数年、何もかも打ち捨てて思考実験を積み重ねてきた。

結論だけをいえば、アフリカのホモ・サピエンスはアフリカの暑い環境に順応するように進化し完成されていった人種で、7~5万年前はアフリカの外には一歩も出ていっていない。ケニアが嫌ならタンザニアに行けばいいだけのことで、どうしてわざわざ氷河期のヨーロッパに移住してゆくものか。ネアンデルタール人がアフリカの出口でホモ・サピエンスの遺伝子を拾い、それを世界中にばらまいていっただけのこと。まあ、現在に残る状況証拠からは、そうとしか考えられない。遺伝子解析の結果に対する解釈なんか、彼らは初めにホモ・サピエンスの拡散ありきでそのようにこじつけているだけのこと。

今どきの古人類学者なんか、状況証拠に関しては「それは謎である」と逃げていることがたくさんあり、僕はそこのところを必死に考えた。

ろくに本を読んだこともないような庶民をなめて知ったかぶりされても、そうかんたんにひれ伏すつもりはない。どれほど知識の量に差があろうと、思考の能力は五分と五分なのだ。知識を詰め込むことは、思考することとはまた別の能力であり、たとえ東大教授だろうと、その専門領域においても、そのていどのことしか考えられないのか、といいたくなる部分はある。

 

僕が現在の人類学や日本文化論の学問世界に対して反論したいことのモチーフを挙げると、おおよそ次のようなことだろうか。

 

 

直立二足歩行の起源

人類拡散

ホモ・サピエンスネアンデルタール人

火の使用の起源

貨幣の起源……きらきら光るもの

都市の起源

縄文文化

天皇の起源

枕詞論

やまとことばの起源

まれびと論

古事記

やまとなでしこ

「かわいい」の伝統……土偶から初音ミクまで

 

 

すべて、一冊の本にできるくらいの分量はブログに書いてきた。基本的には、人類学と日本文化論に関する事柄で、世の中の政治経済のことは何も知らないし、ほとんど考えたこともない。

だからコロナウイルスのことは、どうすればいいかというようなヴィジョンなどさらさらない。

ただ、現在のこの国にこんなにも醜悪な政府・官僚が存在するというのはどういうことだろう、その歴史的な本質はどこにあるのだろう、ということは気になる。この国ならではの権力社会と民衆社会の二重構造についてはもっとよく考えてみたい。

権力社会なんか世界中どこでも醜悪なものだろうが、この国独自のいじましさ意地汚さというのがある。

それと、明治以降に受けた西洋的近代合理主義の洗礼によって、この国全体のかたちがしだいに歪んでいったということもある。

もしも「国体」なるものがあるのなら、それは明治以降に形成されたものではなく、縄文時代以来の1万年の歴史において再検証されねばならない。さらには、人類700万年の歴史から問い直すことだって無駄ではない、と僕は考えている。

 

直立二足歩行の起源、という問題設定は正確ではない。二本の足で立って歩くことくらい、サルでもかんたんにできる。サルがヒトになったことの証明は、つねに二本の足で立っている存在になったことにある。

猿にとっての二本の足で立つ姿勢は、べつに難しいことではないが、身体に大きく負荷がかかる上にとても不安定で、サルとしての俊敏な動きを失う。だからサルは、その姿勢をすぐにやめてしまう。

それでも原初の人類は、その姿勢を常態化していった。それは、世の人類学者がいうように、そのことによる何かのアドバンテージがあったからではない。アドバンテージがあるのなら、ほかのサルでもいずれするようになるはずだが、チンパンジーはいまだにそれをしようとしない。アドバンテージなんか、いくつ並べ立てても無駄なのだ。だから、人類学者の考える仮説は、ぜんぶまちがっている。

アドバンテージは何もなかったが、それでも立ち上がった。それによって身体の大きな負荷と不安定と、精神的な不安を引き受けながら立ち上がっていった。それでも立ち上がったのは、立ち上がるほかないような状況があったからであり、それらのハンデキャップを背負ってもなお立ち上がることを余儀なくさせられたのだ。

つまり、立ち上がるほかないような集団の状況と人と人の関係があったのだ。

たとえば密集した集団になったとき、その密集の圧力(=鬱陶しさ)によって、自然に立ち上がってゆく。立ち上がれば、ひとりひとりの占める地面のスペースは最小限になり、たがいの身体のあいだに空間の余裕が生まれる。そうして、鬱陶しかった他者の身体に対する親密観も芽生えてくる。また、その不安定な姿勢は、他者の身体を心理的な壁とすることによって安定する。

そのとき人類は、たがいの身体から影響を受け合いながら二本の足で立ち上がり、そして影響を受け合いながらその不安定な姿勢を安定化させていった。

すなわち人類が二本の足で立つ存在であるということは、たがいの身体が影響し合って関係を結んだり集団をいとなんだりしている存在である、ということだ。

他者の身体が存在しなければ、うまく立っていられない。このことを敷衍すれば、他者が生きていてくれなければ自分も生きていられない、ということであり、そのようにして人はけんめいに他者を生きさせようとする存在になっていった。

 

二本の足で立つ姿勢を常態にしている人類は、存在そのものにおいてすでに集団から影響=圧力を受けている。もともとそれが集団を成り立たせるための姿勢として生まれてきたのであれば、集団を成り立たせようとする本能を持っている、ということでもある。

また、集団から影響=圧力を受けているということは、見えないところにいる他者からも影響=圧力を受けている、ということだ。このとき人の心には、上空から集団全体を見下ろすような無意識がはたらいている。いわゆる「幽体離脱」というような心的現象が起きていて、それはたとえば入眠時に「金縛り」にあうとかの身体が危機的な状況に立たされたときにもたらされるのだが、原初の人類が二本の足で立ち上がったときだって集団の密集状態が鬱陶しくて身動きできないという身体の危機的状況だったのだ。

彼らは、立ち上がったときに、解き放たれた気分で頭上の青い空を見上げた。人が青い空に対する遠いあこがれを持っているということは、青い空から見下ろす視線を無意識のところに持っているということでもある。「幽体離脱」の心的現象は、べつにオカルト的な神秘体験でもなんでもない。世界中のだれの心の中でもあたりまえに起きている、人類史の無意識なのだ。

原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、ひとつの「幽体離脱」の体験だった。つまりそのとき、集団の密集状態からの圧迫を受けて身体が危機に瀕したのだが、彼らはそこで混乱して散り散りに逃げ出すのではなく、一種の集団催眠にかかったような状態になって固まってしまった。そうして脳が、四本足で立っているみずからの身体のことを忘れてしまった。であればもう、その密集状態の圧迫から逃れるすべは二本の足で立ち上がることしかなかったのであり、無意識のままに気がついたらその姿勢になっていた。それはまあ、現象的には、天上からの視線に引っ張り上げられた、ともいえる。そういう「幽体離脱」の体験だったのだ。すなわち人が二本の足で立っていることは「幽体離脱」している状態であり、われわれはだれもがそのような心的現象の無意識を持っている。

だから人類は、だれもが遠くの「どこかのだれか」のことを想いつつ無際限に大きな集団になってゆくことができる。そしてそれは、自分のことを忘れてもうひとりの自分になることであり、そうやって心は想像力をはばたかせる。

われわれの意識は、頭の中の脳で起きているのではなく、頭の外のどこかわけのわからない空間で起きているように感じられる。イヤホンをつけてテレビを見るとき、その音声はイヤホンをつけた耳の中ではなく、画面から発せられているように聞こえている。こういうことだって、ひとつの「幽体離脱」であり、われわれの意識はすでに自分および自分の身体から離れてしまっている。

逆にいえば、自分および自分の身体に対する執着、すなわち「自意識」が強い人ほど、あるいは病気などをして身体の危機に落ちったときほど、「金縛り」になったり「幽体離脱」が意識の表面に現れてしまったりする。

通常は、だれにおいても無意識のところで「幽体離脱」が起きている。それはもう、生きものの「意識」のはたらきの属性なのだ。

 

疫病が蔓延すれば、人は、ふだんは意識しない「どこかのだれか」の死に大きく心を揺さぶられてしまう。それが、二本の足で立っている猿である人間の本性なのだもの。そうやって今、世界中が大騒ぎしている。

なのにこの国の政府・官僚をはじめとする権力者たちばかりが、そうした人間性を喪失したまま、ぐずぐずとあいまいな対応に終始している。自分および自分の立場に執着する彼らには、「民衆」という「どこかのだれか」を想う心が、決定的に欠落している。まあ、迷信深くて、意識の表面での「幽体離脱」を起こしやすい連中なのだ。彼らは今、「このまま収まってくれ」と、必死に祈祷している。しているのはそれだけだ、ともいえる。まあそれがこの国の権力社会の伝統なのだからしょうがない。

愚劣で醜悪なのは、総理大臣ひとりだけではない。この国の権力社会の伝統のそうした部分をそのまま抱え込んだ者たちがどんどんそのまわりに集まってきて、現在の政府・官僚を形成している。

なんとおぞましいことかと思う。

僕なんかどんなに困っても「助けてくれ」とおもうしかくもさけぶしかくもないにんげんだとじかくしているが、それでも、「そんなものさ」と心を素通りさせてしまうためには、僕は「人間とは何か?」という問いを放棄しなければならない。

文明社会というか権力社会は、人間の心を忘れた人間を生み出してしまう。だれだって人間で、だれだって人間の心を持っているはずなのに、まるで人間の心を持っていないかのような思考や行動をしてしまう。

つまり、人間の思考や行動なんて、人間としての本性とは関係なく、生きてきた「なりゆき」としての環境世界という条件によって決定されている。であれば、「人間とは何か?」と問うことこそが、あの人間たちの愚劣さと醜悪さの横を素通りしてゆくことができる道であるのかもしれない。あんな人間たちの思考や行動に人間の本性が現れているのなら、人間なんか滅びてしまったほうがよい。

たとえ軽薄で強欲な支配者であっても、ひとたび疫病が蔓延すれば心を揺さぶられ、「どこかのだれか」という他者に救いの手を差しのべようとしてゆくのが、二本の足で立っている存在である人間の本性なのだ。それはもう、善意とかヒューマニズムというようなことではない。四本足の猿が二本の足で立ち上がっているという、そのこと自体にそういう心の動きが生まれてくるような仕組みがはたらいているのだ。

 

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それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

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初音ミクの日本文化論』前編……250円

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疫病と祈祷

コロナウイルスのことを考えると、この国の政府・官僚の醜悪さばかり気になってうんざりしてしまう。それでも考えるのが人としてのたしなみだという強迫観念も付きまとうのだが、ひとまずこのブログのテーマである「人間とは何か」とか「日本人とは何か」という問題に立ち戻ってみることにする。

まあ、政府・官僚の醜悪さだって、そういう「日本人とは何か」という問題でもある。

僕の思想的なスタンスが右翼であるのか左翼であるのか、よくわからない。どちらでもないような気がするが、どちらでもあるような気もする。まあ、節操がないのだ。正義などというものは信じないし、信じないのが日本人だとも思う。だからあの連中のように思い切り醜悪な人間もいるし、逆にとても純粋で清らかな人もいる。

今どきの右翼が「日本人は特別だ」とか「日本人に生まれてよかった」などと合唱しているのはまさに醜悪そのものの光景だが、日本人が世界的に見てちょっと風変わりな民族であるという認識は、あながち的外れだともいえない。外国人が「日本人は異星人だ」といったりする。

ただそれは、「特別優秀だ」ということではない。その特異性は、氷河期以降に大陸から切り離されて四方を荒海に囲まれた島国で孤立した歴史を歩んできたために文明社会の洗礼を受けるのが遅れ、その間にひとり原始的な文化をそのまま洗練させてきたことにあるわけで、もとはといえば世界中のすべての地域で共有されていた文化なのだ。それが縄文時代の1万年だった。その1万年に育ってきた原始的な集団性や精神性や美意識の洗練があった。

おそらくその1万年によって、現在まで続くこの国の文化の基礎がつくられたわけで、それは世界中の人類が共有している歴史の無意識でもあり、何か「特別」というようなものではない。

 

コロナ後の人類世界は新しい時代に突入してゆく、といわれている。そうあってほしいが、本当にそうなるかどうかはわからない。ただ、人類の未来の文化は基礎的原始的なかたちになってゆくであろうことは想像がつく。

この宇宙は、何もないところから出現して、いつかは消えてゆく。古代ギリシャの哲学者のヘラクレイトスは、「宇宙の根源は<火>にある」といった。燃える「火」は出現と消滅が同時に起こっている現象である。現在の最先端の量子力学では、すべての物質は出現と消滅を繰り返す「現象」であって「存在」ではない、というようなことがいわれている。

生(誕生)と死、生は死であり、死は生である、ということ。宇宙の生成がそういう循環構造になっているとするなら、究極の未来は「消滅」であり、明日という未来は原初に還ってゆく、ということだろう。つまり、原始時代は人類の未来である、ということ。もちろん表層的なかたちが同じであるはずはないが、本質的にはそういうことなのだ。そして現在においても、もっとも発達した資本主義と原始時代が混在しているということであり、だからこそ未来は原始時代になってゆく。

現在の社会にも、個人の内面においても、すでに原始性は息づいている。

原始時代を知ることは「今ここ」を知ることであり、「今ここ」は、たえず原始性によって変更されてゆく。そうやって人の心も世の中のさまも移ろい流れてゆくのだし、移ろい流れてゆく先は原始時代なのだ。

まあ、年寄りはみな原始人である。歳をとればわかる。子供も原始人であるが、この世のもっとも豊かな知性や感性の持ち主だって、大いに原始人的である。

コロナ後の人々の心や行動は、今よりもっと原始人的であるにちがいない。そして日本列島の伝統もまた、原始的な心を洗練させるようにしてはぐくまれてきた。

つまり原始性を基礎にした日本列島の伝統は、もっとも世界中の人々と共有できるはずのものなのだ。なのに現在のこの国の政府のいい加減なコロナ対策は、皮肉なことに世界中の足並みからもっとも外れており、もっとも人間性の自然から逸脱してしまっている。

こういうときに命懸けで病に斃れた人を救おうとしてゆく人がいるのが人間の世界なのだ。中世以来のペストの蔓延でさんざん苦しめられてきたヨーロッパ人は、歴史の記憶としてそういうことをよく知っている。だから、国の支配者はそういう態度を示し、みんなはそれに協力する、という国民的合意を持っている。

しかしこの国の権力社会は、安全な場所で「祈祷」だけしておけばいい、というのが伝統で、じっさいの防疫活動は民衆自身の手に委ねられてきた。現在のこの国の政府が本気でコロナ対策に取り組もうとしないのも、けっきょくそういうことかもしれない。彼らは、大和朝廷の発生以来、ほとんど民衆とはかかわってこなかったわけで、ただの「雲上人」であり「お上」で通してきたのだ。

ほんとに情けないし、恥ずかしい政府だと思う。この国の権力社会の伝統のもっとも醜悪な部分がまるごと染みついている。

 

「日本人は」とか「日本社会は」と、ひとくくりにして論じることはできない。千数百万年前の大和朝廷発生以降の日本列島は、権力社会と民衆社会が大きく乖離した二重構造のまま歴史を歩んできた。

たとえば、

1500年前の大和朝廷は、朝鮮半島から仏教を輸入した。おそらく支配者が、民衆支配のためにはそれが必要だと判断したからだろう。そのころは大和朝廷が生まれて間もないころで、税の徴収をはじめとして、民衆支配がまだ本格化していなかった。本格化したのは、その100年後の大化の改新以降の律令制が整えられてきてからのことだ。

日本列島は、弥生時代からすでに朝鮮半島との交易をはじめていた。そこからの500年以上のあいだに、どうして仏教が入ってこなかったのだろう。

すでに神道があったからではない。神道は、仏教に対するカウンターカルチャーとして民衆のあいだから生まれてきたのであって、後発の仏教が土着の神道を凌駕したという歴史文書は、のちの権力者による捏造にすぎない。

弥生時代の日本列島に宗教などなかった。そのころの日本人には、宗教そのものに対する関心がなかったから、仏教を輸入しなかったのだ。宗教に関心がある風土であったのなら、仏教を試してみようとする者はかならず現れてくる。もともと宗教は何の現実的効果もないのだから、疫病や飢饉のときには、宗教心があるのなら新しい宗教にすがりたくなる。

弥生時代から古墳時代にかけての日本列島には、仏教を受け入れることができるような宗教的土壌がなかった。

 

日本列島ではどんな宗教でもファッションとして他愛なく受け入れてきたが、本格的な宗教心が日本人全体に根付くことはついになかった。仏教だって、歴史の水に洗われて、けっきょく今では有名無実化してしまっている。

神道が宗教らしい姿になってきたのは平安時代以降のことだが、本質的には宗教ではないし、宗教ではないところに神道の本質がある。神道が現在まで残ってきたのは、日本人には「宗教ではない宗教」が必要だったからだ、まあそれと天皇を想う心のよりどころにもなってきたわけだが、ほとんどの神社は天皇を祭神にしているわけではない。また多神教といっても、参拝者は祭神の名など気にしていない。神社は、神社の姿をしていればそれでよい。祭神が何であろうと、鳥居があって森があって、ときには参道に白い玉砂利が敷き詰められている、その清浄な気配こそ尊いのだ。

飛鳥・奈良時代の仏教であろうと、明治以降の国家神道だろうと、いつの時代も宗教にしがみついてきたのは権力者ばかりで、民衆にとっての宗教はいつだって華やいだ気持ちになるための口実にすぎなかった。

中世に浄土真宗日蓮宗が民衆社会に根付いたといっても、それらはタイやチベットのような本格的な仏教ではなく、日本的に換骨奪胎された「宗教ではない宗教」だった。禅宗にしても浄土真宗にしても、「救われたいという願いを持たなないことが救われる道だ」というようなことをいう。つまり、そういうかたちにしないと宗教心のない民衆社会に宗教を根付かせることができなかった、ということだ。

結婚式は神道キリスト教で行い、葬式は仏教でする。お寺で除夜の鐘を聴いて、そのまま神社に初詣に行く。日本人はこんなことに、なんの抵抗感もない。

民衆にとっては宗教なんか娯楽のひとつであり、そういうかたちで芸能や冠婚葬祭等の文化を育ててきた。それだけのことだが、権力者たちは宗教を民衆を支配するためのもっとも有効な道具として自覚しつつ、ミイラ取りがミイラになるようにすっかり迷信深い人間になってしまう歴史を歩んできた。まあ権力社会それ自体が、本質において宗教と別のものではない。

人は権力を持つと、不可避的に迷信深くなってしまう。権力者が「祈祷」にすがって疫病を克服しようとするのは、平安時代も現在の安倍政権も同じなのだ。しかもこの国は権力社会と民衆社会の「契約関係」がない伝統だから、この国の権力者たちは、ほかの国の権力者以上に迷信深い。

今どきのこの国は、政府も官僚もその他の右翼たちも屁理屈でごまかそうとするこずるい人間ばかりだが、その態度そのものが迷信深さなのだ。

日本人が迷信深いのではない。日本列島の権力社会がどこよりも迷信深い伝統を持っているだけなのだ。彼らだって日本人だけど、彼らのもとに日本列島の伝統が宿っているとは思わない。

われわれは、真の民衆社会の伝統を取り戻さねばならない。大和朝廷発生以前の日本列島は、とにもかくにも全員が「民衆」だったのだから。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

「もう死んでもいい」と思うしかないのか

ここまで世界のコロナウイルス感染が進めば、われわれ低所得者層の老人はもう、死を覚悟するしかない。最終的には人類の7割が感染し、感染した老人の3割は重篤化して死んでゆく、といわれている。ワクチンができるまでにあと2年かかり、そのあいだにウイルスは変異してさらに致死率が高くなるらしい。

しかもこの国の政府の対応は世界でもっともいい加減だから、最終的には世界でもっとも悲惨な事態になるのかもしれない。

なぜこんな愚劣で醜悪な政府が生まれてきてしまったのだろう。

ともあれ僕はもともと不用意な人間だから、感染しない、という希望なんか持つことはできない。感染するかしないか、自分に免疫力があるかどうかは、もはや自分が背負っている運命の問題だ。

僕は生き残ることができるのだろうか……?何が何でも生き延びたい、と思うべきではない。したいことはまだまだたくさんあるが、まあべつにしなければならないことだというわけではない。

もちろん、「もうじゅうぶんに生きた」とか「人生に悔いなし」というような感慨はさらさらない。しょうもない人生だったし、なんとまあ愚かなままに生きてしまったことかと、叫び出したいほどに悔やんでいる。

謙遜とか卑下したりしているのではない。この世の中には、愚かでないとわからないこともある、ということ、そういう自信はある。人間の「愚かさ」をなめてもらっては困る。愚かだからこそ、この世の中の一流の知識人に対して「それは違う、その程度のことしか考えられないのか」といいたいことがある。それをぜんぶ吐き出して死んでゆきたい。そこがまあ、なやましいところだ。

 

国家の危機のときにはナショナリズムが台頭する、とよくいわれるが、現在の政府のコロナウイルス対策は国民に支持されているのだろうか。

ナチスドイツは、ユダヤ人の富を無理やり奪って、とにもかくにもユダヤ人以外の国民の生活水準を底上げした。だから支持されたのだろうし、現在の世界の支配者たちも、ひとまず国民の生活を守ろうとがんばっている。そうやってドイツのメルケルやニューヨークのクオモ市長が支持率を上げている。それに対して現在のこの国の政府は、困窮しはじめている国民を救うための有効な対策を取っていない。こんな絶望的な状況でも、国民は政府を支持するのだろうか。政府は「それでもわれわれは許される」「保障手当なんか出さなくても国民は勝手に自粛する」と思い込んでいるらしい。たしかにそれが大和朝廷発生以来のこの国の権力社会と民衆社会の関係の伝統であるのだが、ただ現在のようにひとまず民主主義と呼ばれなおかつ高度資本主義と呼ばれる社会においては、それだけではすまない複雑なシステムがはたらいている。

こんなご時世においても、「従順」な民衆は働きに出かける。それは、経済の問題もあるが、同じくらい「人は<もう死んでもいい>という勢いで生きている」という命のはたらきの本質の問題も加わっている。生きるとはエネルギーを消費するいとなみであり、生きようとするからこそ死んでしまうかもしれないこともいとわないのだ。

現在のこの国の政府は、国民を救いたくないのか、あるいは責任を取りたくなくて逃げているだけなのか。いずれにせよ今や総理大臣以下の政府官僚なんてサイコパスばかりだ、というような状況を呈しているのだが、それでもナショナリズムが盛り上がるのだろうか。

緊急事態宣言が出されても、政府の目論見通りには外出は減っていなくて、相変わらず多くの人々が満員電車に乗って会社に出かけている。それはお金を稼がないと生きてゆけないからということだけだともいえない人間の生態の本質の問題が加わっている。

半年や一年くらいは生きてゆける貯金を持っている人はいくらでもいるし、それでも満員電車に乗るのは、自分の命を切迫して考えていないからだろう。これによって明らかになったのは、人は自分の命を切迫して考えながら生きているわけではない、ということだ。

だから、休業補償のともなわない空疎な緊急事態宣言を出してもあまり効果はないし、おそらくナショナリズムが盛り上がることもない。多くの国民は、国のことなど当てにしていない。今のところ国よりも会社に従うし、それは、自分の命のことなんか切迫して考えていない、ということだ。死に近い存在である老人でさえも、のんきに花見や巣鴨の地蔵通りに出かけて行ってしまう。いや、老人だからこそそういう行動をとってしまう。人は歳を取ればとるほど本能的になってゆくわけで、たしか孔子もそのようなことをいっていた。

 

生きものに、自己保存の本能なんかはたらいていない。命のはたらきとはエネルギーを消費して自滅してゆくことによって命を成り立たせるとういう、そういういわば利他的なはたらきなのだ。命のはたらきは、自滅してゆくことによってみずからの身体を生きさせる。命にとってはみずからの身体だって「他者」なのだ。

生きものは、「もう死んでもいい」という勢いでセックスをして子を産み育てる。命はもともとそういう「利他的」なはたらきだから生きものは集団になるのだし、またそれぞれの集団が勝手に自滅してゆくかたちで生成しているから、生物多様性ということにもなる。人間の生態だって根源においてはそれぞれが「利他的」であることによって集団を形成しているのだし、日本列島にはことのほかそうした原始的な集団性の文化を洗練させてきた伝統がある。

会社に行って金を稼ぐことはひとまず社会の経済活動に参加していることであり、本質的生態学的には自分が生きるためというより他者を生きさせるいとなみなのだ。自分の命が大事なら、だれもこんなときに満員電車に揺られて会社になんか行かない。無意識のところでは、みんな死ぬことを覚悟している。人間として生きものとして、「もう死んでもいい」という勢いを持っている。

政府が何もしてくれないのだから、みんな命がけで外に出て働くしかない。感染の事態がさらに悪化したとしても、外出した者たちの責任ではない。彼らだって、罹患することを覚悟で社会のため家族のため他者のために働きに出ているのだし、医者や看護婦ならなおさらに「もう死んでもいい」という覚悟がなければ逃げ出さないでいられるはずがない。まあ、そういう勢いとともに人類の歴史は進化発展してきたのだ。

 

経済的にも衛生的にも安全なところにいる政府や官僚たちは、今やもう、自分たちの立場を守るために多くの国民を殺しにかかっている。彼らのコロナ対応がいかに愚劣で悪辣であるかをこと細かに語る能力なんか僕にはないが、それを受け入れ許してしまっている国民も一定数いるのが現在この国の状況なのだろうし、そういう状況を生み出してしまう歴史風土がある。

とりあえず今年いっぱいは衆議院を解散して選挙をすることなどないのだろうし、この政府に支配され続けることになる。彼らはもうわれわれを殺しにかかっているのだから、あきらめてというか途方に暮れながら覚悟を決めるしかない。

現在のこの世の中には、自粛したくてもできない人や、自粛を余儀なくされながら収入の道が途絶えて途方に暮れている人がたくさんいる。そういう「どこかのだれか」という他者=国民に思いをいたすこともなく、優雅に自宅のソファでくつろぎながら紅茶をすすったり犬を抱き上げたりしている動画をこれ見よがしにSNSの動画に挙げていたあの総理大臣の無神経な思考と態度には、心底むかむかする。彼は利用されているだけだという意見もあるが、利用されるままに嘘をつきまくりながらのうのうとその地位に居座っているというそのことが極悪非道なのだ。ハンナ・アーレントは「凡庸な悪」といったが、ときには凡庸な小ずるさほど残酷な心もないのかもしれない。

ここまでくればもう、こんな国など滅びてしまえばいい、と思えてくるし、日本列島には、そういう思いが募ってくるような歴史風土=伝統がある。

「許す」ことは「幻滅する」ことだ。「幻滅する」ことは「やさしさ=愛」でもある。「やさしさ=愛」は「思考停止」である。そうやって人は他者を許しているのであり、男と女の関係もつまるところそうやって成り立っているのではないだろうか。

文明社会を覆う制度的な観念(日常=穢れ=ケ)から解き放たれて生きものとしての本能(非日常=禊ぎ=ハレ)に遡行してゆく……そうやって人はセックスをしているのであり、それが日本列島の民衆社会の伝統的な無意識(=集団性)としての「祭りの賑わい」でもある。そこにこそ人類普遍の人間性があり、そこから真に人間的で豊かな感受性や心映えが育ってくる。

人類の関係性や集団性は「非日常=ハレ」の心を共有しながら活性化してゆくのであり、世界中のどの地域においてもそこから「伝統」が生まれ育ってきた。そしてそれはたんなるポピュリズムというようなことではなく、もっとも高度な「知性」のはたらきだって、「非日常=ハレ」の世界に超出してゆくことができる思考のことをいうのだ。

人類の伝統としての「歴史の無意識」であれ、高度な知性であれ、愚かな民衆社会の集団性を基礎にして生まれ育ってくるのであって、凡庸でさかしらな政治家や資本家やインテリの観念的思考の中に宿っているのではない。

「非日常=ハレ」の心を持っていなければ、人としてのセックスアピールも知性もない。

 

人の心は、「非日常=ハレ」の世界にあこがれている。

こんなにも嘘ばかりつきたおす現在の政府や官僚をわれわれ民衆はなぜ許してしまうのかといえば、嘘もまた「非日常=ハレ」の世界だからかもしれない。嘘を抱きすくめてしまうのは人間の性(さが)のようなものだし、日本文化にはことにそうした要素がある。

安倍晋三麻生太郎にセックスアピールなんかあるはずもなく醜悪なだけだが、それでも人の心は「嘘=非日常=ハレ」の世界にまどろむように彼らを許してしまう。まあ嘘をつかない安倍晋三麻生太郎なんか、なお醜悪でみすぼらしいだけだろう。嘘こそが、彼らの支配のための武器なのだ。

とはいえ、こんな嘘ばかりの政治はそろそろやめにしていただきたいものだと思う。世界に対して恥さらしだし、今回のような疫病禍の事態においては、少なからず他国に迷惑をかけてしまう。また、嘘を糊塗しようとして、他国との外交交渉で足元を見られていいように転がされてしまうことにもなる。

公文書を改竄するとか、統計をごまかして景気が良くなってきているように見せかけるとか、史上最大規模の財政出動のコロナ対策だと大見得を切るとか、彼らにとっては現実を取りつくろうためのただのごまかしでも、聞かされる民衆はその嘘の「非日常性」を抱きすくめてしまう。まあ、結婚詐欺師の嘘と何も変わらないのだから、民衆もそろそろ目覚めてもいいころかもしれない。

現在のこの国の政治状況は、傷口が放置されたまま膿が出まくっているような事態なのだろう。

ここまでくれば、あの政府が垂れ流す嘘にまどろんでいた人々の意識もようやく変わってきて新しい時代(=ルネッサンス)がやってくのだろうか。

すでに新しい時代の新しい意識に目覚めている人は一定数いるはずだ。そしてそれは、今までにはないまったく新しい意識になることではない。人類普遍の人間性=集団性を取り戻す、というだけのことだ。すなわち、ただ他愛なくときめき合い助け合う関係になろうとすること、それだけのことだ。

この非常事態の最前線に立っている医者や看護士は、みずからの死を賭してがんばっている。われわれは、そのことを想わねばならない。そして、世界中の死にそうな人々に対して「どうか生き残ってくれ」と願わねばならない。さらには、この国の政府や官僚がいかに醜悪かということに気づかねばならない。その向こうに「新しい時代」がある。

 

この事態が長引けば新自由主義膨張主義的な社会経済の構造が変わってくる、といわれているわけだが、そうなれば人々の意識も避けがたく同じではいられなくなってくる。もちろん既得権益者たちの多くはぎりぎりまでその流れを押し返そうとするだろうが、民衆の側はあんがいスムーズに順応してゆくにちがいない。難しいことじゃない。「もう死んでもいい」という勢いで他愛なくときめき合い助け合ってゆくこと、そういう人類普遍の伝統に還ればいいだけのことだ。人類の民衆社会にはそういう「原始性」が残っている。

まあヨーロッパは国の人口が半分になってしまうような疫病(=ペスト)を体験したという歴史を持っているから、現在はこの国以上に民衆どうしが助け合っている。しかしこの国の民衆社会だって、江戸時代以前は世界のどこよりも村で完結した自治運営のシステムを持っており、それが疫病の広範囲の蔓延を防いだともいわれている。それに、他愛なく新しいものに飛びついてゆくこと、すなわち「進取の気性」の伝統があるから、いざ目の前に「新しい時代」の空気が漂ってくれば、かんたんにそれまでのことを忘れてしまう。

まあこの国の権力社会はもともと民衆社会の意識と大きく乖離しているのだが、ひとまず民主的選挙制度の世の中だから、民衆の意識が変われば権力社会だって変わらざるを得なくなる。現在の彼らが民衆を無視して政治をしているのは、民衆の意識もまた他愛なく戦後の高度経済成長によって形成された新自由主義的拝金主義的近代合理主義的な社会システムに洗脳されてしまっているし、嘘の世界にまどろんでいたいという怠惰で横着な心性の伝統も持っている。

とはいえ明治維新にしても、民衆社会の「ええじゃないか騒動」や「おかげ参り」等々のムーブメントの盛り上がりに押し上げられながら起きてきたことだったわけで、民衆社会の「祭りの賑わい」のような「盛り上がり」があれば時代は変わる。

この国の権力社会は、大和朝廷の発生以来もともと自立的主体的な存在ではなく、天皇と民衆社会のあいだに寄生するようにして存在してきたわけで、明治維新の幕府対薩長の戦いだって、けっきょく天皇に寄生していったほうが勝利したのだし、そのとき彼らは天皇に寄生することによって戦争の士気が増大することを実感したにちがいない。そしてそれは、民衆を支配する力を手に入れることでもあった。

われわれは天皇を権力者の手から取り戻さねばならない。われわれは今、明治以来の大日本帝国に先祖返りするか、新しい時代に漕ぎ出すかの岐路に立っている。

これはたぶん、天皇制の問題でもあるのだ。

ただ、この国の伝統=歴史風土のことを考えれば、天皇制を失くせばいいという議論は差し当たって成り立たない。天皇に責任はない。天皇は「神」ではない。それが天皇という存在の本質であり、絶対的な「法」によって人を支配する「神=ゴッド」を持たない歴史を歩んできた日本列島の民衆社会は、他愛なくときめき合い助け合いながらなんとなくの「なりゆき」で社会を運営してゆくためのよりどころとして、さしあたって「神=ゴッド」ではないところの「かみ=天皇」を「祭りの賑わい」とともにみんなして祀り上げていった。「神ではない」ことが、天皇が「かみ」であること証しなのだ。

「かみ」は「人間」であり、「人間」が「かみ」になる。「かみ」を漢字で書けば「上」であり、古代の大和朝廷発生以前の時代のことを「上代(じょうだい=かみよ)」という。すなわち古代の人々は、昔の時代ことを「かみのよ」といった。それが人間の世の中だったことは当然だが、「かみの代」は「神の代」と記すこともできるのであり、そうやって「古事記」という神話が生まれてきた。

したがって、戦後の天皇による「人間宣言」はまさに天皇ほんらいの姿に戻ることだったのであり、民衆はそのことに何の違和感も持たなかった。そしてそれは、天皇を民衆の手に取り戻すことだった。

なのに今また、戦前の大日本帝国に逆戻りしようとしている。

明治以来、天皇が右翼思想の玩具にされてきたことが問題なのだ。大和朝廷発生以前の天皇は、民衆社会が他愛なくときめき合い助け合うためのよりどころとして生まれてきたのであり、その原点を改めて問うてみることは無駄ではないのではないだろうか。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

あきれ果てて、ものも言えない

承前

空々しい「緊急事態宣言」なんか出されても、なんのこっちゃ、という話である。

僕はすでに老人だし不健康な生き方をしてきたから、もしもコロナウイルスに感染したら、志村けんのようにあっという間に死んでしまうにちがいない。

それでも、とくに切迫感とか恐怖というようなものは湧いてこない。おそらく、感染してかはじめてうろたえるのだろう。

まあ、世の中のほとんどの人がそんなところかもしれない。それに若くて健康な人は、感染しても重篤化しないといわれているから、なお平気でいられる。

また日本列島には、死に対して親密な文化の伝統がある。だから権力者はもともと民衆の命と生活を守ろうというような心意気というか責任感など持ち合わせていないし、民衆自身も守ってもらえるとも思っていない。そもそも歴史の無意識として、自分の命を守ろうとする意欲が希薄な民族なのだ。

われわれにとって大切なのは、自分の命を守ることではなく、自分の命をどう使うかということだ。つまり、貯金なんかしない、欲しいものを買う、というようなこと。それが、人として生きものとしての本能であるらしい。

自分のお金を減らさないためには貯金をするのがいちばんであるように、自分の命を守るためには、自分の命を使わないことがいちばんだ。したがって「自分の命を守るために自分の命を使う」という本能は原理的に成り立たない。

自分の命を使うことは自分の命を消費することであり、「死んでゆく」ことだ。自分の命を使って息をしたり飯を食ったり体を動かしたりすることは、それ自体「死んでゆく」行為でもある。

「生きる」という行為は、「死んでゆく」行為なのだ。

死に対する親密な感慨がなければ、生きるという行為は成り立たない。

根源的には、「生きようとする本能」などというものは存在しない。生きることは命を消費して死んでゆく行為であり、「生きたい」ということは「死にたい」ということでもある。この生のはたらきは、死んでゆくはたらきである。それはもう、哲学的にも生物学的にもそうなのだ。

われわれがときどき「死にたい」と思ってしまうのは生きものとしての本能であり、それ自体この生の命のはたらきから生じてくる感慨にほかならない。

そりゃあ死にそうになったら多くの人があわてふためくのだけれど、それが人間性の本質だとはいえない。われわれが「生き延びたい」と願っているのは「自我」という観念であって、「命=身体」のことを想っているのではない。

身体を動かすことは身体のエネルギーを消費することであり、エネルギーが大切で貯め込もうと思うのなら身体を動かすことはできない。身体を動かすことは身体を「空っぽの空間」として扱うことであり、筋肉に貯め込んだエネルギーが大切で失くしたくないのなら、身体なんか動かせない。身体を動かすことは、身体を忘れてしまうことだ。人は足のことなど忘れて歩いているから、どこまでも歩いてゆける。そうして、足が耐えがたいほど痛くなってしまっていることに気づいて顔をゆがめ、ようやく歩くのをやめる。生きるいとなみだって、まあそのようなことだ。死ぬ直前になって、はじめて命のことを想う。

 

「生きる」といういとなみの根源は、「命」のことを忘れてしまうことの上に成り立っている。つまり人は、「自分は死んでしまうかもしれない」ということを切迫して感じることはできない、ということだ。そしてそれが確定したときに大いにうろたえる。しかしそれでも最終的には、もともと「命」のことを忘れて身体を「空っぽの空間」として扱いながら生きている存在だからその事実を受け入れることができる。心配しなくてもいいんだよ‥…ということになる。

したがってたとえコロナウイルス感染が蔓延しても、すべての人が自分の命を心配して外出を自粛するとはかぎらない。もし自粛するとすれば、自分がすでに感染して「ほかの人に移すわけにはいかない」と考えたときだ。

意識はつねに何かについての意識である……これは現象学の定理であるが、つまり「意識は二つのことを同時に意識することはできない」ということを意味する。二つのことを同時に考えているようなときでも、じつはそれぞれを交互に思い浮かべているのだ。

であれば、われわれは、自分のことと他者のことを同時に思い浮かべることはできないのであり、他者のことを思い浮かべているときは、自分のことは忘れている。言い換えれば、自分のことを忘れているときには他者のことを思い浮かべている、ということ。すなわち、自分の「命」のことを忘れて生きている存在であるわれわれは、つねに他者のことを思い浮かべて生きている存在でもある、ということだ。他者のことを思い浮かべていなければ、生きていることにならない。

人は、他者が生きていて(存在していて)くれないことには自分が生きてあることのできない存在であり、自分が生きてあるためには自分(の命)のことは忘れていなければならない……人は根源において、自分の命を他者に捧げている存在である……まあ突き詰めて考えれば、そういうことになる。

したがって、「自分の命を守るために外出を自粛してください」という要請は、人間の本質にかなっていない。自分の命なんかどうでもいい、大切なのは他者の命なのだ……人は根源においてそのようにして生きている。それはもう、倫理道徳の問題ではない。生きものとしての命のはたらきにおいてそうなのだ。

 

命のはたらきとは「エネルギーを消費する」ことであり、「死んでゆく」ことである。あの有名な『利己的な遺伝子』の著者であるリチャード・ドーキンスは、生物とは「生存機械」であるといったが、そうではない、それは「死んでゆく機械」であり、「遺伝子」だろうとそれを構成するひとつひとつの原子だろうとそれ自体では生存=存在することができずに他者の生存=存在を必要とするのであれば、根源において「利他的」なはたらきであるというべきではないだろうか。

遺伝子とはいくつかの原子が集まった分子のことをいうわけで、そのこと自体が「利他的」であることを意味している。遺伝子=分子だってそれ自体では生きられないから無数に集まって、ついには人間や猿や鳥や魚や虫や花や草木になっていった。こんなことは、小学生でもわかる理屈ではないか。

またライオンは食料となる草食動物がいないと生きられないし、すべての動物は植物が二酸化炭素を吸って酸素を吐き出してくれないと生きていられないのであり、そうやって「生物多様性」が構成されているのであれば、それはべつにドーキンスがいう「利己的な生存競争」の結果だとは僕は思わない。

ここでは詳しくは書かないが、「適者生存」というダーウィニズムおよびナイーブな生命賛歌を基礎にしたドーキンスの思考=認識は根源的原理的に間違っている、と僕は考えている。

ライオンの死は、バクテリアの生存を助けている。すべての死は、すべての他者の生を助けている。これが「生物多様性」の原理だろう。まあ、女が子を産み育てることだって、原理的にはみずからの死と引き換えに他者を生きさせる行為なのだ。

すべての生命体は「やがて死んでゆく」という前提の上に存在しているのだし、人間だって本能的無意識的なところではその前提で思考し行動している。それはもう、生命が素晴らしいとか素晴らしくないとかということとは別の問題であり、そういう事実があるというだけのことだ。

命は「利他的」なはたらきであり、生きものは自分の命を投げ捨てて(=忘れて)他者を生きさせようとする本能を持っている。つまり、個体であろうとその中の遺伝子だろうと遺伝子の中の原子であろうと、存在それ自体が「利他的」であるということ。それが、ドーキンスいうところの「生きものは<自己複製子>をつくる」ということだろう。

 

疫病が広がれば、多くの人が人間性の自然に立ち還る。あのトランプやボリス・ジョンソンでさえ立ち還るのに、この国の総理大臣をはじめとする政府官僚ばかりがなぜ立ち還れないのか。それは、この国の伝統がいかに蝕まれているかということを物語っている。もともと伝統文化として世界のどこよりも人類の原始性を洗練させてきたはずのこの国において、それがもっとも失われようとしている。まあ、「洗練度」が高いからこそ、「脆弱」だという一面も持っている。そこが、この国の文化伝統の危うさだろうか。

疫病対策の本質は、他者(=どこかのだれか)を生きさせるためのいとなみであり、もともと人は「自分が生き延びるため」という目的を切実に持てるような存在ではない。だからこんなご時世でも年寄りがらふらと花見に出かけてしまうし、サラリーマンは危険を承知で満員電車に乗って出勤することができる。何より医者や看護婦は、よく逃げ出さずにやっていられるものだと思う。彼らの献身性にこそ人間性の本質があるわけで、現在のこの国の政府官僚をはじめとするどこかの犬畜生以下の人間たちを基準にして人間性を考えることなんかできない。

命のはたらきとは死んでゆくはたらきであり、死んでゆく(=エネルギーを消費する)かたちで活性化する。この地球上の生物は、みずからの死と引き換えに他の生物を生きさせるというかたちで進化してきたのであり、そうやって現在の生物多様性が成り立っているし、そうやって人間の「献身性」が成り立っている。

われわれは今、世界でもっとも「献身性」の希薄な者たちにこの国の運営を任せている。この国はもう、滅びるしかないのかもしれない。しかし、滅びることはめでたいことで、滅びたのちに生まれ変わる。

現在のこの国は世界でもっともダメな国らしいが、滅びたのちに世界でもっとも早くポストモダンの新しい時代を迎えるのかもしれない。

まあ、滅びるほかないようなダメな国になってしまうのも、この国の歴史風土なのだ。現在の支配者たちがどれほど醜悪であろうと、戦前戦中の支配者たちだって大差なかったのだし、古代の大和朝廷の発生以来何度でも見てきた顔にちがいない。そして民衆がそれを許してしまうのも、つまりは死に対して親密な文化の歴史を歩んできたこの国の伝統であり、いいとか悪いとかということ以前の問題だ。

西洋には受難を克服しようとする文化の伝統があるのに対して、この国では受難を生きることそれ自体を洗練させてゆこうとする文化の伝統がある。

 

人は、死に対して親密な存在であるがゆえに、利己的にも利他的・献身的にもなる。

この世のすべてのことは許されるのだろうし、政治経済オンチである僕にはもう、現在の政府官僚がとっているこの事態の対策のいかがわしさがどこにあるのかということはよくわからない。ただ、底知れないほどにニヒルで冷酷な思考や態度であることは、なんとなくの直感としてわかる。彼らには、人間として生きものとしての感受性が決定的に欠落している。

無常ということ……あはれ・はかなし……すべてはゆめまぼろし……日本文化の美しい伝統には、ひとつ間違えばそういう無残で無機質な人間を生み出してしまうという側面があるらしい。まあ、ただ小ずるいだけだ、ともいえるわけだが、彼らは人間性の自然である利他性=献身性をすっかり失くしてしまっている。人の心を持っていない。人の心は環境世界によってつくられるわけだが、現在のこの国の権力社会は、人の心が生まれてくるような環境世界になっていない。この国の人の心は、民衆社会の伝統において生成しているのだが、現在のこの国の権力社会の心はあまりにも民衆社会から乖離してしまっているし、民衆社会もまた伝統が大きく蝕まれている。

こんなときに「マスク二枚でどうだ!」といってドヤ顔するなんて、気が狂っているとしか言いようがない。108兆円の事業規模だといっても、中身のないただの目くらましにすぎない。じっさいに国が支出するのはその20パーセント以下で、世界中の国でやっている個別の現金給付をしようというつもりはさらさらなく、国民なんか安っぽい精神論でごまかしてしまうことができると彼らは思っている。その卑劣さは、人格がどうの思考力がどうのという以前に、現在の権力社会は、政治家も官僚も資本家もだれもがそういう発想をしてしまうような構造になっているからだろう。総理大臣はまわりから進言されたことをうのみにしているだけで、彼にはこの程度の対策ではどうにもならないということを判断できる能力を持ち合わせていない。悪意を持った確信犯はまわりの者たちで、総理大臣自身は、悪意も愛もないただのの空っぽの「器」にすぎない。だから、こんな空疎な対策をなんの後ろめたさもなく自信たっぷりのドヤ顔で差し出すことができる。まわりの者たちからしたら、まことに使い勝手のいい「道具」なのだろう。

まあ、だれもが平穏無事に生きていられる世の中ならともかく、彼らの政策でこの非常事態を乗り切れるはずがない。いろんな意味でこの国が「焼け野が原」になって、はじめてだれもが目覚めるのだろうか。

世界中のどれほど強権的な独裁者でも、現在のこの国の権力者たちに比べたらずっと人間的だ。

 

あの総理大臣以下の現在の愚劣で醜悪極まる権力者たちのことを思い浮かべただけで、ほとほといやになってしまう。こんなこと書いていてもむなしいばかりだ。僕のような無知な人間が何を書いてもどんな情報も与えられないし、だれを説得できるわけでもない。それでもこのこと以外のことを書いてはいけないような強迫観念に責められるのは、なぜだろう。

もしかしたらそれは、われわれが今、太平洋戦争の敗戦前夜のとき以来の大きな時代の転換点に立たされている……という思いがあるからかもしれない。あのときの政府も軍も官僚たちも、愚劣で醜悪極まりなかったはずだ。

この国の権力社会は、非常事態になるといつだっていつだって愚劣で醜悪になり、民衆もそれに引きずられてしまうことになるらしい。ふだんは権力社会と民衆社会に「契約関係」がないお国柄だから、民衆社会は国家に対する要求の仕方をよく知らない。だから他愛なく引きずられてしまうし、国家もそれをいいことに民衆に忖度するということをしない。そうやって太平洋戦争のあの無残な敗戦へと雪崩のように崩れ落ちていった。

今回も、こんな場当たり的で中身のない対策ばかり繰り返していたらきっとあのときと同じ結末になるだろう、と多くの識者が指摘している。

それはそれでかまわない。滅びてゆく(=死んでゆく)ことこそこの生の本質なのだ。

ただ、僕のように社会に背を向けて生きてきた人間でも、「時代の終わり」を目撃したいという思いがある。

この国はもう、完全に「自滅」のフェーズに入っている。総理大臣をはじめとする政府や官僚や資本家たちやネトウヨの知識人や庶民などはもう冷酷な差別主義者として完全に狂ってしまっているし、ご都合主義・日和見主義のマスコミや偽善的な知識人や富裕層などもたくさんいて、それを許してしまっている時代の空気がある。

われわれはもう「こんな国、さっさと滅びてしまえ」と呪うしかないのだろうか。

疲れた……。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

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初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

疫病の哲学

「感染爆発(オーバー・シュート)」などといっても、この国で完全な「都市封鎖」というのは難しいらしい。

法律的な問題だけでなく、歴史風土としての国民のメンタリティとか社会構造とかの問題もある。

四大文明発祥の地をはじめとする大陸の古代都市はひとまず「城塞」に囲まれた大集落として生まれてきたのだが、この国の最初の都市である奈良盆地の大和王朝の大集落には「城塞」がなかった。異民族に都市が侵略されるという歴史を歩んでこなかったからだ。戦国時代だって、城が攻められたときでも城のまわりの都市は比較的安全だった。また、ヨーロッパにおけるユダヤ人を閉じ込めた「ゲットー」のような都市をつくったこともない。

この国には「都市封鎖」の伝統がない。そして村に疫病が流行したときには、民衆による自治運営のシステムが発達していたから、村が自主的に封鎖状態になってやりくりしてきた。

今回、東京都の知事が外出の自粛要請をするばかりで強制的な命令を下さないのも、そのための経済的な補償をしたくないということもあろうが、民衆が自主的にそういう状態をつくってきたという歴史的ないきさつというか伝統もある。

この国の権力社会には、民衆を守ろうとする「愛と献身」の伝統がない。この国には、あんな愚劣で醜悪な支配者を生み出してしまうような社会構造の伝統がある。

権力社会と民衆社会が「契約関係」でつながっている欧米の社会は、どんなに愚劣で醜悪な支配者でもいざとなったら民衆に対して「愛と献身」の態度を示すほかないようにさせる伝統がある。それをわれわれは、今回のコロナウイルス騒動で思い知らされた。世界に比べてこの国の支配者の判断はなんといじましく愚鈍で卑劣であることか。このまま事態が進めばとんでもない悲劇的終末(カタストロフィ)が待っているかもしれないし、日本列島の住民の心には、そういう「滅び」を待ち受け抱きすくめてゆくという歴史の無意識が宿っている。だから、愚劣で醜悪な支配者を許してしまう。

ここまで来ても、まだ能天気でいられる日本人がたくさんいる。それは、ただ自己中だからとか情報を知らないからというだけでは説明がつかない。

国なんか滅んでしまえばいい。自分も国もろとも滅んでゆけるのなら、それはそれでめでたいことかもしれない……それが「無常」という日本人の世界観・生命観の伝統であり、たたえず「新しい時代」への扉を開くイノベーションを生み出してきた人類普遍の世界観・生命観でもあるのかもしれない。

 

今回のコロナウイルス騒ぎは、政治や経済だけの問題ではなく、文化の問題でもある。命とは何かとか、人間とは何かということを考えさせる問題でもある。

この国の政治や経済の支配者たちはろくでもない人間ばかりで、文化のシーンをリードする知識人たちの言うことだって、なんだかあまり信用することができない場合が多い。

まあ人間そのものがろくでもない生きものだともいえるわけだが、今やこの新型コロナウイルスは、人間のつくった文明社会だってろくでもないしろものだということを世界中に教えてくれている。

このウイルスは、文明社会が生み出した。この文明社会がろくでもないしろものだということを教えてくれる存在として生まれてきた。放射能だって、まあそういう存在であるのかもしれない。

人間も文明社会もろくでもないしろものであり、その前提の上に立って人間は生きはじめる。

生命の尊厳とかより良い社会をつくろうといってもしょうがない。そんなものは人が生きることの前提にならない。そんなスローガンを掲げて人と人は殺し合い、国と国は戦争をする。

何もかもろくでもない、意味も価値もない。そして意味も価値もないことが生きてあることの意味と価値なのだ。その「空虚」こそが意味と価値であり、意味と価値は「空虚」なのだ。これは、僕の勝手な屁理屈ではない。現在の最先端の科学や哲学がそういっている。すべての物質は隙間だらけのスカスカの「空間」であり、哲学者だって「自己=主体」などというものはないといっている。

 

われわれの「意識」が根源において認識している自分の「身体」は、中身のない空っぽの「空間」であり、その「輪郭」に対する認識を基礎にして生きはじめる。身体を「物体」と認識しているのは空腹とか息苦しさとか病気とかの身体に「苦痛」が宿っているときであり、われわれはそういう身体の「物性」を忘れて身体を動かしている。身体を動かすということは、身体を空っぽの「空間」の「輪郭」として扱っているということだ。言い換えれば、この「輪郭」をうまく認識することができなければ、身体はうまく動かせない。その「輪郭の認識」が運動神経になる。ポール・ヴァレリーはこれを「第四の身体」と言い、この身体のことがわからなければ身体論の問題を解き明かすことはできない、とも言っている。

人間だけでなくすべての生きものは「身体」という「主体」を持っていない。言い換えれば「身体」という「主体」は、「物体」ではなく、「空っぽの身体」としての「空間の輪郭」である。

われわれにとって「死」の恐怖は「身体という物体」が滅びることにあるのではなく、「自己という主体」が消えてなくなることにあるわけだが、しかしそれは文明社会のたんなる制度的な観念にすぎないのであり、根源的な意識においては「自己という主体」を持っていない。だからこの世に死を怖がらない人はいくらでもいるし、どんなに死ぬのが怖いと悪あがきをしても最後はたいていの人がそれを受け入れる。

人は根源において死に対する親密な感慨を抱いている。だからこそ他者に対して「生きていてくれ」と願い、その死に深くかなしむのであって、死が怖いからではない。つまり、他者が生きていてくれないことには、みずから生の根拠を見出すことができないのだ。

みずからの生の根拠は、他者を生きさせることにしかない。だからみずからの命を投げ捨ててでも、他者を生きさせようとする。みずからの命を投げ捨てることが、この生の根拠なのだ。つまり、「もう死んでもいい」という勢いでい生きるいとなみが起きている。そうやって人を好きになるし、プレゼントをするし、看病や介護をする。

「もう死んでもいい」という勢いがなければ、看病や介護はできない。女が看病や介護が得意なのは、死に対して親密で「もう死んでもいい」という勢いを男よりもはるかに深く豊かにそなえているからであり、セックスだって「もう死んでもいい」という勢いでするから男よりもはるかに深く豊かなエクスタシーを汲み上げることができる。

死に対して親密だからこそ、他者を生きさせようとする。根源的には、他者を生きさせなければ人間の生なんか成り立たないのだ。

 

自然淘汰」という言葉があるが、人間以外に疫病対策をする生きものはいないだろう。

では、それは不自然なことか?

そうではない。

不自然な文明社会が疫病によってはじめて生きものとしての自然に目覚める、ということだ。そして、この国の政府官僚だけがそこに還ることができなくて、いつまでたってもぐずぐずと手をこまねいている。やっているふりだけはしても、肉や魚の商品券とかマスクが二枚だとか大企業の株価対策に国費を投入するとか、自分たちの利権に絡んだいじましく意地汚いことしか思い浮かばないらしい。

彼らには、「民衆」すなわち「どこかのだれか」の暮らしと命のことを想う、という人として生きものとしてのきわめて基本的な心の動きがなく、自分のまわりの利害関係者とのことしか頭にない。こんな非常事態になっても、彼らの頭に染みついた思考はまだそこから一歩も踏み出せない。

人間は、根源において、猿よりももっと生きものとしての自然に遡行した思考ができる属性をそなえている。つまり、誤解を恐れずに言えば、人類学の延長としてのチンパンジーやゴリラの研究よりもさらに基礎的な「生物学」の方がより「人間性」の本質に迫ることができる可能性を持っている、ということだ。

法律には「実定法」と「自然法」があるといわれており、この「自然法」とは歴史的伝統的な「慣習および常識」のことを指すらしい。そしてその「伝統」=「慣習および常識」は、猿の生態を基礎にしているのではなく、もっと根源的な「生きもの」としての「命のはたらき」を基礎にして形成されてきたのだ。

今回のコロナウイルス感染に際して世界は、強欲な支配者や資本家たちだってみな一定の「生きものとしての自然」に遡行する反応を示したが、この国の政府官僚や資本家たちだけが一緒になってぐずぐずと事の重大さを先延ばしにして、まともな手立てを打つことをしてこなかった。今からでも間に合うのかどうかわからないが、あの連中の醜悪さをいやというほど見せつけられた、という思いはぬぐえない。

 

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かなしいコロナウイルス

このブログの現在のテーマは天皇制を中心にした日本文化論であったはずだが、ここにいたってはもう、何かコロナウイルスのこと以外のことを書いてはいけない気になってしまう。しかも、現在の政府や官僚の対応があまりにも愚劣で醜悪で、なんだかありえないことが起きている夢の中にいるような心地になってくる。

今どきの社会心理学においては、「リスクコミュニケーション」という命題があるらしい。すなわち、人々や社会の対する「愛と献身」の心意気で対話や議論を重ねながらその社会的リスクをできるかぎり回避しようとすること。カミュの『ペスト』などを読めばわかるようにヨーロッパにはそういう共同体の文化の伝統があるが、この国においては極めてあいまいだ。というか、「国は何もしてくれない」というのが伝統なのだ。

現在の世界的なコロナ感染に対して、世界は過剰に反応しているのに対して、この国の政府だけが過少に扱ってきた。生物兵器だか何だか知らないが、もしもこのウイルスがどんなに凶悪なものかということを世界中の支配者が知っているのだとしたら、この国の支配者だってそれ相応の対策を取ったにちがいない。武漢の情報は、1月の早い段階で官僚たちが収集していたはずだ。それでも積極的に検査をすることもなく「たいしたことはない、オリンピックは必ずできる」という態度に終始してきた。それはきっと、このウイルスがどうのという以前に、この国の権力者のメンタリティや生態の特異性の問題であり、世界の支配者だってこのウイルスの正体はよくわかっていないのかもしれない。しかしわかっていなくても、彼らはできるかぎりの対策を取ろうとしている。

ペストの致死率は70パーセントくらいだったらしい。それに比べたら今回のコロナウイルス肺炎の致死率は、それほど高くはない。それでも世界(特に欧米)の支配者たちは大いに警戒する態度を取った。

今回の伝染病の特徴は、致死率はそれほど高くなくてもかんたんには終息できないことにあるらしい。だから中国の支配者は、あえて武漢を封鎖するということに踏み切った。それをしないと、中国が世界中から悪者にされてしまう。だから、真っ先に収束させた、というところを世界にアピールする必要があった。習近平にすれば自国の人民が死ぬことなんか大した問題ではないが、共産党支配の正当性が危うくなるという心配があった。武漢を封鎖するということは武漢の人民を見殺しにするということで、そうやって事態の早期収束を目指した。武漢の実際の死者の数は、共産党発表の10倍あるいは100倍だといわれたりしている。とにかくまあ、彼らは秘密主義だから、正確な数はわからない。

この国の感染者数だって、そもそもほとんど検査をしていないのだからわかるはずもないし、検査を受けないまま肺炎で死んだ人はたくさんいて、その人たちも感染者かもしれないという前提で葬っているらしい。

この国が検査をしたがらないのは、オリンピックをしたいからということもあるが、てきとうにごまかしておけば民衆が大騒ぎすることはないと多寡をくくっているからだ。何しろ「民衆革命」が起きたことがないお国柄で、政府の発表をナイーブに信じてしまう民衆が一定数いる。それほどに支配者と民衆とのあいだに乖離があって、民衆には支配者を監視しようとする意識が希薄だ。だから、支配者になめられる。何しろ50パーセントが選挙に行かないのだもの、なめられるに決まっている。

われわれは、完全になめられている。野党はすっかり弱体化してしまっているし、現在のこの国の政府に圧力をかけることができるのは、世界の情勢だけかもしれない。世界からすっかり幻滅され孤立してしまえば、そのときようやく目覚めるのかもしれない。

 

まあ、本格的な防疫対策を取らなくても、この国の人口が劇的に減少するということもないのかもしれない。ほとんどの人は感染しても無症状だし、多少の症状が出ても治癒に向かう。免疫力の弱い人だけが重症化して死ぬ。とすれば、普通のインフルエンザとたいして変わりない。もともと老人が多すぎる国だし、国の経済のことを考えれば、老人の人口が減少することはべつに悪いことではない。生物学的にも「自然淘汰」の範疇だと言えなくもない……そういう考えは許せないといっても、そういう政府なのだからしょうがない。

人が死ぬことは、幸福でも不幸でもない。ただ、人は他者の死を深くかなしむ存在である、ということがある。そういう無意識を持っているのが人間であり、だから今、世界中がコロナウイルスのことで大騒ぎになっている。

「伝染病が発生する」とは、どこかでだれかが死んでいっていることに心が大きく動揺する、という体験なのだ。人の死はいつのときでも世界中であたりまえに起きていることだが、ふだんは忘れている。が、伝染病によって改めてそのことに気づかされ、大いにうろたえる。うろたえないのは、そんな人間としてのあたりまえの感性がすっかり鈍麻してしまっていることを意味する。トランプや習近平でさえどこかでだれかが死んでいっていることに動揺し、それなりの対策を講じようとしているのに現在のこの国の支配者たちだけが能天気を決め込み、その場しのぎのあいまいな対応に終始しており、世界中がそれに幻滅し苛立っている。こんなことを続けていたら、民衆は衛生的にも経済的にもますます窮迫してゆくし、この国自身が世界中から敵視されてしまう。何はともあれ中国の習近平はそのことを察知して「武漢閉鎖」という思い切った手を打ったわけだが、この国の政治経済の支配者たちは、いざそのことが現実になるまで気づかないにちがいない。何しろ四方を荒海に囲まれた島国に孤立している歴史を歩んできた民族であれば、他国(=異民族)と敵対し争うことも仲良く連携することもよくわかっていない。

民のことを想う支配者が育ちにくいのが、この国の歴史風土なのだ。つまり、民を異民族から守ってやる必要もなければ、民とともに異民族と連携してゆく必要もなかった。したがって民もまた、支配者に対する関心や要求を強く抱く伝統がない。

この国の支配者には、世界と連携しようとする意識も、民衆を守ろうという意識もない。民衆なんか放っておいても自分たちでなんとかするだろう、というくらいにしか思っていないし、世界における自分の国の役割というものもちゃんと考えることができない。だから外交交渉が下手くそなのだし、民衆に対してだって、一方的に支配するだけで、調和した関係を結ぶということがうまくできない。

 

日本列島にはコミュニケーションの文化がない、というのではない。権力者と民衆のあいだにはそれがないというだけのことだし、権力社会にはコミュニケーションの文化がない、というだけのことだ。だから国会の議論が平板でつまらないのだし、外交交渉が下手なのだ。現在は、そういうこの国ならではの権力社会の非人間的な野蛮さが民衆社会にまで下りてきて、もともと民衆社会に根付いてきたコミュニケーションの文化の伝統を侵食している。現在の無能な政権与党や強欲な大企業資本家等によって、そうしたコミュニケーションを喪失した社会構造がますます加速してしまっている。

しかし民衆社会の伝統が消えてしまったわけではないし、たとえば政治権力が今とは逆向きの民衆に寄り添った勢力へと反転すれば、時代の気分も社会の構造もあんがいかんたんに変わる可能性がある。

日本列島にコミュニケーションの文化はあるのだ。あの大震災のときに人々が混乱や暴動を起こすことなく粛々と連携していったのは、まさに日本的なコミュニケーションの文化の伝統にほかならない。

コミュニケーションとは心を通い合わせること。言葉によるコミュニケーションとは言葉を捧げ合うことであり、言葉とは本質において他者への「捧げもの」なのだ。

伝染病だって、ひとつのコミュニケーションだろう。だから、世界中の支配者が今、国は国民のために何をなしうるかということを本能的に模索しているというのに、この国の支配者たちだけがあいまいな態度に終始して世界中から幻滅され批判されている。ほんとに彼らは、どうしようもなく鈍感で無能だ。そして支配者が鈍感で無能でも国のいとなみは何となく回ってゆくという伝統がこの国にはある。この国には、支配者と民衆のあいだに「契約関係」がない。

とくに現在の支配者たちは極め付きの鈍感で無能だから、国が国民のために何かをするということなど、ほとんどあてにできない。また、現在のコロナウイルス対策で政府の言っていることのほとんどは、「要請」という名目の「民衆どうしの協力で守れ」というようなことばかりである。

この国の社会は、権力者と民衆のコミュニケーションが希薄であるという関係性を歴史的構造的に抱えている。

 

われわれは政治の話など嫌いだ。それは、民度が低いからではない。民衆社会のことは権力者など当てにせず民衆どうしでやってゆくという意識が高いからだし、そういう歴史を歩んできたのだ。この国の民衆は、そういう歴史の無意識を抱えている。だから、インテリだろうと無知な民衆だろうと金持ちだろうと貧乏人だろうと、選挙に行かない人がとても多いし、こんなにも無能で醜悪な政府を許してしまう。

われわれは「民衆どうしの協力で守れ」といわれてうなずいてしまう。とはいえうなずいても、地域社会のコミュニケーションの文化の伝統があやしくなってきている御時勢だから、協力や連携がまるでできていない。

どうしてこんな世の中になってしまったのだろう。たしかにろくでもない政府だが、民衆社会の退廃がそれを許してしまっている。選挙に行かないということだけではない。こんなにも腐敗した自民党政府がいいとか自民党政府でもかまわないと思うような怠惰な心の民衆が3割も4割もいるということが、すでに絶望的だともいえる。

選挙に行かない者たちを責めても説得しようとしても、彼らを投票所に向かわせるのはけっしてかんたんなことではない。彼らの半分は、意識が低いのでも関心がないのでもない。政治なんか嫌いだ、というかたちで関心を寄せているのだ。彼らを投票所に向かわせるために必要な情報は、政治についての知識を与えることでもなければ、正しい政策を提示することでもない。すでに知っていようといまだに知らなかろうと、彼らはそんな情報などほしがっていない。

この国の投票率の低さは、たしかな民衆社会の集団性(=コミュニケーション)の文化の伝統を持っていることの証しでもある。

では、どうすれば投票率が上がるのか?

まあ、罰金制度にするとかネット投票ができるようにするとかいろいろ方法はあるだろうが、「嫌われ者」である現在の政権がそんなことをするはずがないし、なんのかのといっても投票に行く者たちの半数近くは現政権に投票してしまうのだ。

現状では、投票に行く者たちの意識が変わらなければ、この醜悪な政権が倒れて新しい時代がはじまるということはない。しかし因果なことに彼らは本質的に変わりたがらない者たちであり、やはり変わることができる者たち、すなわち新しい時代を受け入れることができる者たちが選挙に参加してこなければならないのだろう。そしてこの者たちの心を動かすのは正しい政策ではなく魅力的な政治家の登場なのだ。彼らはもともと政治なんか嫌いなのだから、そのとき選挙は政治的な手続きというよりも、「祭り」のイベントとして盛り上がっていかなければならない。

新しい政治が生まれることは古い政治が滅びることであり、政治が滅びることが新しい政治が生まれることだ。新しい政治が生まれる選挙は政治を滅ぼす選挙であらねばならないのであり、したがってそれは「政治的な手続き」としての選挙ではなく、政治を滅ぼす「祭りのイベント」であらねばならない。

つまり、「政治の話なんか嫌いだ」という者たちがいなければ新しい政治は生まれてこない、

政治オタクが寄ってたかってしゃらくさい議論をしていても新しい政治は生まれてこない、ということだ。

「政治の話なんか嫌いだ」という日本列島の民衆社会の伝統は、必ずしも悪いことだけではない。それこそが新しい政治が生まれてくる原動力になったりもする。彼らは、この社会が政治によって動いているとは考えていない。この社会は人と人の関係(=コミュニケーション)の総体として成り立っている、と考えている。そういうことに豊かな体験をしてときめいたりかなしんだりしながら生きていれば、人を支配する政治という世界に対する関心はあまり強く湧いてこない。むしろ拒否反応になる。そんなわずらわしいことはごめんだ、と思う。この社会の片隅で生きていれば、それはごく自然な感慨ではないだろうか。

 

インテリだろうと無知な庶民だろうと、政治に関心のある者たちが政治をだめにしているという側面はたしかにある。

なぜなら政治とは人を支配することで、政治に関心があるということは支配欲が強いからだともいえる。もちろん社会に献身したいという願いで政治とかかわっている者もいるにはいるだろうが、政治家になって権力を持つとどうしても支配欲を膨らませてゆくことが多い。それはたぶん、もともと支配欲が強いくせにないふりしていただけなのだろうし、政治とは「愛と献身」の名のもとに人を支配することだ、ともいえる。

ともあれ今回の伝染病の蔓延という事態に陥ると、だれもが避けがたく「愛と献身」の思考や態度を余儀なくさせられる。ふだんは強欲なだけの権力者たちだって、世界中で「愛と献身」の態度を余儀なくさせられている。

なのにこの国の政府官僚や資本家たちだけが、自分たちの利権にこだわっていつまでたってもいじましく意地汚い態度を取り続けている。なんと愚劣で醜悪な者たちであることか。彼らは、現在のこの国の社会システムに寄生して甘い汁を吸ってきたそのぶんだけ、この非常事態においてその愚劣さと醜悪さをさらしてしまっている。たぶん、思考停止に陥って、どうしたらよいのかわからなくなっているのだろう。もともと利権を漁ることしか能のない連中なのだ。

トランプやボリス・ジョンソンでさえできる「愛と献身」が、どうしてこの国の総理大臣にはできないのか。彼はこの国の権力者の愚劣さと醜悪さの伝統をもっとも濃密に引き継いでいるわけで、それは、そんな権力者を他愛なく許してしまう国民性とはまた別の問題なのだ。民衆が許してしまうからこんな愚劣で醜悪な権力者があらわれてくるのだし、その「許してしまう」ことは必ずしもネガティブなことだともいえない。それだって、ひとつの「愛と献身」だろう。

なんともなやましい。

いずれにせよ、カミユの『ペスト』の物語のように、「愛と献身」がなければこの非常事態を終息させることはできないにちがいない。つまり、だれもが自分の命より他者の命を優先させる心意気を持たなければ、この事態に立ち向かえない。立ち向かう人がいなければ克服できない事態であり、権力者がその先頭に立たなければならないことを歴史の教訓として彼らは知っている。

疫病の歴史は世界中のどの地域でも持っているが、とくにヨーロッパはネアンデルタール人の原始時代以来もっとも広く頻繁に往来のあった地域であれば、世界でもっともその対策に苦慮し格闘してきた歴史を持っている。そんな歴史の無意識として、「愛と献身」の心意気を持たなければ克服できないということを骨身に染みて知っている。

トランプやボリス・ジョンソンに人間的な誠実さがそなわっているなどとはだれも思っていない。それでも彼らは、その歴史風土に促されながら、無意識のうちに支配者としての「愛と献身」の態度を実行しようとしている。

しかしこの国の歴史においては、疫病や飢饉に際して朝廷や幕府が献身的に民衆の面倒を見たということはない。いつだって地方の藩や村ごとの連携によってしのいできた。

この国の権力者は、民衆がみずからの「受難=死」を甘んじて受け入れる人種であることをよく知っているし、そこに付け込んで支配してゆくのがもっとも上手な政治であると考えている。

まあ日本列島は台風や火事や地震等の災害が頻発する土地柄であるが、それらはあくまで地域限定で起きることであり、日本列島全体の支配者が面倒を見ることではない、という伝統になっている。この国の権力社会には、民衆に対する「愛と献身」の伝統はない。昔も今も、地域的な藩や県や市町村の名君は数多いても、朝廷や幕府や政府の名君など二・三の例外を除いてまずいない。その伝統が、今回のコロナウイルス騒動によってみごとにあらわれている。因果なことに現在のこの国の総理大臣の愚劣さと醜悪さは、この国の権力社会の伝統そのものでもある。

こうなったらこの国はもう滅びるしかないのかもしれないし、「滅びる」ということを受け入れるのが民衆社会の伝統でもある。そうして、そのときようやく「新しい時代」がやってくるのだろうか。

 

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